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「なぜ書かない」日銀総裁は不満だった

今から2年前、時事通信社発行の「金融財政ビジネス」(2022年2月17日号)に以下の記事を寄稿しました。

筆者が入手したある未公開資料を基に、1971年8月のニクソン・ショックを再検証しようという無謀な試みでしたが、これをきっかけに検証取材は本格化し、やがて「ドキュメント通貨失政」(岩波書店)という本に結実しました。

筆者にとっては、特に思い入れのある記事の一つであり、時事通信の許可を得て、ここに公開することにしました(一部改稿した箇所あり)。

(以下本文)

「なぜ書かない」総裁は不満だった
-日銀百年史とニクソン・ショック秘話(前編)
 
「日本銀行百年史」は、金融史研究において最も信頼できる文献の一つとされる。その編纂室長をつとめ、執筆の最終責任者だった人物が極秘の記録を残していた。そこには百年史刊行に至る詳しい経緯やさまざまな苦労話が記され、実に興味深い。とりわけ71年夏に起きたニクソン・ショック後の日銀内の混乱ぶりをめぐる調査の一部は、なぜか百年史にも記されておらず、新たな「歴史証言」として注目される。(敬称略)


◆「法王」の逆鱗に触れる

日本銀行百年史は、日銀の開業百周年を記念して、1982年から86年にかけて刊行された9年の準備期間をかけて編纂された全6巻(ほかに資料編)からなる大著である。

日銀に眠る膨大な資料と綿密な聞き取り調査を基に、明治15年の開業以来の政策運営を克明に記録している。いわゆる社史の一種でありながら、その記述は終始客観的で、ファクト重視と批判的スタンスが貫かれている。OBの一部に「反主流派的史観」との評もあるが、わが国の金融史を学ぶうえで欠かすことのできない基礎文献であることは間違いない。

この史書の執筆責任者として百年史編纂室長を務めたのが石川通達(いしかわ・みちさと)だ。

石川は1947年、後に総裁となる三重野康や速水優とともに日銀に入行。金融史研究で知られる吉野俊彦の薫陶を受けてもっぱら調査研究畑を歩み、調査局次長、鹿児島支店長、特別研究室長(現在の金融研究所長)を歴任した。元日銀副総裁の藤原作弥によれば、「前川春雄や三重野康も一目置く学究肌のエコノミスト」だったという。

百年史にかける石川の執念は、並大抵のものではなかった。
内部資料を調べ上げ、4年がかりで出そろった大著の巻頭と巻末には、その狙いとして①今後の政策運営の参考となり、②学会の金融研究に貢献し、③各界の金融政策への理解を深めるという諸目的に「十分寄与できるような内容とレベルの百年史を編纂する」という石川の決意が記されている。

そんな石川の証言を記録したA4判22ページの口述メモを筆者は入手した。

そこには、特別研究室長に就いた直後に編纂の密命が下ったこと、各部局からの干渉を防ぐために調査局(現在の調査統計局)の内部組織ではなく、独立した「理事直轄の編纂室」としてもらったこと、配下の執筆者には「学問的な蓄積があり、性格が愚直で反骨型の人」を集めたことなどが細かく記されている。

また、「法王」の異名をもつ一万田尚登元総裁の側近から事前に原稿を見せてほしいと依頼があり、これを断ったところ「オレはもう百年史とは縁を切る」と一万田の逆鱗に触れたことも残されている。同様の要請は佐々木直元総裁の周辺からもあったが、やはり断ったという。

このように生々しい舞台裏がつづられた貴重なメモだが、特に注目すべきは71年のニクソン・ショックに関する秘話である。

この戦後最大級の「経済事件」をまずは振り返ってみよう。

◆総裁は市場閉鎖を主張した?

