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異例の局長人事-総裁が漏らした”不満”

以下の記事は、「NIKKEI Financial」に寄稿したものです。5月末に発令された日本銀行の幹部人事を私なりに読み解いてみました。ご関心のある方はどうぞ。

異例の調統局⻑⼈事の裏
植田総裁が漏らした“不満”

この10年で最も重要な⽇銀⼈事の⼀つだった、と次代に語り継がれるだろう。5⽉27⽇付で、調査統計局⻑に前⾦融機構局⻑の中村康治⽒が就任した。弱体化したリサーチ部⾨を⽴て直すため、企画局⻑の経験者を送り込むという前例なき⼈事の舞台裏を探る。(敬称略)

調統局の落⽇
調査統計局(以下「調統局」)は、⻑い歴史と伝統を誇る。『⽇本銀⾏百年史』によれば、1890年(明治23年)に設置された総裁直属の「取調役」がルーツとされる。⽇露戦争後の事務量増⼤に伴い「調査局」に格上げされ、そこから統計部⾨が⼀時切り離されたが、1981年の機構改正で再び合流し、現在の姿になった。

調統局が担当する⾦融経済分析は、⾦融政策を運営するための基盤であり、調統局⻑には「チーフ・エコノミスト」の称号が与えられる。古くは吉野俊彦、鈴⽊淑夫、新法下では早川英男ら多くの名エコノミストを輩出してきた。

その伝統ある調統局の「落⽇」が公然と語られるようになったのは、2022 年の春ごろである。FRB(⽶連邦準備理事会)が⾦融引き締めに舵を切り、ロシアがウクライナに侵攻したため、円安と原油⾼の波がすでに⽇本に押し寄せていた。

調統局の予測を基に作成される4⽉の展望レポートで、22年度の消費者物価指数(CPI)の伸び率は1・9%に設定された。原油価格急騰と輸⼊物価上昇の影響を懸念する声はあったが、⽇銀は「物価⾼は⼀時的なもの。年度後半になれば伸び率は急低下する」との解説を貫いた。

だが、実際の伸び率は⽉を追って加速し、調統局の⾒通し7⽉に2・3%、10⽉に2・9%と修正され、23年1⽉には3・0%と⼤幅に引き上げられる。これに先⽴つ22年12⽉に⿊⽥東彦総裁(当時)がイールドカーブ・コントロール(YCC)の電撃的な修正を容認したのも、「調統局の⾒通しが今後も 外れ続けると確信したからだった」と関係者は語る。

「⼀体どうなっているんですか」
調統局の「フォーキャスト・エラー」は、植⽥和男体制に代わってからも続いた。23年4⽉の最初の⾦融政策決定会合で1・8%に設定した同年度の物 価⾒通しは、7⽉に2・5%へと引き上げられる。わずか3カ⽉で0・7ポイントもの⼤幅修正である。

実は植⽥体制が発⾜する前、FRB、欧州中央銀⾏(ECB)と⽇銀のリサーチ部⾨による初の「三中銀会合」が開催されている。この席で、コロナ明け後の⾼インフレを経験した欧⽶側から「⽇銀も⾒通しを誤る可能性がある。気を付けた⽅がいい」と警告を受けたが、結局、このアドバイスを⽣かすことはできなかった。

あまりの外しっぷりに、植⽥は周囲にこんな不満を漏らしたという。
「調統は⼀体どうなっているんですか」

調統局の経済⾒通しは、調統局⻑、経済調査課⻑、景気動向グループ⻑ら数⼈が核となって作成する。消費や投資などの動向を個々に予測したうえで、経済モデルを使って理論的に⽭盾がないかをチェックするが、基本はごく⼀握りの幹部による「職⼈芸的⾒⽴て」(同局OB)によるところが⼤きい。

このため、彼らに対する⾵当たりは⽇を追って強くなっていく。ある調統局OBは「中期の⾒通しは外しても、短期は外さないというのがわれわれのプライドだった。それすら失われつつある」と嘆き、企画ラインでは公然と調統批判が語られるようになる。⾸脳部も調統局よりも全国の⽀店から上がってくる「ミクロ情報」に重きを置くようになっていった。

