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1984年の石田憲一 :オーディションの話

以前Facebookに掲載していたオーディション風景の模様を加筆修正して再掲載します。

1984年アクション全盛期の雰囲気を、少しでも伝えることができたら幸いです。


あらすじ:

1984年秋、時代はまさにアクション全盛期。今となっては信じられないが、アクションが社会現象にまでなっていたその真っ只中で、単なる素人のアホな青年・石田憲一は、入る気もないアクション系事務所のオーディションを受けるべく、何の予備知識や準備もないまま、新宿住友ビル36階の会場へと向かったのであった・・・


控え室:1・隣に居合わせた人

さて、石田がオーディション会場の控え室に入ったのは、おそらく時間的に後半というか、最後の方だったのでしょう。後にメンバーの誰かに聞いた話だと、気合いの入っていた人は最初の方に会場入りしていたとのこと。私は全くの素人だったので、何も考えていませんでした(笑)。

というわけで控え室では、偶然隣に居合わせた人と意気投合し、ずうっと喋っていたおかげで、全く緊張することはありませんでしたね。その彼とは仲良くなり、帰りにお茶をして連絡先まで交換

して別れました。

後日、結果発表後、彼に電話したら「僕も受かったけど、用意したお金でバイクを買っちゃったからやめた」とのこと。「がんばってね」なんて言われました。しかし、今思えば、落ちたとは言えなかったのかもしれませんね。私としては、せっかく受かったのに、一緒に練習できなくて残念に思っていたのですが・・・


控え室:2・変な人その1

そういえば、オーディション控え室にはいろんな人がいましたが、中でも目立っていたのがJACのサウナスーツを着て、ガンガンにウォーミングアップをやっていた人です。もう、とにかくウザいくらい動き回って、ジャンプを100回くらいやって汗びっしょりになってました。

私は思わず「そんなに動いちゃって大丈夫ですか?疲れちゃいませんか?」と聞いてしまいました。素人なもんで。そしたら彼は「いや、このくらいやっておかないとダメですから!」とのこと。何がダメだか意味がわからなかったので、それ以上ツッコミませんでした。

でも彼とは、この後のオーディションでは同じ組だったのですが・・・素人の私の目から見ても「俺の方が上手い」と思えるようなレベルでしたから・・・残念な人でした。


控え室:3・変な人その2

オーディションも進んでいき、控え室の人数も激減してきた頃のことです。

私、石田は相変わらず隣の彼と喋っていたのですが、そこに受付を手伝っていた人?かと思われる人物が入ってきました。おそらく終盤ということで、さすがに受付に来る人がいなくなって暇になったのでしょう。控え室に入ってきて、窓から外を眺めて「うわぁ、高いなぁ〜」などと言っていて、私たちは「この人、何しに入ってきたのだろう?」とか、「もしこの事務所に入ったら、この人が先輩なのかな?」などと考えていました。

いかにも業界人ぽいというか、かなり無理っぽいファッションが印象的でしたね。覚えているのは、変な青いウエスタンシャツと黒ベストというような、あまり新宿にはいないようなファッションをしていたように記憶してます。内心「この人、わざわざこんな格好してきたのかな?」などと思ってました。ま、素人だったので。

すると何を思ったか、彼が唐突に「あっ、そういえば最近バック転やってないけど、できるかなぁ?」などと言い出し、私たちに見せつけるかのように、バック転をやって見せたのです。そして、「あぁ、まだできるわ!」と言って去って行きました。はっきり言って素人の私たちには「す、すげえ〜」というよりは、何をアピールしているか意味不明で、「バカじゃない?」という印象しかありませんでしたね。むしろ、「こんな人先輩だったら、嫌だなぁ」としか思えませんでした。

で、この人誰だったんでしょうか? 謎のままです。


控え室:4・緊張しない理由

結構変な人もいるなぁという印象のアッシュ・オーディション控え室でしたが、確か4・5人ずつ呼ばれて中に入っていったように記憶しています。そんなわけで、

「いつ、自分が呼ばれるのだろう?」「・・・つ、次かな?」

というような緊張感が全体に漲っていたのですが、私、石田は全く緊張しなかったのは前記した通りです。しかし、それには隣の人と仲良くなって喋っていたということ以外にも、理由がありました。その理由とは・・・

