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【SSW17:STORY】等身大の自分を歌う・わたなべ矢的

都内を中心に活動するギター弾き語りシンガーソングライター、わたなべ矢的(やまと)。ごく普通の学生時代を過ごした彼は、新卒として就職した会社で、仕事中心の生活に心折れてしまう。一度は失踪を試みるほど思いつめた彼が、立ち直って音楽活動を始め、2021年には年間161本ものライブを行うほどのめりこむに至った経緯とは。

就職と転職を経て、ボイストレーニングを始める

東京都出身のわたなべは、勉強に励みつつ、バスケットボールなどのスポーツも楽しむ、ごく普通の子どもだった。音楽を聞くことも好きで、中学生になると、友人とカラオケボックスに通うようになった。

「『カラオケで歌うのは楽しいな』ってところから、『楽器も弾けるようになったらカッコいいだろうな』と思い始めました」。

最初に興味を持ったのは、ベースだった。

「フロントマンをやるのは恥ずかしい、って気持ちがありました。でも高校に入って新しい友達ができて、一緒に軽音部に入ることにしたら、彼は既にベースを持っていたんです。『じゃあ、僕はギターにしよう』と決めました」。

とはいえ、高校時代は学業が忙しく、部活動にはあまり参加できなかった。本格的にギターを弾き始めたのは、大学へ進学してからだ。

「軽音サークルに入って、色んなバンドのコピーをしました。文化祭などのイベントごとに、Oasisとか、Mr.Childrenとか、スピッツとか。自分の好きなアーティストの曲を演奏していました。楽しかったですね」。

その後、大学院まで進み、24歳で就職。茨城県へ引っ越したこともあり、音楽は完全に辞めてしまった。

「とても大変な会社で、あっという間に、仕事中心の生活になりました」。

多忙な日々は、わたなべの心を蝕んでいった。

「仕事が嫌だ、行きたくない、という気持ちがどんどん強くなりました。ある朝、何もかもが嫌になって、当てもなく家を飛び出しました」。

会社にも家族にも一切連絡せず、まさに、失踪だった。

スマートフォンすら家に残し、本屋で地図を購入した。時にはコインランドリーへ立ち寄り、衣服を洗濯しながら、国道6号線沿いに歩き続けた。

約100km離れた実家に辿り着いたのは、出奔から2週間後のことだった。

「実家に帰ろうと思って歩き始めたわけじゃないんですけど、結果的にそうなりました。多くの人に迷惑をかけ、警察にも捜索願を出されていて、申し訳なかったです。ただ当時の自分としては、ぎりぎりの選択でした」。

この騒動を機に会社を辞めたわたなべは、一ヶ月ほど何もせずに過ごした。

「ぼけーっとしましたね。十分に休憩してから、社会復帰を考えました。まずは大学生の時にアルバイトさせてもらっていた塾で、少し働かせてもらって、リハビリをしました。それから転職活動を始めて、半年後に、今の会社へ再就職しました」。

やっとワークライフバランスが整い、落ち着いて生活できるようになった。すると今度は「何故、自分は生きているのだろう」という疑問が湧いてきた。2017年の春のことだ。

「やるべきことがなかったので、やりたいことを探しました。自分が好きなものについて思いを巡らすうちに、やっぱり音楽っていいなと思って、『ボイトレに通おう』と決めました」。

出会いに導かれ、本格的な音楽活動をスタート

ボイストレーニングスクールに通い始めたわたなべは、鈴木あい氏に師事した。彼女自身、ピアノ弾き語りシンガーソングライターとしてライブシーンで活躍するアーティストである。「知り合いにプロのベーシストがいたので、『いい先生いない?』って聞いて、紹介してもらいました」。

スクールへ通い始めて一年が経ち、発表会に出ると決めたことが、転機となった。「発表会でオリジナル曲をやろう、って話になって、曲の作り方を教わりました」。初めて完成させたオリジナル曲は、失踪時の思いや体験を綴った『国道6号線』だ。

以降、少しずつ楽曲を増やしていった。

「歌だけじゃなく、音楽理論やギターも習うようになって、ますます音楽が楽しくなりました。先生のライブを見るためにライブハウスへ行ったりもして、『自分もこんな風にライブをできるようになりたい』と思いました」。

夢への第一歩を踏み出したのは、19年初春のことだ。

「きっかけは、先生に、四谷天窓.comfortさんのオープンマイクを紹介してもらったことです。それから毎月1本か2本、オープンマイクやブッキングライブへ出るようになりました」。