11⽉8⽇の衆院財務⾦融委員会。植⽥は「フォーキャスト・エラー」を公式に認めざるを得なくなる。
「⾒通しの誤りがあったということは認めざるを得ません。今後、いろいろなデータをきちんと分析して、⾒通しが適切に⾏われるように努めていきたい」(国会会議録より)
筆者が記憶する限り、景気や物価に対する⾒⽴てが間違っていたことを⽇銀総裁が国会の場ではっきりと認めたことは過去に例がない。

調査を政策に従属︖
だが、こうした〝弱体化〟は、個々⼈の⼒量の問題というより、11年に及ぶ異次元緩和政策の下で「調査を政策に従属させてきたツケ」が表れたに過ぎない、と筆者は考える。

例えば、⿊⽥体制の発⾜以来、⽇銀は「2年以内2%⽬標を達成できる」 と⾔いながら、結果的に達成時期を6回先送りし、最後は時期の⽬標すら取り下げた。
さらに22年春に物価が上がり始めても、⿊⽥が路線修正を渋ったため、この判断と⽭盾しないよう物価⾒通しを低めに⾒積もった疑いがある。

調統局OBは、「あの状況でCPIが2%に⾏くと⾔えば⻑期⾦利は急騰する。 逆に達成する⾃信はまだないと⾔い続ける⽅が賢明だと考えたのだろう」と指摘するが、現役幹部の評はさらに直截かつ⾟辣だ。
「緩和を続けたいという上層部の意向を忖度(そんたく)したのではない か。局幹部も⾃分が(政策修正の)引き⾦を引くことを恐れた⾯もある」(これに対し、当時の調統局幹部は「政策に忖度することは絶対にない」と強く反論し、企画局の幹部も「圧⼒をかけたことはない」と話している)。

異次元緩和の効果に疑問を抱くエコノミストは早くから少なくなかった。だが、「このまま量を拡⼤していいのか」と疑問を抱いた調査研究部⾨の職員は、企画局幹部から「期待に働きかけようとしているときに、期待をそぐような研究をしてもらっては困る」とたしなめられたという。⿊⽥体制下で「企画局⾄上主義」が⼀段と強まる中、将来に希望を持てない中堅・若⼿のエコノミストは次々と⽇銀を離れていった。この⼤量離職問題を含め、調統局の⽴て直しは、植⽥体制にとって急務となっていたのである。

異例の「企画局⻑経験者」起⽤
切り札として送り込まれた中村康治⽒は、マクロ経済モデル「Q-JEM」や ストレステスト・モデルを作った⽇銀屈指のエコノミストである。景気動向グループ⻑や経済調査課⻑を務めた後、⽶州統括役など国際分野でも活躍し、その実績を買われて22年春に企画局⻑に抜擢きされた(この抜擢⼈事が⽪⾁にも調統局を弱体化させたと⾔われている)。ちなみに、22年暮れの電撃的なYCC修正を企画した主⼒メンバーの⼀⼈でもある。

企画局⻑を終えた後、中村⽒は⾦融機構局⻑となり、そのまま信⽤保持政策を担うと⾒られていたが、意外にも古巣に戻ることになった。調統局⻑から企画局⻑に”昇格”した⼈物は⼭⼝泰、⾨間⼀夫、前⽥栄治ら多数いるが、企画局⻑経験者を調統局⻑に充てたことはこれまで⼀度もない、と OBらは⼝をそろえる。

調統局はかつて、企画局とは距離を置き、いわば「⼆枚看板」で情勢判断を担ってきた。永⽥町や霞が関をはじめ世間の声を意識せざるを得ない企画局と異なり、「空気を読まず、不都合なファクトをずけずけと語る」のが調統局の真⾻頂である。

円安を背景に⾦利正常化圧⼒が⾼まる半⾯、物価上昇率は徐々に減速し始めており、⾦融政策の難度はここから格段に上がっていく。チーフ・エコノミストとなった中村⽒がこれから発するメッセージには、間違いなく注⽬が集まるだろう。(了)

お読みいただき有難うございました。
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