売春貴族と睡眠貴族

拘束時間が終わって、イヤホンをはめて轟音に逃げ出した。大きな音がすると考え事をする時間が減って助かる。辺りは暗く、街灯に、流れる車が発する光に、瞳を奪われる。幸福幸福、だと思う。耳元で、大声で、セクシーな声で歌っている人がいるなんて。

 数日先のことなら考えられる、どうにかできる自信がある。この先も、何だかんだで大丈夫だろう、とは思うけれど、それでも、こんな綱渡り生活では「魔法」のことを考えるのは無理だと痛感する。轟音に頼っているようじゃ、都合の良い特殊能力がある人間なんて(それが現代にいるのなら)、蔑みを覚えてしまう。

 でもそれと似たような物語を書くことが可能であるならば、きっとユイスマンスの『さかしま』みたいなひきこもり生活になるだろう。たしか澁澤も引用していたと思うが、巨大な亀の甲羅に宝石を埋め込む、というシーンが好きだ。河出の文庫版ならば持っているのだが、本の山に埋もれてしまって。探す気はない。再読する気も当分ない。きっと、人生を投げるか、お金が入るかしたら、あの分厚くて甘ったるくて優雅な時間に耽溺することができるだろう。どちらも、今のところ予定はないのだが。

 優雅な本、といえば、澁澤の『フローラ逍遥』も文庫版しかもっていない。写実的な美しい花の画と澁澤のエッセイという、とても品の良い本で、花々が描かれた装丁がとても綺麗で、ハードカバーの物を買おう、としたら四千円だかの値段がついていてやめた、ことを思い出す(今アマゾン見たら約二千円でした。買いません。買うのは皆様)。とはいえ文庫版だって、文庫のくせに千五百円とかしたような。これも現物は、山の中。

 労働がなければ、俺ももっと優雅に、ディレッタントに、ロマンチストになれるだろう。これは笑い事ではない(滑稽だが)。高校生でゴダールを目にする前から、はっきりと、全ての労働は(程度の差はあれ)売春だと確信していた(すごい、駄目人間の発想だな。よくこの歳まで生きてこられたな、おめでとう)。

 思えば数年前は売春のことを良く考えていた。俺は美しくもなければ醜くもない、平凡な顔の一つ、そして、どこにでもいる若者と同じく、労働を憎み、恐れていた。貴族的な生活を送るためには、売春を行い(労働に割かれる時間を減らし)能率的に生きるのがいいのではないか、と考えていた、が、実行はしなかった。俺は美しくも醜くもないことを知っていたから。何より、俺はサービス(接客)業が、大嫌いだった(今働いているのはサービス業みたいなものだけど!自分が喋った言葉のせいで、苦しむんだ)。

 そしてその凡庸な容姿が原因で、その考えをずっと引っ張っていた。ともあれ、さすがに、自分が確実に市場から外れていることを自覚する。若さも容姿もないなんて、相手に提供するにふさわしくない。俺は身体に値段を付けて自分の価値図ろうなんてしていなかった。ただ単に、普通の、生活をしたかっただけだった。普通の生活がしたかったんだ。でも生きるなんて、普通の人には無理、てか、難しいだろ?そうだろ?

 それにしても売春貴族なんて造語はとても滑稽だと思う、が、それは森茉莉の名著『贅沢貧乏』みたいで、少しだけ、気に入っている。俺は模造宝石の、スタッズの美しさを愛する。似合いだと思っている。

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