ここだけの話ですが、ぶっちゃけ別にアッシュに入るつもりはなったんですね。ある意味どうでもいいというか。だから緊張なんてするわけなかったのです。

もちろん後から聞いた話では、

「あ、あのJACの斎藤さんが、独立してメンバーを募集する!」ということで業界では話題騒然?だったそうですが、素人の私にとっては全くわけのわからないまま受けたオーディションだったのです。ひょっとしたら、メンバーの中で一番わかっていなかったのが、私だったかもしれません。


オーデイションのきっかけ

他のメンバーがどのような思いで、アッシュのオーディションを受けたのか、興味深いので是非聞いてみたいのですよね。私の場合は前記したように、アッシュに入るつもりは全くありませんでした。だからと言ってJAC命とか、そういうのではありません。ただ、アクションをやるならJACしかないのかな?と、思い込んでいただけで、変な言い方になってしまいますが、特にJACの人たちに憧れていたわけではないのです。時代の空気で、「アクションやるならJAC」という雰囲気が出来上がっていましたから、その他の選択肢があるなどと考えたこともありませんでした。何と言っても東京の田舎、町田在住でしたから。

そんなある日、JACのオーディション募集はまだか?と雑誌デビューなどを見ていた頃、アッシュの募集情報を見つけたわけです。最初は軽く流していたのですが、さすがにあちこちの媒体で見かけると気になってきます。そうこうしているうちに、閃きました。それは「俺は、オーディションというものを受けたことがない。だから慣れるために、いっちょ受けてみようか!」ということで、当時としては「俺って頭いい!」という、アホ特有の思い上がりで、何の迷いもなく申し込んでいたのです。



オーデイション本番:1・開脚

そうこうしているうちに、とうとう私たちの順番がやってきました。さて、オーディション会場に足を踏み入れてると、正面には審査員席があり5、6名の人が座っていたわけですが、正直ほとんど知らない方ばかりでしたね。まあ、一応お名前と肩書きが書いてある紙が貼ってあったのは覚えています。そうそう、一番右端に、俳優の石橋雅史さんがいらっしゃいましたね。それだけは、わかりました。あとは、中央右手に紅一点で赤い服を着た大島由加里さんがいました。

さて、何が始まるのかなと思っていると、脇に立っていたトレーニングウェアの男性が、ストレッチのデモンストレーションを始めたのです。この方が、のちにフラッシュマンに出演することになる植村喜八郎さんだったということは、ずいぶん後になって知りました。

確か開脚前屈をやらされたように記憶していますが、植村さんがめっちゃ柔らかくて「さすがプロは違うなぁ」なんて思いながら、「やっぱり、ウォーミングアップしておけばよかったなぁ」と思っても後の祭り。無理矢理床に胸をつけたわけですが、この時点で意表を突かれた感はありました。「こ、これがオーディションなのか」と。だからと言って、何かを想定していたわけではなかったんですけどね。


運命の腰痛:1・リハビリ期間

しかし、よくよく考えてみると、私がアッシュのオーディションを受けるなんてのは、全くの偶然というよりも、タイミング的には普通に事が進んでいたら、受けなかった可能性のほうが圧倒的に高かったことに気づきました。というのも、私がオーディションを受けたのは19歳の時。では、高校を出てなぜすぐにアクションをやらなかったのかというと、一応世をしのぶ仮の姿として大学の夜間部に通っていたわけですが、実は別の理由がありました。

それは・・・中学の時に陸上部だった私は、過激なトレーニングのせい?で腰痛を抱えることになってしまいました。それに今思えば成長期ということもあったのでしょう、高校の時に再発し、一時期は体育の授業も見学することに。そんなわけで、運動部でガンガンやっていたわけではなかったのです。それどころか、重度の腰痛持ち。というわけで、「このままプロになっても、練習についていけるかどうか自信がない!だから1年間はリハビリをしよう!」と思い、アクション業界にはアプローチしなかったのです。

もし、このリハビリに費やした1年間のタイムラグがなければ、もしJACのオーディションを受けていたら、おそらくアッシュに入る可能性は極めて低くなっていたことでしょう。ま、実際はJAC養成所に受かったとしても高額の入会金が払えず断念していたでしょうがね。


