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「鬼」と暮らす世界の理(ことわり)。

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動しており、人の心に棲みつく「魔」の類いについて解説しています。

「知らぬが仏」という言葉があるように、知ってしまうと鬼の形相に変貌するのは、「約束こそが大事」であるからです。

「約束した」という思い込みの現実が解かれ、別の現実を突きつけられる時、「約束さえ取り付ければ安泰だ!」と思い込んだ世界が崩れ去ることがあります。

それは、「約束」などの契約さえあれば大丈夫だ! と、のほほんと努力することや、変化して磨き上げていく愛の姿を捨て去った為、「ふて腐る」に任せてしまった事実が「鬼」を呼び込み、より悪くなる振る舞いを重ねてしまうのです。

「約束」こそ重要であり、それを双方同意で決めた以上、後からの変更は絶対に許さないとする為に、「その脅迫感が心を閉ざすこと」となり、隠蔽体質や、バレなければ何やってもいいとした、「知らない方がいいこともある」などとなり、建前が大切であると信じる人は「約束を取り付けること」が主たる目的であり、達成したゴールになるのです。

これが反故されると、「鬼を生む」こととなり、「約束と違う」が対立を成立させるのです。

これは、親の教えに従って「最初はうまく行くと信じて努力したけれど、やっぱり駄目でした」というものです。

最初から嘘はついておらず、「約束をする」ことになるものの、努力の甲斐も無く継続不可能だと判断した瞬間に「約束は破れる」ものとなるのです。

「無条件の愛」に生きる人の中には「約束」は存在していても、価値の無い曖昧なものと扱う為、最初から「約束をしていない」架空のものと扱います。

「約束」とは「一つの目星」みたいなもので、方向性を示す程度の標識みたいなものです。標識に従えばそっちの方には近づく可能性が高いだけで、必ずしも辿り着けるものではないと考えるのです。

「鬼」は、この「約束の破棄」を同意なく起きることを否定します。

鬼の意味、定義とは
「仮説や空想を信じることで生み出される自我のことで、憶測や先入観なども含み、類推する可能性が虚偽で立証され、無意味だとわかりながらやるように強要する時に退かない概念のこと」
「悪意だとわかりながら辞めぬことや、嫌がれば辞めてくれるものだと信じて疑わないことや、聞けば答えてくれるのを当然だと早合点することで、人を便利な道具だと勘違いし、相手の優しさに付け込んで虐げる真似を無意識にしてしまうこと。自分がされたら嫌がることを無意識のうちに相手にしてしまうこと。弱者の立場を利用して出来る能力があるにも関わらずに、自分ではやらず相手にやらせてしまうこと」

鬼の心というものは、云いたいことを言わずに生み出されるものです。

云うことさえ思いつかないものも、後々に思いつくようになり、言い出すと相手が激情してしまい、大変な思いをすることもあります。

言う自分が鬼なのか、言われる自分が鬼なのか?

そのどちらも自身の鬼の姿なのか、全てを疑ってかかることです。

鬼は脳内のお喋りだけで終わらすものです。

素直さが無いのが特徴です。

何より批判や誹謗中傷めいた内容を否定すると生きながらえ、肯定すると弱り果てる存在が「鬼」です。

「鬼」の概念は、真実に従わないものであり、否定することで成立する価値観です。その為、「敵対すること」が条件になる為、平和を求めようとしながら、「あんな風にはなってはいけない」と敵の定義を生み出し、それを否定することで自身が肯定される善悪説に走るものです。

「鬼」の心は、他人のせいにすることが出来ます。

良識があり、変革を受け入れる愛深き人ほど、「自分が改めるべき」と考えてしまい、「鬼」が言い放つ「お前のせいだ!」という他者に原因があると言い放つ解釈と交われば、良識がある愛ある方が虐げられる現実を生みます。

良心がある方が虐げられ、「鬼」を宿して「人のせい」に出来る方が「あんな人になりたくない」という愛の人を否定することで自身の正義感を貫き、建前と約束こそ重要視し、言い含めることだとしても承諾した相手の責任にすれば、「自分はルール通りにやっただけで、無理強いはしていない」と身の潔白を他者に示すことが出来るものです。

本来、互いに良心があるなら、「話し合い」で解決出来るものですが、この「鬼」の心が存在している為、相手の言いなりになることや、納得させてくれる理屈を与えられずにプロジェクトに参加させられることを強く拒みます。

「鬼」は服従という、互いが同じユニホーム(服)というチームカラーに染まり、そのチームに従うことを嫌います。チームには入っても、「服従した覚えは無い」と、連携を信頼関係で築くことはせず、不信感をぶつけ合って関わる真似をしてしまうのです。

「鬼」は支配という、愛による支えや、情けを配ることを嫌います。

「鬼」は支配と聞けば、自由を奪われることや、反抗することを許されないことばかりが気に障り、徹底的に抗うべきものだと信じて疑わず、相手より自分の方が有能に決まっていると相手の力量や智慧の深さを測り間違えます。

経験不足の者が、経験豊富の人の力量や智慧の深さを見抜ける道理が存在しない事実がまず見抜けません。

エゴの鬼が、純粋愛の姿か、同じく鬼の姿かを識別出来ないとは、鬼は知らないのです。

そして、無意識の内に、愛ある人に対して失礼な鬼の姿で干渉してしまい、自分の醜い姿を出してしまっている現実がわからなくなり、自滅してしまうのです。

人も自分も悪く思いつかないことです。

自虐思考などもしないことです。

思いついた鬼からの囁きも、対話すれば全く意味も価値も有益性もないことが理解出来るものです。

「鬼の消し方がわからない」

という問いかけそのものが無意味だと悟らなければなりません。

必要としている真心がいるからで、不必要だと気づけば消え去るだけです。

識別は出来ませんが、実践して対話すれば消えるものです。

要らないものを「要らない」と気づけるかどうかは、自分の知性が備わるかどうかにあります。

自ら考えることでしか、鬼を滅ぼすことは出来ません。

鬼は「無償」をやたら好みます。

「有料」など、相手が善意ではなく、守銭奴に等しい「金だよ、金! 金を払え! 無料で施しを受けようなんて頭悪すぎ!! 金がないなら一人で愛に還れ」と、追い返してくる輩を恨み、嫌います。

「無償」が好きな割に、鬼は自分の力で勉強することが嫌いなので、助かる書物が無償で用意されていても読みません。

「教え方が悪い!」という人のせいに出来ない為、書物などを読むことそのものに苦痛や抵抗感を覚えるものですし、気が反れたり、気が散ることなどが続き、読みたくなくなる傾向があります。

「鬼」を宿している人は、「自分を信じる」という言葉が好きでありつつも、神仏など見えない聖なるものを人の心の中には見出しません。

人を信じることも、「条件付き」で信じるものであり、無条件に信じるような聖霊に従うような清らかな心を「持ちたい」と願うだけで、「持っている振る舞い」をしようとはしません。

言い訳や、卑屈さを出して、「興味ない」「する気が無い」など、最初から無関心であることを言い出して、対話している現実の意味を見出そうとはしないものです。

どこまでも鬼に乗っ取られている生き方をしてしまうので、お気をつけください。

生身の真心と、無敵に等しい鬼の心は、鬼の方が基本強いものです。

それでも、真心が梵の心を見出し、太陽の光のような愛を見つけたなら、鬼の心は瞬く間に消滅させられるものです。

どうか、自身の中に宿る梵の心に従い、鬼を滅殺してください。

必要としてくれるならば、有料にてお助け致します。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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