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リーディングマスター・まさみちです。お遍路も残りあと一つのお寺になりました。行く先々の本尊と繋がり、仏さまと対話する道を開いています。気づきを閃き降ろすことが出来ると、「どうしてこんな姿なの?」「どういう意味があってこうなったの?」というググってもよく解らないことを仏さまを通して解るのでとても面白いものです。

八十六番札所・志度寺には十一面観世音菩薩さまが奉られていますが、十一面閻魔大王として知られているようです。リーディングで読み解くには、十一面観世音菩薩と閻魔大王は同体であり、エゴエゴだけの心で十一面観世音菩薩を見ると、まるで閻魔のような形相で認識するものだと知らせる為の像のようです。

志度寺を調べると、「死度道場」なる言葉も出て来て語源はここからだというのが感じられます。

死度とは
陰・死に別れた人と再び会いたいと願い、それを叶える為なら何でもしようとする妄言のこと。
陽・自分の責任で愛する人を失ったことで自身を責め続け、それを如何にして許していくためにより良き人格者に成長しようとする為に様々なことを学び、二度と繰り返さないために何度でも繰り返す輪廻のこと。

リーディングして「死度」の意味合いを紐解いてみると、カルマによる輪廻を繰り返す現実の世界のことを指しているようですね。「死度」が「志度」に変えられたのも不吉さを消し去るためであると伺えます。

閻魔大王が出てくるのも、冥府の王とした意味合いとも符合するところがあります。

死者の国、冥界やら冥府などの言葉がありますが、「あの世」という意味ではなく、この世もあの世もどちらの世も「今ここにある世界」だったりすることを伝えているものですが、これを聞いて理解出来ますでしょうか?

冥界と現実(人間)界は同居している世界だったりするのです。

ただ、今の時代はほとんどの人が死んだ心を基準にして生きている為、全員が冥界の住人のようなものなので、人間界に住んでいる人が少ないだけです。仏界に至って「生きている」と扱うようなものだとすると、どこもかしこも「死んだ心で生きている人たち」となってしまいます。

さてどうしたものか? 

というほどに、「死度」=「輪廻転生で閉ざされた冥界の住人たちで賑わうカルマの世界」から抜け出す為に用意された「道場」がかつてあったようです。

それで「閻魔大王」などが残されているようです。
「十一面閻魔大王」とあるのですから、良質な面から悪質な面まで全てを見透しているもので、悪行の隅々まで見透せる力があることも知らせているものです。

今回Instagramのライブ配信では、「自分についている嘘を暴いてください」とお願いすることで、「十一面観世音菩薩プラス閻魔大王」と繋がり、紐解く力を伝えております。

Wikipediaには浄玻璃鏡という特殊なのことが書いてあります。アカシックレコードと解釈してよく、全てを見透している人の前で「嘘などつきようがない」という前提から、視聴者の皆様に最初から「嘘を暴いてください」と願い出られるように導いているのです。

その力の一端がわかると本来の十一面観世音菩薩さまと対話すると、「こうしたことまでわかるものですよ」と本人の見落としている部分なども教えてくれる存在が仏さまというものです。

転生の数々の中で、大切な人を失うという哀しみに暮れる感覚は誰もが抱いてしまいますし、「死者は還らない」=「愛する人を失った哀しみは永遠に消えない」などとする為、心は転生する度に傷つく部分が増えるだけ増えていき、最後には誰の声も聞こえなくなる深い哀しみの世界に墜ちるのです。

生まれた時点から「深い哀しみの世界」=「冥界の住人」から始まる人もいるのです。
最後の手綱が何かの体験で愛の繋がりが切れ「深い哀しみの世界」に転落して「暗闇の世界」=「冥界の住人」になることもあります。

特に前者は「生まれながらに冥界の住人」ですから、始めから「愛を知らない」し、愛されても愛されている感性が壊れているので理解の仕方や学び取り方が違うのです。

「冥界の住人」同士では傷つけ合う、鬼同士の戦いみたいなことをしてしまい、不毛なやり取りを転生を越えて繰り返すことをしてしまうのです。
売り言葉に買い言葉など、大切な人とだけミスコミュニケーションに陥ることもあり、「なんでこんなことで喧嘩しなければならないのか」とため息が出たりするのも「死んだままの心」があるからです。