運命の腰痛:2・プロの想定

偶然というべきか、必然というべきか。どちらにしても1年間をリハビリに費やしたことで、アッシュのオーディションと出会うことができたわけです。しかし、リハビリとはいえ別にリハビリセンターに通っていた・・・とか、そういうことではありません。ただ、自主トレで自分が想定していたアクションのプロとしての練習に耐えられる体を作ろう、ということでした。

しかし、素人にはアクションのプロが、どのような練習をしているかわかりません。特にJACファンだったらみんな知っていたようですが、聞いたところによるとオーディションのためのビデオまで販売されていたとか。今思えばソツがないですね。でも、そんなものがあるのを知りませんから。

そこで私が想定したのは、こともあろうに大山倍達の内弟子と、新日本プロレスの道場でした。さすがにアクションだから、そこまでは厳しくないだろうと。ということで、逆に言えばそのくらい厳しいと思っていれば、どのくらい厳しくてもおそらく想定内だろうと。自分で言うのもなんですが、このあたりは勘がよかったですね。

ただし、アッシュの社長・斎藤さんの厳しさは、例えようがありませんでした。なんと言っても日体大空手部部長として、大学選手権で部を優勝に導いただけでなく、運動部の鬼寮長として恐れられた存在だったらしいのです。しかし私の素人としての強みは、ここでも発揮されました。最初から厳しければ、それが当たり前の標準モデルとして認識されるので、特別だとは思わないんですね。それに中学生のときに所属していた陸上部の顧問の先生が、これまた日体大出たての現役上がりの方だったので、耐性ができていたのかもしれません。



運命の腰痛:3・素人練習

さて、偶然の必然ともいうべき腰痛のため、高校卒業後1年間のリハビリ期間を経て参加したアッシュのオーディションでしたが、この1年間に何をやっていたのかというと、夜は大学に入っていたので(といっても前期まで)、昼間に練習してましたね。

今思えば、友人にバイクで大きな公園まで連れて行ってもらい、そこで体操っぽい練習をするというのが定番でした。今思えば危険極まりないのですが、何もできない友人に手伝ってもらい手乗りでの後方宙返りとかやってました。当然友人が土台の役。そして見よう見まねで、後方に送ってもらっていたわけですが、失敗がなかったこと自体が奇跡的。そんな友人には感謝したいです。多分、当時はストリート・パフォーマンスが流行っていた時代なので、真似していたのでしょう。

しかし、アッシュに入ってから正式に手乗りなどを練習するようになって、その難しさに苦労したことを考えると、当時は無謀だったとしか思えませんね。



オーデイション本番:2・汗かき君

さて、植村喜八郎さんによるストレッチのデモンストレーションが終わると、いよいよオーディションの本番というか「何やるんだろう?」という感じで、全く予想しないままその場に佇んでいました。すると、一人ずつの質疑応答だったんでしょう。でも、最初に何か質問とかされた記憶はありませんね。おそらく、初めに何か特技をやらされたように思います。

一番目の人は、確かJACサウナを着た例の汗かき君じゃなかったかな。アクション経験者ということで、植村さん相手に軽く立ち回りっぽいことをやらされてました。多分二、三手で最後に背落ちをしていたのですが、これが前記したように、素人の私が見てもヘタだったので、「こういうことをやらされるんなら、俺の方がもっとうまくできるぜ!」などと、調子よく考えてました。彼のおかげで更に緊張がほぐれた気がします。もしこれが、ベテランの人と同じ組だったらと思うと・・・やっぱり、最後の方に会場入りしたのは正解でしたね。



オーデイション本番:3・カンフー野郎

オーディション室に入り、一人ずつの質疑応答も二人目です。その人は、控え室では全く印象がなかったのですが、「何か特技を見せてください」と言われて、いきなりカンフーの型を披露していました。しかも、それが単に型をやるだけでなく、何と審査員席の前まで動きながら進み、右から左まで審査員の眼前に向けて「シュシュ、シュッ!」とばかりに技を繰り出しながらの大アピール。

