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彼の住むまちに来るのもこれで最後

仕事終わり、すぐに電車に飛び乗った。
因縁のあるものは早めに片付けてしまいたい。
私は今日、彼との思い出にさよならをしにいく。

前のノートにも書いたとおり、私は今日で彼とのすべてを精算するつもりだ。
最後のつながりである彼の部屋の合鍵を返して、連絡先を断つ。

未練はない。
平気だ。
私はいたって平常心だ。
その、はずである。

仕事中も普段通りに過ごし、私が昨日彼氏と別れたことなんて誰も気付きやしなかった。
まぁそもそも恋人がいたことも、職場の人には誰にも言っていないけれど。

電車が来て、乗り込んでも、どこか現実離れしたようなふわふわした感覚があった。
今日で本当に終わりなのか。
いや、昨日すでに二人の関係は終わっているんだけれども。

席には座らなかった。
座ってしまったら、もう立ち上がれない気がした。
ずっと外を見ていた。
もう見ることのない景色。
今日が最後なのだ。

最寄り駅に着いた。
彼の家へ向かう途中、曲がり角の道の先で彼の車に似た車が走りすぎていく。
目を凝らしても、それが彼なのかはわからなかった。
でもいい。
いない方がいいんだから。

彼の家までの道は、いつもみたいにあっという間だった気もするし、同じくらいに歩いているこの時間が永遠な気もしていた。

わからなかった。
私は後悔しているのだろうか。

見慣れた壁が見えてくると、思ったとおり駐車場に彼の車はなかった。
ちょうどさっき見かけたものが彼の車だったのだろうか。
どうでもいいけれど、不在にしているのは好都合だった。

何回も来ていたのに場所だけで、部屋番号さえ覚えていなかった私は、最後に、彼の部屋の扉の前に立った。
中に電気はついていない。

ほんの1、2秒、見つめたあと。
振り返って入り口のポストに向かう。
先程ポストを確認していた住人はいなくなり、ここには私ひとりだ。

かばんから、鍵を取り出した。
彼と私の最後のつながり。
冷えた鍵は、手のひらの体温にゆっくりと馴染む。

ためらいはない。
確認した彼の部屋番号のポストに入れた。

かしゃん。

乾いた音がした。
私の心も、同時に落として割れたみたいな。

少しずつ気温が下がり、涼しい初夏の夜の気配があたりには満ちている。
駅までの道のりは、来るときよりも早く感じた。
車の音がするたびに、ちらりと後ろを気にしてしまう。
もしも彼だったら、去っていく私を見つけて呼び止めるだろうか。

もちろんそんなことあるはずもなく、何事もなく駅について、ホームの椅子に座り電車を待った。
私はそこで、これを書いている。
書き始めた頃の空は薄紫だったのに、もう暗い青が降りてきている。

次の電車はあと十分で来る。
私の他にも何人かが待っている。
それぞれの人生のワンシーンが、今の私にはひどく眩しく見えた。

ぜったいに泣かない。帰るまでは。
辛い恋をたくさんしてきた。
私はなんとしても幸せにならなければいけない。
こんなところで挫けている訳にいかないのだ。

彼はポストの中の鍵にいつ気づくだろう。
もう帰ってきて、気づいているだろうか。
今となってはもう全部どうでもいいことだ。

別れというものは、やっぱり何度経験してもどこかしら心が痛いものらしい。
彼も思い知るだろう。精々苦しめばいい。

電車が近づく。
これに乗れば、今までの私はいなくなる。
新しい私になって、前を向く。
そう決めた。今決めた。

さようなら。
私、幸せになるよ。

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