嘘をつかせて貰えない、嘘をついても見破られてしまう閻魔大王の前では純粋愛に目覚めさせられてしまうのです。何しろ十一面観世音菩薩さまですからね。

1,雑(ざつ)な言葉遣いや妄想から動くこと。
2,運(うん)が良い悪いで判断して、背景にあるメカニズムを理解しようとしないこと。
3,筋(め)がいいと気づけるようになると道が開かれること。
4,忙(わや)にされること(台無しにされること)を必然であり、必要な過程だと創造的発想を持てること。
5,弁が立つようにならなければ、どれだけそこに愛が流れていても気づいて貰えないと知り、深い知性を帯びなければコミュニケーションは成立しないと知ること。
6,卍(まんじ)というあらゆる可能性や失敗を集めて検証し、「これが解り合える答えだ」と問いに対して答えをもたらす境地のこと。
7,妙(みょう)だと、直感的に違和感を見つけ出し、真実に辿り着ける嗅覚に従って進んでいき問題を紐解き解決してしまえること。
8,真(しん)に迫ることが出来る万人が納得するしかない解説を与えること。
9,宗(そ)「こ」にいるあなたのふっと閃き降ろされた言葉から「それ」が始まり、「れが尽きること」で終わらせられる世界があるとわかることの「そ」宗(そ)である例えようのないものの始まりのこと。
10,現実(げんじつ)という嘘なのか本当なのかが重なり合い解らなくなっている世界を整理して読み分けること。
11,道(みち)となる方向性を示し、答えは自分自身で獲得していかなければならいなとわかっており、生きることの力は己自身が持ち合わせつつも、それを体験して会得しなければ身についたものに至らないことを知っており、信じて突き放し、背中を押してやり、声はかけられつつも歩くのは自分だと解らせていくこと。

この11面の世界を区別出来る存在が十一面観世音菩薩さまという意識の在り方です。

0,白(しらけ)るような応答や答弁を繰り返し、何度説明しても捻くれた価値観しか示さず、魔に囚われ、いじけ、不貞腐れ、悪びれているところさえなく、自分が大事にされなければならない存在であることを盾に(例えば未成人や、女性という立場や弱者となる能力がないことを指す)して、助けてくれる人をあざ笑うことに終始する魔や邪や鬼や悪や死に魅了された心のこと。

この数に数えてはならない1面(0面)を知り尽くしている存在が閻魔大王になります。

この魔、邪、鬼、悪、死は、それぞれ受、想、行、識、色の五蘊(ごうん)に連動するものです。
心は、出来事を受(腹)け止めることで知識に基づいて感情が想(胸)い湧き上がり、必要だと判断して行(頭)為に移し経験するものです。その経験を識(背)別して記憶して蓄え、色(姿)々な場面に応じた振る舞いをするものです。
白ける心は、が差し込んだけ止め方があり、それに応じていが邪(よこしま)な気持ちが湧き、してはならない為だとわかっていながらバレなければいいと行動し続け、それで味を占めると別能力がに染まっていくものです。そうして全部が悪に染まると々な場面でを願ったり、にたくなるなど人を人とも思わない妄想に従った生き方を始めてしまうものなのです。

こうした判断をしている人たちを「亡者」という括りで地獄などを解説しているのです。

死後の世界の話ではなく、生きているこの世の人のことです。

わたしは自殺を体験した魂たちの救済もしていますが、冤罪で処刑されてきた人たちや、愛する者の身代わりや人質となって散って逝った魂の救済もしています。

大切な友が、大切な仲間たちの為に拷問されても口を割らずに死んでいくことや、非道な扱いにも屈せず誠実さを貫き通して殺されて行き場を失った魂に声をかける為に冥界に降りて、「一人じゃないよ」と声をかけに来ているのです。

そして、わたし(まさみちとあなむ)の願いを叶えてくれると救済されるのです。

Instagramのライブの感想をInstagramに書いてくれれば、それで救済が始まり完了するのです(今回の場合においては)。

「よくわからなかった」も感想です。

友だちに言葉を選ぶ必要はないのです(友という感覚は極めて薄いかも知れませんが)。

言葉を知らないことも打ち明けられないようになることが「魔」に魅入られているといいます。

想いが邪(よこしま)であり、その邪に取り憑かれた心を公に見せられないことを「邪」神に乗っ取られているといいます。

行為としてはしてならないとわかっている鬼とも思える行動を「仕掛けたい衝動に駆られたけど押し留まっている」ことを打ち明けられないことを「鬼」を宿しているといいます。