これを見ていた私は「そ、そうか・・・こ、こんな大胆なことをやらないくてはいけないのか!」と、自分の無策さにこの時初めて気付いたのです。しかし、「ま、俺にはこんな発想なかったしね〜」と、今更落ち込んでも仕方ないので早速開き直ったわけですが。

まあ、気持ち的に救われたのは、彼の演武終了後、斎藤さんが穏やかな表情で「それは自己流の型ですね」とおっしゃったことでした。それを見破られた彼は、心なしかガックリした表情だったような気がします。まあ、私としても「やっぱりそうだよねー」と思うようなレベルだったのですが・・・そんな彼もアッシュのメンバーの中にはいませんでしたね。そしていよいよ、私の順番となりました。



オーデイション本番:4・そして自分の番

というわけで、いよいよ石田の番がやってきたわけですが、どういった段取りでことが運んで行ったのかは、正直よく覚えていません。ただ、「何か特技を見せてください」と言われて、とりあえずバック転〜バック宙という連続技を披露しました。と言っても、素人のボテボテな技ですよ。なぜこの技を選択したのかというと、会場が思ったよりも狭かったからで、その狭さで普段練習していた動きをやることは不可能!と思ったわけです。一応いつも通りにやって、着地に成功。ま、出し物はそれだけなので、終えて立ち位置に戻りました。

まあ、何やっていいかわからないので「さっきみたいに、立ち回りっぽいことやらせてくれないかなぁ」なんて、ぼんやりと考えていると、斎藤さんが唐突に「片手腕立て伏せをやってみてください!」とおっしゃるので、「え、何で?」と思いながらも両足を開いて姿勢を安定させ右手でやりました。終わるとすかさず「左も!」と若干口調が強くなった模様。「おいおい、ロッキーじゃないんだから・・・」と思いながら、とりあえずこなしたわけです。スキル的なものよりも、基礎体力を要求されたことで、ちょっと肩透かしを食らったというか「俺、そういうキャラじゃないんだけど〜」なんて、考えていましたね。



オーデイション本番:5・最大のピンチ

さて、ロッキー世代として、片手腕立て伏せは難なく乗り切りました。しかし「ロッキーの真似しておいてよかった!」と思ったのもつかの間。次なる一手を持っているわけでもなく、一瞬の隙間ができました。

その間隙を突いて斎藤さんは、すかさず「他に何かやってください!」とおっしゃるではありませんか。持ちネタを用意してこなかっただけでなく、素人丸出しでアピースする術を全く持っていなかったことは再三書きましたが、ある意味予想できたかもしれない最大のピンチがやってきました。

その瞬間、私は若気の至りというか、単なるマヌケなんですが、思わず「ほ、他に何もできません!」と叫んでしまったのです・・・



オーデイション本番:6・起死回生

ということで、なんという大失態。マヌケにもほどがあります。そして、私の叫びは会場全体に響き渡り、その瞬間、審査員席は一瞬凍りつきました。ま、おそらくここまでのオーディションで「何もできません!」なんて言うバカ者はいなかったのでしょう。

まあ、今思えば、よきに解釈すればですよ、かの三船敏郎が東宝のオーディションを受けた際(実際は撮影部を希望したが、間違って書類が俳優部に回ったためと言われている)、泣く演技を要求されて「悲しくもないのに泣けません!」と言ったというのが伝説となっていますが、それに似ているような気がしないでもないです・・・よね?

しかし、いくらバカでも、審査員の皆さんが瞬間的に引いたのは察知しました。そこですかさず「・・・でも、ロンダート〜バック宙やります!」と切り返し、起死回生の着地を決めて(実際はボテボテ)事なきを得たわけです。その瞬間、なぜか審査員席の空気が緩んだような気がした事は今でも覚えています・・・



オーデイション本番:7・コメントを振るも

さて、凍りつかせた審査員席をなんとか起死回生で元に戻したはいいのですが、さらなる試練が待っていました。私としては、バック転〜バック宙に続き、同じような技をやった(というかそれしかできなかった)ため、胸の内では「芸がねぇなぁ〜」とぼやいていたわけですが、とりあえず何かやったということで、「まぁいいか!」というような気分になっていました。