1971年8月15日夜、第37代米国大統領リチャード・ニクソンは全米向けのテレビ・ラジオ中継で衝撃の経済戦略を発表した。ドルと金の一時的な交換性停止、10%の輸入課徴金、90日間の賃金・物価凍結令などからなるドル防衛の切り札である。

この演説が始まったとき、東京はお盆休み明け8月16日、月曜日の午前10時だった。まだ真夜中の欧州市場とは異なり、東京では市場取引がすでに始まっていた。

何の予告もない衝撃の発表に株式市場は過去最大の暴落を記録し、外為市場には世界中からドル売りが殺到する。1㌦=360円を死守すると宣言した政府・日銀は、大量の円売り・ドル買いでこれに応戦せざるを得なくなった。

問題は、翌日以降も外為市場を開けておくかどうかである。これが歴史に残る重大な政策判断となったのである。

大蔵省(現財務省)は8月16日夕刻に幹部会議を招集したが、市場閉鎖を決めた欧州に倣って即時閉鎖すべきだと主張する鳩山威一郎事務次官(のち外相)と、閉鎖に断固反対の柏木雄介前財務官(当時顧問)が激しく対立し、最後は水田三喜男蔵相の裁定で「閉鎖せず」の方針が決まる。

また、これと並行して大蔵省と日銀の実務者協議も行われ、日銀側も閉鎖は適当でないと助言した。百年史には「本行側は市場閉鎖に伴う問題点を指摘し、市場閉鎖は適当でない旨の意見を表明した」と明記されている。

当時1㌦=360円の堅持は「国是」であり、厳重な為替管理が敷かれている日本ならそれも可能と考えていたのだ。

この結果、変動相場制への移行を余儀なくされた8月28日までの間に政府・日銀は40億㌦を旧平価で買い支え、2000億円超の為替差損を抱え込むことになる。後に「巨額の国損をもたらした」と非難されたのはあまりにも有名な話だ。

当時ロンドン駐在参事だった速水は、イングランド銀行の理事からこんな忠告を受けた、と手記で明かしている。

「きみ、今日みたいな日に市場を開けておくのはバカげているぞ。いくらドルを買わされるかわからないから、閉めるように言うべきだ」

速水は急ぎ東京に電話したが、「せっかくだが、もう聖断が下っている」と聞かされたという(「金融と銀行」81年10月15日号)。また、人事局次長を務めていた三重野も「狂気の沙汰ではないかと思った」と退任後のオーラルヒストリーで酷評した。ひとり日本だけが市場を開け続けたのは「歴史的失策」というのがその後定説となっている。

だが、当時総裁だった佐々木直が、退任後に驚きの事実を明かす。

「ほかの国が閉鎖しているのに、日本の場合は開いたままで際限なくドルを買っておった、あれは何ということだ-そういう批判を受けるわけですが、日本銀行は為替市場を閉めろという考えでしたね」「我々市場に直結している者は、これじゃ市場の維持は大変だという気持ちでしたね。ただ、逃げ口上じゃありませんけれども、外国為替市場をどうするかという決定権は大蔵省にあるんですし、日本銀行は参考意見を述べるだけです」(週刊エコノミスト77年11月15日号)

また佐々木は5年後の週刊東洋経済82年9月29日号でも「動揺のある時にはしばらく閉めて模様を見るという一つの便宜的な姿勢もある」と述べた、と繰り返し強調した。

一連の告白は周囲を当惑させ、以来日銀内で最大の謎となった。総裁の意向は絶対であり、これに反する意見を独断で政府に伝えるなど考えられないからだ。

当時総務部長(現在の企画局長)の中川幸次(のち理事)ですら、自著「体験的金融政策論」に「それなのになぜ開いたままにすることに決まったのか、正確なことは知らない」と書いている。

しかし、百年史を託された石川はこの謎に真正面から挑み、解明への糸口についにたどりついた。

◆石川が解き明かした謎

メモによれば、石川も佐々木の発言が長く気になっていた。複数の大蔵省OBから「閉鎖しないと一致して決めたはずなのに、総裁がなぜあんなことを言うのか。甚だ不愉快だ」と抗議を受けていたこともあり、「日銀がどう関わったのかということだけは絶対に明らかにしなければならない」と心に決めていたという。

石川はまず、ニクソン・ショック10年後の夏に開かれた「佐々木元総裁をお慰めする会」に着目した。当時の関係者10数人で佐々木を囲み、思い出を語る会である。この出席者が記録したメモを石川はひそかに入手したが、佐々木が雑誌で語った内容とまったく同じだった。

そこで石川は発生当日の午後に開催された役員集会、通称マル卓を調べ直すことにする。正副総裁と理事で構成されるマル卓は議事録を残さないため、出席者から改めて話を聞いて回ることにした。(以下次号)

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