父親の死を乗り越える気ゼロ女のひとりごと


わたしは、高3のときに父親をがんで亡くした。あれから約10年、このたび、父の死の前後や死から感じたことを言語化できてきた気がするからノートに羅列してみようと思う。



父が亡くなるまで


わたしの父は、そこそこ大企業の会社に勤めていたサラリーマンで、ごく普通の働くお父さんであった。


わたしが小5の頃、父は病気になった。
胃腸の調子がよくないと近くの病院へ行き、はじめは胃腸炎を伴う風邪だと言われた。


でも、風邪にしてはどうもおかしい、となり大きめの病院へ行ったところ、胃がんだった。(たしかぎりぎりステージ3、くらいだったとおもう)



それまで全く大病を患ったこともなく、お酒もたばこもあまり好まない人だった。
抗がん剤による通院治療や、先進治療などで闘病すること7年。

52歳で亡くなった。


最後に会ったのは亡くなる5日ほど前。


病室がナースステーションの真横の個室に変わっていた。それだけでもう全てを悟ったわたしは、柄にもなく父に何か飲みたい物はあるかと聞いて、父の大好きなカフェラテを買ってきた。


やっぱりカフェラテはおいしいね、と父は微笑んでいた。


もういろいろ悟ってしまっていたから、今までありがとうと言いたかったけど、いつもありがとう、と伝えて、帰り際に父の手を握った。


あんまり大きくはないけど、温かくて柔らかい手だった。


生きている父に会ったのはそれが最後だった。



父が亡くなった日

とある日の夜、母と祖母が慌ただしく病院へ向かった。

わたしは次の日に高校の卒論指導が入っていたので、明日学校行きなさいよ!と母に釘をさされ、とりあえず寝た。



朝起きたら、祖母と母が家にいた。
あれ?と思いリビングを見渡すと、病室にあった父の荷物が全て家に置いてあった。

それでわたしは何が起きたかすぐにわかった。



わたしが起きたことに気付いた祖母が、父のことを伝えようとわたしを呼び止めた。

もう改めて言葉で言われなくたってわかるから、生返事だけした。



父ががんになった時点で、普通の人より親を亡くすのは早いだろうとは思っていたが、まさか成人式を見てもらえないとは思っていなかった。
今日から人生が決定的に変わっていくんだなと思った。


このまま家にいたって悲しくなるだけだし、と思い予定通り学校へ行った。


予定通り卒論指導を受けて帰ろうとしたら、担任の先生に呼び止められた。


今あなたのお母さんから連絡があったから、職員室でちょっと話そう、と声をかけられた。



職員室へ足を踏み入れた瞬間、ついにその日初めて涙がこぼれた。



学校から帰ったあとは父と対面した。

表情は穏やかだったが、あのとき握った手と 全く異なり、冷たく固くなっていて、本当に亡くなってしまったんだと実感した。


父の死から思い知ったこと3つ


父の死からほどなくして思い知ったことは大きく3つ。


①死ぬ順番

父方は、今も祖母(父の母)が元気なのだが、わたしはこのとき、自分のできる限り死ぬ順番を守らなくてはならない、と思い知った。


わたしは祖母の様子、つまり息子に先立たれた母の姿を目の当たりにした。

当時LJKであったわたしは、もちろん親になったこともなければ子どもを亡くす気持ちを100%理解できたわけでもない。



だが、親より先に逝くことだけは死にものぐるいで回避しよう、と心に誓った。

もちろん父だって、好きで早逝したわけではない。
だけど自分の健康を過信せず、神経質なくらいに健康診断を受けてでも回避しないといけない。


そう思った。


②底辺としか思えない人生イベントの存在

人生にはとうてい一長一短となんか捉えられない出来事がやってくる、と知った。

それまでわたしは、人生に起きる出来事はたいてい一長一短で、捉え方考え方次第で前向きになれる、そう信じて生きていた。



人生にはそうではない出来事もあるという事実は、鈍器で殴られたかのような衝撃だった。


失敗や挫折をしたら、どうしたら回避できたか分析して策を見つけて、未来に生かす。そうすれば、一見よくない出来事だって見方を変えたら一長一短だ。

たいていの人生の出来事はそうだと思って生きてきた。
だが、違った。父の死はどう見方を変えても、零長千短でしかなかった。



こんなことは初めてだった。

どうしたらいいのか、何年も考えた。


何年も考えたけど、早くに父が亡くなっていいことなんてひとつもなかった。

でも、父が亡くなったことからひとつでも多くの発見とか学びを得て、あの経験があるから今の自分がある、と断言できる人生にしたい。少なくとも、父がいる世界線だったら絶対になれないような自分になれば、少しは意味があると思えるような気がした。