そしてこれで「俺の番も終わりかな」と思っていた矢先、斎藤さんが「審査員の先生方、なにかございませんか?」とコメントを振ったのです。しかし、審査員席はシラッとした空気が濃厚で、誰もが「私じゃないよね?」とでもいうかのように、心なしかあさっての方向を見ているような雰囲気。それを察したのか、斎藤さんはさらに追い討ちをかけるように、のちに演技指導でお世話になる伊藤正次先生に「伊藤先生、なにかございませんか?」と持ちかけたのです。



オーデイション本番:8・挫折

斎藤さんから振られた伊藤先生は、その鋭い眼光で私の姿を上から下までわずか0.3秒ほど目で追った後、即「特にないね!」とそっけない態度で突き放されました。しかも私の記憶が間違っていなければ、そっぽを向いてお答えになったのです。

これはさすがに、アホの私にも応えました。この瞬間「だっ、ダメだ落ちたわ〜」という思いで、胸の内が一杯になったのです。

とはいえ、もともと入る気のないアッシュのオーディションでしたから、まあいいじゃないかと。青春のほろ苦い経験の一部として、誰もが経験する挫折の一つさ!などと自分を慰めつつ、次の番だった控え室で友達になった彼の実技を見ていました。



オーデイション本番:9・友達になった彼

このように、すでに「終わった!」と思っていた石田ですが、まだ友達になった彼の実技などが残されていました。

何気にそれを見ていたわけですが、控え室では「俺、何もできないからさ」なんてうそぶいていたのに、実際は緊張しながらも「バ、バック転やります」と言って、根性バック転をやってました。後で聞いたら「いやぁ、みんながいろいろやっているから、俺もなんかやらなきゃと思って、あの場で初めてやったんだよ!」なんて言ってましたが。このあたりから多少、怪しいなぁとは思ってました。

そして私たちの組が終わり、オーディション室から出て控え室で着替えていたのですが、おそらくもう一組くらいで終わりだったのでしょう。本当に最後の方だったんですね。

そしたら中から人が出てきて、「もう直ぐ終わりますが、そしたら審査員の方々の総評があるので是非参加していってください」とのこと。さっさと帰ろうと思っていた矢先でしたから、正直「面倒くせぇなぁ」と思いつつ、彼とその場に残ったのでした。



オーデイション本番:10・総評

さて、自分としてはもう終わったも同然だった、アッシュのオーディション。しかし、最後まで残れとのことで、わけもわからず再び会場入りしたのでした。

その後の展開は、ほとんど覚えていませんね。まあ、おそらく予定調和的に、各審査員の方々からコメントがあったように思います。その中で、お一人だけ印象に残ったコメントをされた方がいらっしゃいました。それは空手映画の悪役でおなじみ、俳優の石橋雅史さんです。それはまさに私たちに向けてのダイレクトなメッセージでした。正確には再現できませんが、それは次のようなものでした。「僕の同期生には、僕より才能のある人がたくさんいました。でも、現在残っているのは僕だけです。みなさん、続けることが才能なんです。だから、ぜひ続けてください!」

この時は、「そんなもんかなぁ」と思っていたのですが、今なら「確かに、おっしゃる通りです!」と素直に同意できます。ということは、私もちょっとは成長したんですかねぇ・・・



オーデイション本番:11・会場をあとに

このようにして会場を後にしたのですが、その後、友達になった彼から「お茶していこうよ!」と誘われて、彼を待っていた彼女と三人でビルの地下にあった喫茶店で話をしていきました。

もうその頃には、オーディションのこともすっかり忘れてましたね。そうそう、彼から「連絡先交換しようよ!」と言われて、応募書類の入っていた封筒にお互いの電話番号を書いて交換しましたね。そして、帰りの電車も同じ方向だったので途中まで一緒に帰ってきたのです。彼からは「ね、今度スキーに行こうよ!楽しいよ!」などと誘われて、本当にいいやつだったのですが、内心では多少「この人、アクションやる気あるのかなぁ?」と疑念が湧いていました。面白い人だったのですが、それほどまでに全くアクションの話をしなかったのです。