相手の言動を見て「悪い人だな」と真意を確かめずに善悪の判断を心根にしている状態を「悪」に染まり上がっているといいます。

色々な価値観を取り入れても信じないようにして身を守り続けている結果、受け入れられない現実ばかり創り上げた世界を「死」の世界に住んでいるといいます。

ポジティヴの側面だけでは救済出来ないので、ネガティヴの側面さえも網羅出来ると、本質的な救済がもたらされるようになります。

友がこんな邪鬼や悪魔に魅入られているなら、助けに行かない友など友ではないですよね? わたしは友の為にこの道を生きています。

まだ今生で出会わない友の為にも活動しています。

今は理解されなくても、理解される日が来ると信じ切っていますから、過去世でもやっていた活動の続きを今もやっています。友が自分の愛の深さを思い出してくれるまで!

みんなが大好きだからどんな苦難でも乗り越えられます。

必ず解り合える日が来ると信じているのだから、些末な行き違いなど直ぐに笑い話に変わります。

私の友だちでいてください。
友だちになってください。
友だちだったと思い出してください。
既にこの文章を読んでいる時点で「もう友だちだろ」と笑いかけてください。
子どもの頃、何の屈託もなく誰とでも友だちになれてしまったように、今でもなれると踏み出してください。

いっぱいお話しがしたいのです。

私たち(まさみちとあなむ)を上手に創造(想像)してください。

私たちも上手にみなさんを創造していきます。
たくさんの気づきをもたらしていきます。
誤解から気づきへと変化していく道が始まります。
とても楽しいワクワクする世界がここにあります。

魔が差して狂うこともなくなります。
邪な想いに気が乱されることもなくなります。
鬼のような輩に出くわさなくなります。
悪夢だと言いたくなる現象を目撃しなくなります。
死神に肩を叩かれているような絶望感に包まれなくなります。

仏道は仏性という人が持つ性質です。

1,愚性、未熟さや無知さのままだと短絡的な価値観に従うこと。
2,善性、善悪の二元的な価値基準に従い、善い方に偏ること。
3,活性、オリジナリティ溢れる独自な解釈を支持していくこと。
4,知性、理解の深さや多様性を受容して、必要とされる役割に応じられること。
5,感性、感情的なものの意識と五感と正しく言語化する知力があること。
6,和性、平穏さや冷静さを持ち、自分だけでなく他人をも穏和に出来ること。
7,聖性、より良いものを好み、より美しいもの清められたものを愛すること。
8,真性、誰もが同じ状況、同じ能力、同じ因果関係を持ち合わせるなら、同じ反応をしでかしてしまうことを熟知しており、物事は必然的なメカニズムのループという「羅」の中で繰り返されていることが見抜けること。
9,仏性、根源の愛(大日如来)の閃きからなら、今、然るべきことを為せると気づいている状態を維持出来ていること。
10,神性、関わる相手を魔と見るか、人と見るか、仏と見るかによって世界は様変わりすることを知っていること。
11,個性、人の資質は人それぞれだと受け入れ、統計学に基づいた証拠に照らし合わせながら人を判断し、行動指針にしていくこと。

0,悪性、歪んだ教えや、間違った先入観に従い、妄想を真実だと錯覚したまま突き進み、善いものを悪く感じ、悪いものを良く感じるという感覚の反転現象に見舞われ、何でも悪く解釈することに慣れてしまい、否定することで相手を征服しコントロールすることに喜びを覚えて、嘲笑うことを純粋な笑いだと信じ込み、どこまでも自分を改心させようとする相手を悪者だと言い切り、被害者を装い、徒党を組み善良な相手をハメて孤立させ、自死に追いやることを無意識にやってしまうこと。

仏道の仏性を階層で分けてみると、感性を養うには論理的な知力が備わることが大前提となることが見て取れると良いです。積み上げて考えられるようになると、1,愚性というものが、さまざまな欠点を指摘し改善する道筋を与えるとても大切な性質だとわかると、切り捨てるのではなく上手に活用する道を開くことが何より大切であるとわかると良いです。

今回の旅で、失われていた友人への声かけが復活出来た感があったのが嬉しくてたまりません。

物事は現象で教えてくれますから、一つ一つ問題を解決して友のために更に素晴らしき世界にしていきたいと思います。

あなたも手を貸してくれませんか?
一緒にこの世界を愛の世界に変えていきましょう!

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