それはいまのわたしの人生のベースになっている。


③自分が世界に支えられすぎている
自分の人生は周りの人はもちろん、会ったこともないはるかにたくさんの人にも支えられていて、お世話になった人全員にありがとうと伝えても足りない、と気付いたこと。


父が亡くなって一週間ほどは、自分の部屋にいるときは泣く以外はぷよぷよクエストをやっていた。

毎日狂ったようにぷよぷよクエストをやるうちに、ふと気づいた。


面白いゲームをつくって楽しんでもらいたいと思ってぷよぷよクエスト制作に勤しむ顔も知らない誰かのおかげで、今わたしは泣かずにいられるんだ…。


そう気付いたら、何気なく歩く道、使っている電車、文房具、スマホ、食べている野菜、、、何気ない一日を振り返ると、わたしの人生は、顔も知らない誰かに支えてもらってばっかりだ。


せめて、席を譲ってもらったとき、エレベーターで開くボタンを押してもらったとき、明確に顔が見える誰かの善意に支えられたと思ったら、必ずありがとう、と言葉を添えようと思った。


ありがとうと伝える回数は、自分が誰かに助けてもらった回数でもあった。

これに気づくまで、18年足らずもかかってしまったけど、わたし史上、本当に大きな発見だった。


人生観の変化


父の死は、祖父の死や芸能人の死とは全く違っていて、大きな人生観の変化をわたしにもたらした。

いつか自分も絶対にこういう日が来るということが、脳に刻みこまれた。



人生百年時代だからといって、自分が百歳までのうのうと生きるかどうかはわからない。



なのでわたしは簡単に言うと、生き急ぎ野郎になった。


正直なところ、どうせいつか死ぬからと、受験生なのに無気力症候群になりそうな時期もあった。(今でも、死ぬとなくなるものには若干興味は湧きづらいことはある)



だんだん、常に自分はあと余命3年かもしれない、だったらやりたいことくらい少しはやらないとと思って生きるようになった。



そしたら、びっくりするくらい生きるのが楽しくなって(根が楽天的だからそれまでも結構楽しかったけど)、しかも楽になった。


あと余命3年だと思ったら、過去に執着しなくなったし、人と比べなくなった。


あのときこうしていれば、、本当はこうなっていたかも、、なんて人生最後の3年間考えつづけて死ぬなんてあまりにももったいなくてできないと思ったし、考えても考えても変わらないことを考え続けるより、これから変えられることを考えた方が圧倒的に有意義だ。



人にどう思われるんだろう、、なんて、考えつづけてもどうしようもないことを考える人生最後の3年にしたくはないと思ったし、自分が楽しい、充実していると思える人生ならば、それ以外何の指標もいらない。

それ以前に、「平均」寿命が80歳を超える現代で、父(当時52)を失ったわたしは、今更平均とか普通を目指したところで一生なれないから、普通を目指すことをいい意味で諦めてしまえた。



わたしの人生の目標は、この先どの地点で死んでも、やりたいことを好きにできて、充実した人生だったな、と思える人生にすることになった。


やっぱり乗り越える気はしない


淡々と父の死から思い知ったことを言語化できたのだが、今でもふと悲しくなることはあるし、会いたくなるときもある。



だってしょうがない。誰よりもわたしを理解していたし、本当に大好きな父親だったから。

本当は成人おめでとうって言ってほしかったし、一緒にバージンロードだって歩きたかった。




あれからもう、10年足らず経つけど、寂しくなくなったことなんてない。たぶん一生そんなときは来ない。


死という言葉は、生から死に状態が変化した瞬間とか、刹那的な印象を受けるかもしれないが、死の正体は死んだ状態がつづくという、永久的な状態を意味するのだと、ようやく思い知った。

むしろ悲しみを乗り越えられないほうが自然な姿だと思う。


たまーに周りの人に言われる。

「よく頑張っているね」
「立派だね」


それは違う。わたしが立派なわけでも頑張ったわけでもない。

世界には、ぷよぷよクエストを制作している人たちみたいに、わたしを楽しませてくれることを提供してくれる人がたくさんいる。
行きたいと思わせてくれる場所、食べたいと思わせてくれるおいしい料理もある。


それらが、寂しさに目を向けないようにしてくれる。


何人に何回ありがとうと言えばいいかわからないけど、環境、ひいては世界がわたしを生かしてくれて、わたしは生きている、それだけ。


だから、わたしはわざわざ父の死を乗り越えようとなんて全くしていないし、これからもたぶんしない。


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