さて、全て終わったので、あとはJACのオーディションを待つだけだな、なんてことをぼんやりと考えていました・・・



その後:1・一通の茶封筒

そしてアッシュのオーディション終了後・・・特に結果を待つでもなく、というか落ちたという実感たっぷりだったので、連絡があるなどとは当然思っていません。それどころか、アッシュのことなどすっかり忘れて、JACのオーディション募集を待っていたのですが、待てど暮らせどオーディションの募集がありません。今思えばおそらく、この時期は養成所の全盛期だったので、広告費を払って募集をかける必要がないくらい人が集まっていたのでしょう。そうとは知らないアホの私は、「おっかしいなぁ・・・時期がズレているのかなぁ」などと思いつつ、調べる術すらわからずに、ぼんやりとただ待つだけでした。

そんなある日、一通の茶封筒が私宛に届きました。中を開けるまでは、それがアッシュからの合格通知だったことはわかりませんでした。なんとなく、イメージが違うような気がしていたのかもしれませんね。



その後:2・滑り止め合格

という事で、地味な茶封筒を開けてみると、中から出てきたのは合格通知でした。何が書いてあったのかはよく覚えていないのですが、まず入会にかかる費用の明細というか、入会金がいくらで、会場使用料やらユニフォーム代やらがいくらで・・・というように細かく書かれていたと思います。それから入会申し込み書も当然ありましたね。確か、オーディションがあったのが10月か11月だったように記憶しています。

で、合格通知が来たのが12月くらいでしたかねぇ。申し込み締め切りが翌年の1月いっぱいとか、そんな感じだったと思います。まあ、入るつもりがなかったわけですから「あ、受かったのか・・・」という意外な感じがした程度で、別段嬉しかったとかありませんでした。なんといっても、「とりあえず、JACのオーディションを受けてから決めよう」と思っていたわけですから、まあ滑り止めに合格した程度にしか考えていなかったのです。

ただし、ちょっとだけ気になることがありました。



アクション以前:1・なぜアクション業界を目指したのか?

思い返してみると、私石田がなぜアクション業界を目指したのか?そのはっきりとした理由を見出すことができません。記憶がない、覚えていない、というより自分でもよく分からないとしか言いようがないのです。

これはその他のメンバーの方々と比べると、いや当時アクション全盛期にあって、アクションスターを夢見て業界に身を投じた星の数ほどの若者の中でも、稀に見る存在=バカではないでしょうか。普通、私の世代ならジャッキー・チェンに憧れたか、真田広之に憧れたか、だいたいどちらかで、それに若干のブルース・リー・ファンが含まれる・・・という大雑把に分けるとそのどれかみたいな感じで、明確な憧れの対象があったはず、というかそれが普通だったわけです。時に世はアクション・ブーム真っ只中。誰もがアクションをやりたくて、私もその一人だったはずなのですが、どうしても直接的な理由が見当たりませんでした・・・



アクション以前:2・テレビっ子

石田の場合、アクションに関しては、基本的にテレビでオンエアされたものについてはほとんどチェックしていましたから、好きであったことに間違いはありません。それこそ映画から時代劇、刑事物、ジャリ番など観れるものはほとんど見ていました。まあ、いわゆるテレビっ子世代ですから、我々の世代では当然だと思いますが。

逆に、映画館まで足を運んだことは皆無だったのです。このあたりが、本当に好きだったかどうかの分かれ目になるのかもしれませんね〜。アクション業界を目指しながら、映画館でブルース・リーもジャッキーチェンも、真田広之も見たことがない!ということがどういうことか、自分にとっては全く考えたこともなかった領域でした。何と言っても当時は、大山倍達とアントニオ猪木が好きな、どこにでもいる普通の青年でしたから、別に変なことだとは思っていなかったのです。まあ、アクションも空手もプロレスも同列に見ていた・・・ということでしょうか。素人なら許せますが、プロを目指しているという点では邪道ですかね?〜



アクション以前:3・空手とメタル

アクション映画を劇場で見たことがないくせに、極真の全日本大会には中学生の時に二度も東京体育館まで足を運んで生で見ていますから。それを考えるとアクションに対する熱が圧倒的に低かったことを感じます。まあ、当時はバブル全盛期でもあったわけですから、よくよく考えればアクションだけでなく、様々なブームが次から次へと湧き上がってきた時代でした。ですから「アクションだけが好き」っていうのも無理な話だと思うのですが、そのあたり同世代の意見を伺ってみたいところです。

