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【R16:STORY】雰囲気に寄り添うピアニスト・山本佳祐

シンガーソングライターの伴奏や編曲、ミュージカルのライブやゴスペルのバックバンドへの参加など、幅広く活躍するピアニスト、山本佳祐(やまもと・けいすけ)。「福岡生まれ山口経由千葉育ち」と自己紹介する彼がピアノと出逢った経緯と、今後の展望を聞いた。

人とコミュニケーションをとる手段として

福岡県で生まれた山本は、3歳のとき山口県に引っ越し、小学校1年生までを過ごした。2年生の春に千葉県市川市へ移り、5年生の夏には八街市へ。高校卒業後、東京で暮らすようになってからも、4回の引越を経験している。

「色んなところをまわってきました。楽しかったけれど、転校のたびに友達と離れるのは寂しかったですね。新しい友達を作るのも大変だし」。

幼少期は、とてもやんちゃだった。「小学校低学年のころは『急にいなくなるから』って、鈴をつけられていたくらいです」。

その反動か、中学生になると、無口で大人しい少年になっていた。ピアノを弾き始めたのは、そんな時期だ。

山本には二人の姉がおり、ふたりとも、趣味でピアノを弾いていた。彼自身、山口に住んでいたころに一年だけエレクトーンを習ったが、引越を機にやめていた。

「それっきりピアノと関わりはなかったんですけど、一番上の姉が『ゼルダの伝説』の曲を弾いているのが羨ましくて、見よう見まねで弾き始めました。他にもファイナルファンタジーやドラゴンクエストなど、よく遊んでいたゲームの曲を弾いていましたね」。

何より、学校でゲーム音楽を弾くと、人が集まってくることが嬉しかったと言う。「当時の僕はコミュ障だったので、ピアノで人とコミュニケーションをとっていました」。

中学3年生のときには、クラス内でのオーディションを経て、合唱コンクールの伴奏者を務めた。

「『モルダウ』というクラシックの合唱曲を、夏休みに毎日練習しました。僕ともうひとりの立候補者が、クラス全員の前で弾いて、どっちがいいか投票したんですよ。僕は独学3年目だけど、相手はずっとピアノを習っていたので、緊張しました。雰囲気で、なんとか勝てました」。

同じころ、クラシックの楽曲も弾くようになった。

「知り合いから、突然『山本くんはベートーヴェンが似合うよ』と言われたんです。その人はクラシックに詳しくて、ベートーヴェンのピアノソナタなどをたくさん教えてくれました。おかげで、音楽の幅が広がりました」。

中学校では卓球部に所属していたが、熱心に打ち込むことはなかった。「体を動かすのは好きだけど、苦手なんです。スクワットとか走り込みとか…。真面目にやってみようと思ったけど、結局、できなかったですね」。

その反省もあって、「高校では写真部に入ろう」と考えて受験先を選んだ。「父の影響で、写真を撮ることが好きだったんです」。

しかし、いざ進学してみると、写真部はほとんど活動をしておらず、所属はしたものの幽霊部員のようになってしまった。

だが、暇を持て余すことはなかった。合唱部の活動に参加したからだ。

「音楽の授業中に、校歌の伴奏をする機会があったんです。初見でしたが、なんとか弾きました。その授業の先生が合唱部の顧問で、『うちの部で伴奏をしてほしい』とスカウトされて」。高校時代は、部活の時間だけではなく、昼休みなども音楽室で過ごしていたと懐かしむ。

もっとも、「ピアニストになろう」とは思っていなかった。

「本当はエンジニア……電子工作とか、そういう技術者になりたかったんです。でも数学が苦手すぎて、頑張れずに諦めました。じゃあ、自分には何があるかな、と考えたら、ピアノが残りました」。

『ピアノを弾くこと』を職業にするため、音楽大学へ進学しようと考えはじめたのは、高校2年生の夏のことだ。

「すぐに先生を探しました。最初は家の近くの先生に習ったんですが、『音大を目指すなら私じゃダメ』と、先生の先生を紹介してもらって。それから毎週、片道1時間半くらいかけてレッスンに通いました」。

音大受験に向けて、クラシックを中心に練習を重ねたが、壁にぶつかった。

「僕は、耳がよくなかったんです。音大の夏期講習に通ったりもしたけれど、改善しませんでした。耳は、小さいころから訓練しないと育ちません。先生にも『ピアノの演奏は大丈夫だけど、聴音の試験を突破するのは難しい』と言われました」。

どうしようかと悩み、専門学校という選択肢に行きついた。「オープンキャンパスに行って、ピアノを弾いたら『合格』と言ってもらって、すぐに入学を決めました。もちろん、書類もちゃんと提出しましたよ」。

専門学校で学び、プレイヤーの道へ

東京にある音楽専門学校のピアノ学科へ進学した山本は、本科とアカデミーコースを合わせて、4年間を過ごした。

「音大はクラシックを中心に学びを深めていきますが、専門学校は基礎から教えてくれます。僕はずっと独学でやっていたから、ちょうどよかったです。他の学科との交流も多くて、色んなジャンルの音楽と触れ合えました」と、彼は振り返る。

