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66.数値化され難い真実-“成る”と“成らん”との間にあるもの-

夏休み。
上級教会の会長さんより、小学校にあがったばかりのうちの長男を、上級のこどもおぢばがえり団参に参加させてあげてはどうか、という勧めをいただいた。

長男もはじめはその気になって喜んでいたのだが、その後妻と相談の結果、どうしてもクリアすることの難しい様々な事情から、今回はその話をお断りすることとなった。

色々あった。経済的な理由ももちろんその一つだ。おぢばから遠隔地であるこちらの人間にとって、こどもと言えど人ひとりおぢばに帰すのに、安くない旅費が発生する。それに小学一年生、6歳の長男を両親から離したことがなく、ぜんそく持ちの彼が慣れない環境、暑い炎天下のおぢばに放り込んでどういう体調変化が起こるのか予想がつかなかった。

私も一緒におぢばに帰ればいいだけの話なのかもしれないが、生憎二人でおぢばに帰るだけの財布の余裕はなかった。その他にも色々懸念はあったのだが、そういう積み重なった不安要素が、不参加という結論を生んだ。


本音を言えば、もちろん参加させてあげたかった。
こどもの頃におぢばがえりを体験し、天理の空気を吸って成長していくことで長男にとっても有意義なことだと思っている。

わかっている。だけどそれでも、それをさせてはあげられない。
あれこれ夫婦で談じ合って、考えに考えた末の“不参加”という我々の決断を、おやさまはどうご覧になっておられるだろうか。


数値化されない見えづらいもの

物事の成否というのは、他者視点からは、“成ったか”、“成らなかったか”という単純な結果のみしか見ることができない。

仮に、ある時身上や事情を抱えた人が眼前に現れたとする。
それでさっそくそのおたすけにかかり出す。

その結果、先に待つのは御守護をいただけたのか、否か。
たすかったのか、そうでないのか。
0か、100か。

こういう二つの結果だけしか見えてこない。

しかしその実、おたすけに奔走した者が込めて来た、無形の、目には見えにくい、数値化することの難しい真実が、確かにそこには存在している。

事が良い方に成らなかったのは、真実が足りなかったから。
そういう言い分も立つには立つかもしれない。

その成らなかったという姿の中にも、個々のいんねんから思案すべきこと、
日々日頃の徳積みが物言うこと等、様々な要因と親神の思惑とが混ざり合って結果が生み出されていく。

形にあらわれてきた事象の裏側には、多くの人の複雑な思いが込められているのだということを、理想の姿には到底及ばない自分自身の現状から学ばせていただいているわけだ。

おぢばは遠い。
物理的にも、それ以外でも。

遠いからこそ、帰りたいという焦がれる想いは一層募るばかり。

こんなうまくいかない日々が、いずれの他日に迎えることのできる収穫期への伏せ込みとなるのであれば、報われる気がするのだけれども。


【2015.8】



おまけ

長男はこの翌年から毎年こどもおぢばがえりすることが出来るようになりました。中学生にあがると、コロナ禍ではあったものの少年ひのきしん隊に参加し、そして今年は学生生徒修養会高校の部にも参加します。

このコラムを書いた当時、その後のこういった結果を得られることがまだ見えていなかった。景色は狭く、先が見えなかった。そういう時期の煩悶が言葉の後ろにはあったわけです。

今に思えば、この時期経験したことで、見えにくいものを見澄まそうという意識は一層深まっていったようにも思えます。それは現在のピーナッツの営んでいる社会活動とも密接に関連しています。

物事は知らずのうちに繋がっている気がします。
経験すべきことを味わっている。
そんな気すらします。

人生って、事前に綿密に計画され、そのルートを歩んで学びを繰り返している、そういうことが真剣に考えさせられますね…( 一一)


ここまでおつき合いいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)


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