ということで、当時はヘビーメタルがブームでもありまして、アクションよりもメタルの方が圧倒的に好きだったわけです。ですから、やっぱりアクションが一番好きだったわけではないんですね。当時の写真を見るとわかるように髪が長い人が多いのですが、アクション好きならJACやジャッキーチェンの影響だったわけです。私も長かったですが、私の場合はヘビメタですから。ルーツが全然違いますよねー。このあたりも、のちにメンバーと温度差を感じる一因となっていました。



アクション以前:4・時代劇ファン

このように、格闘技とヘビーメタルが好きなごく普通の青年だった私ですが、アクションがどれだけ好きだったかは、ちょっとよく覚えていません。まあ、おそらくいろいろあるアクションジャンルの中で、最も好きだったのは時代劇ではなかったでしょうか。

特に好きだったのは「大江戸捜査網」で、後に(比較的最近)DVDマガジン・コレクションとして発売された時は全号買いました。今見ても最高に面白くて、大好きな作品なのです。

だからというわけではありませんが、アッシュのオーディション情報で斎藤さんの経歴を見たとき、代表作が「戦国自衛隊」というのを発見して気になりました。そうなんです。アクション映画を劇場で見たことない、などと書きながら、実はこの作品だけは劇場で見たことを思い出したのです。しかも原作まで読んでます。

実は中学生の頃から月刊GUNとコンバットマガジンを愛読していましたから、ミリタリー関係にも興味あったんですね。だから時代劇+ミリタリーということで劇場まで足を運んだわけです。しかもパンフまで購入していたので、クレジットに斎藤さんの名前を探したのですが、なぜか見つからずじまい。しかも監督が斎藤光正という方で、同じ斎藤であるだけにややこしい!で、大ボケの私は「この人?じゃぁないのかなぁ???」という状態で、結局斎藤さんが何者なのか知らないまま、アッシュに入ったのです。



その後:入会申し込み

さて、なぜアクション命でもなかった私が、何にも知らないままアッシュに入ったのか? それはまず、JACのオーディションを受けることができなかった。正確にはその情報を捕まえることができなかった、という最初の間抜けさが後々まで尾を引いていたこともあります。まぁ結果的には正解だったのですが(受かっても100%入会金が払えなかったと思いますし)。

さて、アッシュの合格通知を放置したまま、年が明けました。記憶が定かではありませんが、確か入会申し込も締め切りが1月末日あたりだったと思います。いつまでたってもJACの募集はないし(すでに終わっていたはず)、多少不安になってきた1月も半ばあたり、私の気が変わってきて「やっぱりこの事務所にお世話になろうかな・・・」と思うようになってきました。というのも、入会申込書の中に斎藤さんからの一筆で「特待生として入会金を免除するから、アッシュに来ませんか?」というようなことが書いてある便箋が入っていたのです。私には決して安くない入会費用でしたから(中にはアッシュのオーディションに受かったものの入会金を払えないので、もっと安い他団体に行った人がいたことを後から知りました。)半額近い免除は魅力的でした。「こ、これなら辛うじて払える・・・」ということもあり、徐々に気持ちが傾き、「せっかくだからこの事務所にお世話になろうかな」と決意して、入会手続きをしたのがおそらく締め切りギリギリだったのではないでしょうか。

こうして、何もわからないまま、偶然の積み重なりの末、JACではなくアッシュに入ることになったのです。


最後に



・・・このようにして事務所に入ったものの、その後も練習開始して半年もしないうちに右足首に関節ネズミが発生し、手術〜入院〜ギブス生活で復帰まで3ヶ月ほど棒に振ったり、などやめてもおかしくない状況は多々あったわけですが、現在まで続いているというわけです。これも、ただただ石橋雅史さんにいただいたお言葉、「続けることが才能なんです。だから、ぜひ続けてください!」を実行しているだけなんです。ですからこれを読んでいるあなたにも

「続けることが才能なんです。だから、ぜひ続けてください!」

この言葉を伝えたいです。

1985年4月、スタート初月の練習日程表


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