先生には、怒られてばかりだったと言う。「なんとなく弾いてしまいがちな僕に、『ごまかすな』と。厳しかったですね」。

学業と並行して、少しずつピアノ演奏の仕事を請け負いはじめた。

「学校から斡旋してもらえる数が少ないので、自分で仕事を取りに行くようになりました」。

20歳になるころ、ギターボーカルの青年と知り合い、オリジナルJ-POPユニット『ストレーシ』を結成。「音楽関係の仕事先で、意気投合したんです。ライブハウスに出たり、路上ライブをしたり、積極的に活動していましたね。『毎週●曜日は錦糸町で路上しよう』とか決めて。当時は、このユニットが自分の生活の中心でした」。

山本2

専門学校に入学したばかりのころ、山本は「ピアノはソロで弾くものだ」と思っていた。「将来はラウンジで演奏したりするんだろうな、とぼんやり考えていたんです。でも現場に出て、伴奏やサポートという形があることに気づいて、目からうろこが落ちました」。

誰かとの演奏は、一人で演奏するよりもずっと楽しかったと言う。

「もともと、自分にとってのピアノは、コミュニケーションの手段でした。ピアノを弾いたら誰かが喜んでくれたり、知り合いが増えたり、そういうのが好きなんですよね」。

年を重ねるたびに、仕事の数も増えていった。

「ユニットで出たライブの対バン相手に『自分が行けなくなったから代わりにどうか』と仕事を紹介されて、その縁で、ミュージカル関係のイベントの演奏をするようになったりとか。だんだんと人脈が広がって、仕事が得られるようになっていきました」。

そのまま専門学校を卒業した山本は、10年以上、現在のスタイルで活動を続けている。

自分の強みを生かして、続けていく

「おかげさまで、仕事は増え続けています。専門学校を卒業した直後は赤字だったし、コロナ禍も大変でしたが、なんとか音楽一本でやれています」と語る山本。「僕を必要としてくれる人がいれば、そこに行くだけです。まずは『○日空いてますか?』とか『試しに合わせてみませんか?』とか、気軽に誘ってください」。

とはいえ、基本的に、面識のない相手からの依頼は引き受けていない。

「実際に会って話したり、対バンしてみてからですね。サポート演奏をする場合、相手のことを知っているからこそという部分もあるので。会ったことがなくても、知り合いの紹介などで繋がる場合もありますが」。

年間の演奏回数はどのくらいなのか?と訊いたところ、「数え方によります」という答えが返ってきた。「昼夜公演の場合や、1つのブッキングライブで2組サポートする場合を1回と数えるか、2回と数えるかによって、かなり変わってきますね。前者とすれば、300回前後でしょうか」。

土日は、昼夜とも演奏の仕事を行っていることがほとんどだ。平日でも、午前中に幼稚園や保育園で演奏し、夜はライブハウスに出ていたりする。「リハーサルなどもあるので、スケジュールの立て方は工夫しています」。

伴奏やサポートだけでなく、ワンマンライブやデュオリサイタルなど、自らが主体となった企画をすることもある。

2020年は社会情勢もあってイレギュラーだったが、愛知、宮城、兵庫など、遠征ライブの機会も多い。

「将来的な目標の一つとして、九州で演奏してみたいということがあります。福岡生まれだし、父は鹿児島、母は宮崎出身なので」。他にも、ミュージカルの曲を作ったり、本番に関わったりしてみたいと言う。

これまでの活動のなかで印象に残っていることを訊ねると、東日本大震災の被災地で演奏したことを話してくれた。

「石巻や岩手県の海沿いの地域で、高校の体育館やホールで演奏したんです。実際に荒れた土地を見たり、放射線危険区域に近づいたり、貴重な体験をしました」。

演奏活動をしているからこその、日常生活では得難い経験を楽しんでいる。

「ピアニストは体を壊したらそこまでです。不安定だし、絶対というものがありません。でも、長くできる職業だと思うので、続けていきたいです」。

彼が思う自分の長所は『雰囲気を出すこと』だ。

「情景描写、空気を作ることが得意です。そして、相手に合わせること。歌物だったら、歌ってる人ですね。相手が歌いにくくないか考えながら、呼吸や空気感、その人が表現したいものを描こうとがんばっています」。

山本は、自分のことを『完全なサポートタイプ』だと評する。「ひとに寄り添うのは得意だけど、自分が前に出たり、意見を言うのは苦手です」。かつてのユニット活動が自然消滅したのも、この性格が一因だと言う。

「ずっと相方の意見主体で活動していたら、ある日を境に『どう思う?』って聞かれることが増えて。うまく答えられないまま、忙しくなったのもあって、自然消滅してしまいました。7、8年は活動していたのですが…」。

しかし、現在の山本は、「ひとには向き不向きがあって、大事なのは自分の得意分野を伸ばすことだ」と考えている。

「この考えに至るまでは、苦しいときもありました。どうやって生きていこう、ともがいていましたね。20代後半になって、ふっと気づきました」。

たしかに、ここまで綴ってきた彼の来歴を振り返ってみると、学生時代の部活動や進路選択をふくめて「好きだけど苦手なこと、できないことを諦めて、できることをやってきた」というエピソードがちりばめられている。

一般的に「やりたいこととやれることは違う」という言葉は、否定的な文脈で使用されることが多い。しかし、それは本当に辛いことだろうか。

『やりたいけれどできないこと』をできるようにするための努力は美しい。それと同じくらい、『できること』をやりたいことに繋げる努力も美しい。

彼の音楽が、彼自身と、周りの人々の人生を豊かにしていくことを願う。

text:momiji

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