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愛を探し見つける 准胝観音

リーディングマスター・まさみちです。今日からお遍路再開です。徳島県入りしております。心は体感する経験の前に、いくら知識を入れて落とし込もうとしても無理や無茶な話しであるのは「食わず嫌い」という言葉で片付けることが出来ます。それを「食べるしかない」に到るまで育てるのが大変であり、「食べていくものだ」と解るのが人生なのですが、これが中々難しいのです。そして不味いものなら、吐き出せばいいのに、食べたら食べたことで勿体(もったい)ないに入り、吐き出さないと来たものだから手がつけられないのです。(82/88)

今日は、お遍路を歩き始めて、早速有り得ない筋肉の痛みを体感するのでそれを紐解くと「海に向かって馬鹿野郎!」と不満の捌け口として自然に向けた想念が、巡り巡って私が体感している事実に気づいて唖然としたものです。

「悟りを開く」のは「心が開かれて『無』が何であるか解っている状態」のことでしかない為、違和感を見つけられれば取り除くことが出来ますが、違和感の正体が掴めないと治すことも出来ないのです。

この違和感の正体を掴む方法論に仏像というものがあり、それが意識の使い方、繋げ方に直結しているので「このようにイメージしたら出来るかもよ?」と誘導しているのです。

今回の「自然に向けられた罵声のエネルギーが溜まっていた領域」ですが、「誰か」と定義している領域であり、私としてはあまり掘り下げていなかった部分でした。「わたし」や「あなた」や「みんな」という心の領域や座標というものがあり、それを正しく認知して繋げないと,心は治るものも治らないのです。

心も物理法則に従うものなので、心に触れないと、心を揺さぶることも出来ませんし、心が動く筈もないので「領域、座標」という表現をして、少しでも心が精妙に区分できるものだと知っておいて欲しいので書いております。

この「誰か」という領域に、私の足に加重がかかり、筋肉の力が入らなくなるOFF反応なる症状があるのを発見し、座標を捉え、癒やし、治るまで繰り返しながら歩くのが、私のお遍路歩きです。

今日は、文字も読みにくい准胝観音(じゅうていかんのん)についてです。

地獄道 - 聖観音 
餓鬼道 - 千手観音
畜生道 - 馬頭観音
修羅道 - 十一面観音
人道 - 准胝観音(じゅうていかんのん)
天道 - 如意輪観音

六道輪廻に陥り、人間界という世界からの救済を担当する六観音の一人です。

単純に、墜ちる地獄が六種類あるなら、救う意識の使い方も六種類用意しておかないと、多分解らないだろう? という意味合いで用意されているものですが、生きている人の心の悩みとしては、どの地獄だろうが餓鬼や畜生であったとしても、嫌なものは嫌ですし、哀しいことはない方がいいし、喜びは多い方がいいと学ぶものです。

「言うことは聞かないけれど、やることは真似をする」

この言葉を聞いたことがある人なら、親や師がやることをやっていれば、子や弟子は、やれるように真似ていくだけなので、親や師の生い立ちを、子や弟子が真似ていくことを許していくことだけでも、状況の改善にはなります。

「悪いところばかり真似てしまって……」

多分、善いところも真似ていますが、出来ている所は空気のように当たり前過ぎて認識さえ出来ないものなので、中々善いところを褒めることもしないものです。何しろ、自分が善いところを褒められたことがない親や師であるなら、子や弟子を褒めることも困難なものです。

「面倒くさい」

この言葉を言われたり、使ったりしていないでしょうか?

親子や、師弟の関係において、はたまた兄弟でも、先輩後輩などの上下関係において、「え〜なんで俺が〜、面倒くさいからやだ!」とか言ったり、言われることなどないでしょうか? 心の中で思うだけで逆らうこともせずに従うことなどはないでしょうか?

この「面倒くさい」を、「やるよ」と軽々と返事が出来てしまえるように変えてくれるのが准胝観音(じゅうていかんのん)なのです。

今回の有料設定は、この「面倒くさい」について言及する内容ですので、期待は裏切らないと思いますので、是非購入してみてください。

准胝(じゅうてい)の意味・定義とは、「何も明確に教わっておらず、間違った認識の元に見聞きして覚えた知識が自分や周りを苦しめていると気づき止めさせ、改善をもたらす為に問題行動を起こした人に強い権限を使って許しを与え、力になり共に学び歩くもの」のことです。「何も情報のない者と、様々な情報を経験から知っている者との区別をせず、状況、立場、関係性において、踏み込んだ心の内側まで、話をしかけ、状況の掌握をし直し、問題を明らかにし、不当な扱われ方や、不必要な刑罰に処されている状態を解消し、自由にして健全な精神状態に整える為の環境改善に努めることや、味方として認識を与え、価値観を改めさせ、悪意を思いつく必要のない道へと導くもの」のことです。

身を挺して真実の愛とは何かを与え続ける仏性のことです。

それは愛してやまない、我が子や、両親や、伴侶や、恩師など、どれだけ嫌われようとも嫌う必要性を見出せず、「何か関わり方や、捉え方や、認知の歪みの治し方はないか?」思案できる底力を見せる仏性のことです。

人と人とは、片方が全力でその場から逃げ出してしまうと、もう片方は愛する程、追いかけたり、追い詰めようとすることが段々と出来なくなります。

これが、恨みや憎しみであると、どこまで逃げても追い詰めて目的を果たすものです。

愛があるはずなのに逃げ出される事実。

愛が皆無であるから追い詰められる事実。

愛があり、安心しているから遠くまで離れられるものがあるものです。

愛がなく、離ればなれになっているから一つに戻ろうとして愛とわかるものです。

離れていく愛を、愛とは認知出来ない(しにくい)ものです。

それ故に、「嫌われた」とどこかの時点で諦めるのです。離れていくことが「愛している」とは解らない錯覚から目覚めるとよいのです。

執拗な恨み辛みや、絡んでくる相手や、敵対する姿や、うっとうしい相手が、どこかで離ればなれになっている片方の愛だとわかれば、一つに戻れたとき「愛」だったことを思い出せるものですが、敵視している相手を受容できる筈もなく、愛に戻れない結末ばかりなのです。

一度傷つき「嫌い合った」状態になっていると片方が一方的に思うと、世界から「愛」を見出すことが出来なくなるのです。

准胝観音(じゅうていかんのん)の仏性は、どこまでも「面倒くさい」と投げ捨てている問題に対して取り組む力を与えてくれるものです。

ここから有料です。
ご自身の准胝観音が回復します。

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