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アラフォー独女が人生見つめ直す話〜2話

ーー楓さんは、死にたい?ーー

私は子供の頃から希死念慮があった。
「消えてしまいたい」
「どこか遠くへ行ってしまいたい」
「本当に神隠しがあるなら連れて行ってほしい」
まだ「死」という概念が朧げだった小学生の頃には、突如波のように押し寄せる「消えてしまいたい感」と共に生きてきた。
理由は何だったのか?と考えると、やはり一番は「生まれてきてしまってごめんなさい」と思っていた事だと思う。

母親は専業主婦だったので、私は3歳から幼稚園に通った。
私の世界は母親と、近所の幼馴染と遠くの幼稚園だけだった。
父親は忙しい仕事人間だったので、殆ど関わり合えない遠い存在になっていた。
当時は車も無くて(父が仕事で使っていたので)、母もどちらかというと出不精な事もあり、私の世界は自分の足で行ける範囲という極狭い世界だった。
幼稚園は遠過ぎて、送迎バスは酔って具合悪くなるのを避けるために寝るしかなかい苦痛の場所。
1〜3ヶ月に1回は熱を出して幼稚園はお休みして近くの病院へ。
今振り返ってみると、幼稚園の思い出よりも病院で毎回お尻に解熱剤の注射と喉に赤いの塗られるやつの記憶の方がしっかり残ってる。
そんな小さな世界で、私は徐々に愛情に飢えて孤独感や罪悪感が膨らんでいったのだと思う。

両親は、当時としては晩婚だった。母の初産、つまり私を産んだのが33歳の時。ほぼ高齢出産、ハイリスク妊婦だった。
その影響もあったのか無かったのかは微妙なところだが、まあまあな難産だったようで、2人目とか考えられん・もう無理!となったらしい(この辺は大人になってから深い話を聞いたりもして新たな発見もあった)。
そして、なんだかんだと不平不満が口癖のような母だった。
  私が生まれてお母さんは不幸になった…?

仕事人間の父もたまに休みの日があって、そんな日は家でゴロゴロしているか家族で出かけるか。
私はもっと構って欲しかったし遊んで欲しかったけど、鬱陶しがられたり上手い事逃げられ続けていた。
それなのに、従兄弟達とは率先して遊んであげる「良い叔父さん」だった。
  男の子だったら、もっと遊んでくれた…?

結果として、小学校低学年くらいには
 私が生まれたせいで両親を不幸にした。
 私が男の子だったら良かったのに。女の子だから駄目だったんだ。
そんな風にすっかり自分を責めるスタイルが完成していた。
だから、これ以上迷惑をかけてはいけない、良い子でいなければ、怒られるような事は絶対しない、従順でいなければ、女の子らしさなんて必要ない、面倒ごとはおこしちゃいけない…そういう子供になっていた。

そんな私は周りからどう見られていたのか?
 下に兄弟が10人くらいいて、おんぶに抱っこしてお手伝いしてそう。(本当は一人っ子)
 長女っぽいよね。
 A型っぽい。(実際にA型だけど)
 几帳面、大人しい、真面目…
これが高校卒業するまでの私。
小学生の頃はいじめられる側だった。
特に担任が最低最悪人間だった年があって、その頃が一番いじめも酷かったと思う。
昔は定番の「ブス・デブ・キモい・えんがちょ」的なやつ。
仲間はずれなんて当たり前。上履きや外履隠すとか捨てるとか定番。

ただ、この辺りのいじめでグレずに済んだのは、そもそも既に自分に生きてる価値がないと思っていたのと、一人っ子ゆえの孤独・ひとり遊びには慣れていた事。
なんならいじめてくる奴の事を「子供だなぁ…」って鼻で笑ってた。
隠された持ち物は、まるで探偵か宝探しのように楽しく発見していたし(この頃には夕方の刑事ドラマと火サスは毎週欠かさず見てた笑)、いじめられて泣く、ということが無いからいじめがエスカレートしたり長続きする事がなかったのは幸いだった。
あの担任はマジでクズだと今でも思うけど。(母娘ともにセクハラ発言ターゲットにされてたと大人になって知った)

あとは小学校6年間は夏休みの半分以上を、富良野で農家をしている父の実家に預けられて過ごしていた。
そこには従姉妹のお姉ちゃんと1つ下の双子君達がいて、みんなで畑仕事を手伝ったり宿題やったり庭でキャンプして全身虫刺されになったり、それはそれで今となっては貴重な楽しい思い出。
ただ、7月終わりに連れて行かれて放置され、お盆休みに迎えに来るというルーティンが最初はちょっと寂しかった。
そして叔父叔母・祖母から時折投げつけられる「これだから一人っ子は…」とか「これだから都会っ子は…」という言葉が苦しかった。
だって自分ではどうする事も出来ないし。
私が生まれたせいで母は2人目を望まなかった訳だし。
住んでる場所に文句あるなら両親に言ってよって。
言い返したい、怒りと悲しみを押し殺して毎回無言で受け流していた。
だから富良野に行く夏休みは半分楽しくて半分嫌いだった。


