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30.幸福の基準はどこにある?

先日、ある信者さんからこんな話を聞かせてもらいました。


その信者さん(Aさん・60代女性)には娘が二人いて、長女は北海道の内陸に、次女は東京にそれぞれ嫁いでいて、その二人がお盆のお墓参りにと孫を連れて帰省してきたのだそうです。

北海道から帰ってきた長女さんが実家に到着するや否や、

「こっちは暑いね~」

なんて言いながら、部屋の窓を開けてまわったといいます。

しばらくして東京の次女さんが帰ってくると、

「うわ~、やっぱりこっちは寒いね」

そう言いながら、先ほど姉が開けた窓(ということを知らず)を、彼女は閉めてまわっていたのだとか。


それぞれが普段住んでいる土地の気候に身体が慣れてしまっていたからなのか、実家の戻った時、同じ場所にいる筈でも、ひとりは「暑い」と感じ、もうひとりは反対に「寒い」と感じていたようです。

では、そんな実家に住まうAさんはどうだったのかというと、

「暑くも寒くもない、これが普通でしょ」

と娘達に答えていたのだそう。


自分の感覚を基準にすることの危うさ

この話を聞き、非常に示唆に富んだエピソードだと私は感じました。

どうも人間というものは、知らず知らず無意識のうちに、自分が感じているものをあたかも標準であるかのように錯覚し、その色眼鏡で目の前の物事や視覚・聴覚・触覚から得た情報を判断してしまう傾向があるようなのです。

気温や室温は数値の観測という点では誰にとっても等しく、平等にぬくみを与えてくれている筈なのに、実際上の体感は、人によって暑かったり、寒かったり、快適だったり不快だったり…千差万別なようです。


なにか…“人間の幸福”という点においても似たようなことが言えるような気がしました。

自らの置かれた条件や境遇は、それが一見同じもののように思えても、他人をとりまくそれと比較しながら

「不自由なことが多くて辛い、苦しい」

と感じる人もいれば、

「もっと不自由している人がよそでいることを思えば、これで十分」

と感じる人もいるでしょう。
あるいは、

「こんなにたくさんの恵みに囲まれて、本当に幸せだなあ」

と感じる人だっているかもしれません。


いずれにせよ、条件の良し悪しが幸福の可否をわけるというよりも、それを受け取る、各々の受け取り方次第のような気がします。

現在持っているものをしっかり見つめることのできる“知足の精神”が乏しければ、仮に現在目の前に並べられている不満材料がひとつ解消したとしても、「不満がひとつ減った」ではなく、まだ残っている他の不満材料にフォーカスしたり、または新たな不満材料を別に探し始め、そうやっていつまで経っても幸福に近づく手がかりを見つけられないままでいることになるのかもしれません。

【2013.10】


おまけ

先日、ある方(Bさん、60代女性)と“水の味”という話題が会話の中に持ち上がりました。

その方は埼玉に娘さんが嫁がれていて、娘の家に年に数度孫の顔を見に行っているそうなのですが、向こうに行くと水道水がどうしても飲めず、ミネラルウォーターを代わりに飲んでいるのだ言っていました。

私達の住んでいる地方は水が美味しい土地だと言われており、普段は当たり前のように水道水を飲用していますが、よその地域に行くと確かに水道水が飲めないと私もよく感じています。(天理の水は飲めない…)

でもよくよく考えると不思議なものです。
水の味って、どういう風に表現すればいいんでしょう?

甘くもなく、辛くもなく、苦くもなく、しょっぱくもない。

その特徴は、無色透明、何にも偏らず、無属性というか…。

それでいて、口に含むと「美味しい」とか「まずい」という感想がつきます。まずい水には独特の風味がついてくる気がします。なんとなく。

それに対し美味しい水は、クリアで、渇きを潤し、それでいて主張が全くない。

でもそれを具体的にどういう言葉で表したらいいか、それがなんとも難しい…。


ふと、人間の幸福もこんな“水の味”のようなものかもしれないと感じました。偏った風味がなく、透明な状態。それが失われ、変な味が混ざってきた時に、本当の美味しさ、本体の姿から遠のいていく。

幸せの形と、水の味。

そうやって考えていると、おやさまのあの月夜のエピソードが、また違った印象や味わいを持って胸中をよぎっていくような心地がしています。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
それではまた(^O^)

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