恐るべき子供たちがいるとして

最近はやっと、週に数本映画を見る生活に戻っている。一時期、毎日のように映画を見ていたことがあったけれど、遠い昔のような気がするし、映画を見ながら、いかに自分が映画に対して熱情を注いでいないかに気付く瞬間がちらほらある、けれど見ないよりは見た方が、楽しいと思う。

 話題の映画、とか昔見たかった映画とかを適当に見ながら、ここ一、二ヶ月の中で自分としての一番わくわくした映画が、ベルナルド・ベルトリッチの『ドリーマーズ』かもしれない、と思い、しばしぼんやりとした、「いかに自分が映画を好きでないか」といったような気分になった。

 この映画は六十年代シネフィル美形の双子の姉弟と留学生の主人公とのR-18ブルジョアジー・ゲーム、といった、『恐るべき子供たち』の系譜に連なる作品で、ベルトリッチが撮っているのだから画面の美しさはそれなりに保ってはいるものの、所々で何だか恥ずかしくなるようなシーン(特に三面鏡に映る裸体が、方法として間違っていないのに凡庸すぎて、あ……とか思った)もあり、ロックや映画の引用は「子供たちの為の」小道具であって「どーでもいい」もので、それよりも、その昂揚と気恥かしさこそがこの映画が『恐るべき子供たち』であることの証明でもあるのだと、そう思う。洗練よりも成功よりも完成よりも、嫌味と放言、そして美しさを!

 三人の主要な登場人物は全員美形なのだが(映画だからってそれが当然ではない)、特に女優の顔や身体が生々しいマネキンのような美しさをたたえていて、彼女のおかげで大分画面が持った。ベルトリッチが彼女を見て「この映画の役は彼女しかない」とか思った、そうです(うろおぼえ)主人公役の留学生の男の子も、中産階級ぼっちゃま的な顔で演技で、良かった。動く美形を(それなりに)美しく撮る、それだけでも、十分だと俺は思う。

 デレク・ジャーマンの「出来の悪い映画」、『ラスト・オブ・イングランド』みたいに楽しんでいたら、(ネタばれになるしここで書いても伝わらないだろうから書かない)ラストの展開で、ラストシーンで、笑みがこぼれた。こりゃあ、ベルトリッチ性格わりーなあ、と思ってにやけた。この映画をベルトリッチの(皮肉ではなく)「嫌味」として見るならば、数々のどうかなー(特にラストのスローモーションは……醜悪という言葉を使うのもはばかられる、あれ、ギャグでしょ?みたいな)さえも、危ういバランスで積み重ねられた「悪ふざけ」の前ふり、みたいで、こりゃあ「恐るべき子供たち」だなあ、と感じた。映画としては、まあ、普通(でも普通ってことは楽しめたってことだ)でも、今の俺にとっては上質の軽薄さだった。

 映画に限らず文学でも、日本では『恐るべき子供たち』は中々出現しない。それっぽい、のはちらほらいるかもしれないが、彼らには演技と傲慢が足りないように思える。初期の大江や模造人間の島田なら、「子供たち」に相応しい資質、「嫌味」を備えているように思えたが、それも長くは続かない、というよりもそんなのを続ける必要性を感じていないのだろう。きっと、『恐るべき子供たち』は作品の中で消費されるべき、消え去るべき鮮やかな青臭さだろうから。

 外国に比べて日本で「子供たち」が少ないのは、きっと日本ではゲームや漫画、アニメの世界で「めちゃくちゃ恐るべき子供たち」が量産され続けているからだろう。彼らは「めちゃくちゃ恐ろしい」ので、十分な嫌味がスノッブさ(この言葉あんまりすきじゃないんだけど)がない。だから、少しだけ寂しい。きっと、恐るべき子供には演者としての自覚が、嫌味が必要なのだ。相手をぞっとさせる、煙に巻く、洗練された青臭さが。

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