ーー正直、積極的に死のうとまでは思わないけど、生きてるのも疲れましたーー

そんな小学生時代を過ごした私は中学生になって更に拗ねていった。
元々が一重で目が細いのに、視力もどんどん悪くなって目付きも悪くなった。
笑うとキモいから笑うなと、誰か忘れたけど男子に言われてからは人前で歯を見せて笑う事もなくなった。どうしても笑っちゃうような時は口を手で覆って隠した。
部活動もやっていたけど、人間関係が嫌になって2年の冬に辞めてしまった。
3年生になると、学年全体が荒れてしまって3年生の階だけ校舎がボロボロになるレベルだった。暴走していた男子達とは特に縁は無かったけど、受験勉強のストレスと壁を蹴ったり殴ったりガラスが割れたりする音を毎日のように聞いて過ごすのは、今思うと相当精神的にストレスだったんだと思う。
どうしようもない怒りやフラストレーションを「モノに当たる」「自分の体を痛めつける」ことで解消するようになったのはこの頃からだと思う。
でも大人として「モノに当たるのは良くない行為」だから、周りにバレないように気づかれないように自分を痛めつける方により依存していったのは間違いないんだ。

ここまで散々暗い話ばかり書いてきたが、こんな私にも少ないが友人はいた。
特に小6で私の居たクラスに転校してきて友達になった子は、中学は一緒、高校からは別々の道を歩んでいるが、未だにお互い独身でのんびりと会いたい時に会って、数年に1回は旅行にいくような親友だ。
私の外側じゃなくて「なんか気の合う奴」として、ずっと内側を見てくれていた人だ。そう思うと感謝しかないよね。

でもまあ、同じ中学の人が殆ど行かない高校を第一志望にしていた私は、なんとか無事に合格して、晴れて誰も知らない世界へ行くことができた。
「ここではない何処かへ行きたい」「消えてしまいたい」
ずっとそんな思いを抱えて生きていた私には、ごく当たり前の選択だった。
学年総勢で約270名のうち、同じ中学からの入学者は自分を含めて4名。
すごく清々しかった。
それなりに楽しい高校生生活だったと思う。友達もいたし。勉強もまあまあの成績だったし。
やっかいだったのは私の思春期(生理痛酷い、ホルモンバランスも多分悪かったと思う)と、母親の更年期が被ってたこと。
家に居ることの方が苦痛だったかもしれない。表面上は隠して耐えていたけど。
  資格を取って、手に職つけて、働けるようにならなきゃ。
  あんたは一人っ子なんだから、独りで生きて行かなきゃいけないんだから。
  資格も何もない夢見たいな事言わないの。そんなのただの趣味にしなさい。
  あんたは良いよね、若いんだから。
  これから何でも好きにできるじゃない。私なんて…
やりたいことあるならやれば良いじゃん、て私が言っても「もう歳だからそんなの出来ない」と。
こんなことばかり耳にタコができるくらい聞かされ続けて、私は早く家を出たかった。早く独りになりたかった。
良いよもう、私は独りで生きていくからって拗ねていた。


ーーなんかもう今世の役目とか全部終わっちゃったような気がするんですーー

資格!手に職!と言われ続けた私は、最終的に薬剤師の道へ進むことに決めた。
正直に言うと、これなら文句ないだろ、という母への当てつけみたいなところがあった。
現役で合格出来なくて、どうする?ってなった時も母への建前上後に引けない感じがあって予備校へ行くことにした。
予備校へ通った1年間はもうひたすら勉強していたはずだったけど、心のどこかに「資格なんてどうでも良いから好きに生きたい」という自分との戦いの方が強かったかもしれない。
全ての試験日程が終わって、全然手応えを感じられなくて。
この時初めて母と大喧嘩をした。
電話越しだったから余計だったのかもしれないけど、資格が無い仕事なんて夢だ忘れろと言われてきた数々の思いが爆発した。
母が泣くほど本音をぶつけたのは後にも先にもこの日だけだった。
結果的には無事に大学から合格通知が来て、めでたく薬剤師になるわけだけれども。

こんな大喧嘩までしたけれど、私は自分の進んできた道に後悔はしていない。
それは「選ばされた」訳じゃ無いから。
全部自分で選んできたと思っているからだ。
全て自己責任。
人生の選択という意味においては、私は結構しっかり自分で責任を負ってきた。
ただ、その選択の主軸が母だっただけ。
母を納得させるような「手に職・資格」とは?と考えた結果、私が導き出した答えが薬剤師だっただけ。
そういう人生を選んだのは私だ。
だから後悔はしていない。


ーーでも…まだ生きてるから…何かしなきゃいけないんだろうなって思いますーー

ーー続くーー

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