19年夏には、1st Album『原点』を発売。「先生から『CDを作った方がいい』とアドバイスをいただいて、スクールでレコーディングしました」。処女作の『国道6号線』に加え、王道J-popの流れをくむ『ハロー』を収録し、名刺代わりの一枚となった。

ライブの本数も徐々に増やし、20年には、合計40本のライブに出演した。

「コロナ禍でも、自分なりに、できることから活動を本格化させていきました」。ライブを通じて腕を磨き、新たなお客さんやアーティスト仲間と出会う日々は、充実していた。同時に、悔しさを噛みしめることも増えた。

「僕と同世代のアーティストさんは、20代前半とか、早ければ10代から音楽をやっている人がほとんどです。みんな10年くらいキャリアがあって、素敵な演奏をしていて、30歳くらいから始めた僕とは、全然違うんですよね」。

負けず嫌いな性格のわたなべは、彼らとの差を埋める方法を考えた。

「とにかく、やるしかない。ライブの数をこなそうと思いました」。

がむしゃらに取り組んだ21年は、年間161本のライブに出演。ブッキングライブや企画ライブはもちろん、5月30日には板橋ファイト、10月17日には練馬ファミリーでのワンマンライブを敢行。見事に成功させた。

さらに5月2日には『ハロー』、9月22日『ファンファーレ』のMusic VideoをYouTubeにて公開。ライブだけでは伝えられない魅力を詰め込んだ映像作品となった。

これまでの活動を振り返り、彼は「人との出会いが大きかったですね」と語る。

「ライブを通じてお客さんに評価してもらったり、アーティスト仲間と親しくなったり、ライブハウスの店長さんとお話できるようになったり、Music Videoを作ってくださる方と知り合ったり。歌やギターの演奏という部分だけでなく、アーティストとして成長できたなとを実感しています」。

明るい未来を信じて、歌い続ける

5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?と訊ねると、彼は首をかしげた。

「去年の自分が、今の自分を見たら、びっくりすると思います。弾き語りを始めてからずっと、年を追うごとに、自分が変わっていくのが分かるんですよ。良い意味で、未来の自分を想像できません」。

一方で、「自分がやりたいことは、既に、達成しています」と語る。

「どうして僕が音楽やってるかって、人気者になりたいとか、いい音楽をやりたいとかって気持ちもあるけれど、なんといってもステージで歌っている瞬間が幸せだから。そういう意味では、もう、やりたいことはできているんです」。

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しかし、現状に満足はしていない。

「端的に言えば、今、音楽活動の収支は赤字です。会社員をやっている自分がいるから、ライブに出られるし、CDを出せているだけです」。

音楽を『お金をつかう趣味』にはしたくない、と考えている。

「好きなことをして、幸せな瞬間を得るために、普段の生活を削る状態は改善したいですね。難しいことですが、音楽活動で収益を上げていきたいです」。

そのためにも、よりアーティストとして成長し、挑戦していくつもりだ。

「今年は、少しライブの本数を減らして、楽曲やCDの制作に力を入れます。MVなどの映像作品も増やしたいです。とはいえ、5月にはワンマンが決まっているし、ライブハウスで歌うことが活動の基盤であることは変わりません。一つ一つのライブの質に、こだわっていきたいですね」。

ギター弾き語りという形態には固執していない。

「昨年のワンマンでは、ピアノとドラムのサポートを入れて、トリオで演奏しました。昔からバンドサウンドが好きなので、いつか『わたなべ矢的バンド』のような形でもワンマンライブをしてみたいです」。

一般的なアーティストよりも年齢を重ねてから音楽を始め、さらには、コロナ禍に突入してから活動を本格化させたわたなべ矢的。

しかし、彼は、全てをポジティブに捉えていた。

「正直、世の中も僕自身も、これから良くしかならないと思っているので、楽しみです。できるだけ長く、いい感じに音楽を続けていきたいですね」。

わたなべの笑顔は、実に爽やかだった。

text:momiji

Information

2022.5.01(Sun) Open 18:30 Start 19:00
わたなべ矢的 バースデーワンマンライブ
「ハッピーエンドをくりかえす」

[会場]Music Bar MELODIA Tokyo(東京都中野区弥生町1-9-3 B1F)
[料金] 前売 ¥3,500 / 当日 ¥4,000(+1D ¥600) / 配信 ¥3,000

1st MINI Album 『原点』

アルバム用ジャケット

弾き語り活動のきっかけとなる2曲を収録した作品。全2曲、¥500。

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