見出し画像

雲・霧・雨・雷・海の繋がりと神事・幽事

リーディングマスター・まさみちです。人が放つオーラなど見えない氣の働きや繋がりなどを辿り、過去世や代々続く因縁の問題を紐解いて生きやすくするお手伝いをしている心理カウンセラーをしています。

上の記事は、「雲」と「朱雀」について考察しております。

こう見えて私は霊能力者だったりする訳ですが、日本人であれば誰でも雰囲気が読み分けられるほど霊能力を持っていたりします。元々の霊感はなく、努力して開いてきた経験があるので、生まれ持っているタイプの人たちとは世界の認識の仕方が違います。
解らないことだらけの見えない世界の疑問を全部研究して解き明かしてきた感覚が強いので、自分の感性が特別「凄い!」なんてないです。
傲るつもりもないのですが、結構ガチで研究していて、色々と解ってきたので、それなりに色んな事が解ります。

四六時中ってほどに研究しているので、それなりの霊感の精度は持ってます。かなりの現実主義者でもあるので、結果や現象化しない仮説のものを「信じてくれ」とねだるような真似はしません。宗教じゃ無いですから! 自分の見えない世界を見る力は量子力学です! って思ってやってます。

私は過去世なども意識を飛ばせて見ていきますし、「無」を獲得している覚醒者でもあるので、大体のことは読み分けて因果関係を整理することが出来たりします。
それでも、「無」を獲得しているからといってなんでも解っているか? というとその逆で「何も解っていない」ことが解っているので「問い」がないと相対する「答え」に辿り着かず、また「現実が答え」だとすると「なんでこうなってんの?」とした問いが閃くことが出来るので、全ての因果を「現実を見れば解る」なんてことも、出来たりします。

モノによっては紐解くのに時間を有しますので「パパッと」という程、容易いものでは無いので、そこのてころはご容赦ください。

閑話休題。

神さまを雲に見立てた世界観

水の形状変化は、個体、液体、気体なんですが、マイナスイオンとプラスイオンが繋がると雷が落ちることも考えると「水プラズマ」なる技術もあるそうで、どうも水は雷でもあるといえる。
水は4つの形状があるとした前提で話を進めます。

それでいて自然界の水の姿を見ると
木気「雲」
火気「霧」
土気「雨」
金気「雷」
水気「海」
という五行を通して表現することが出来る。
こういうのを天に聞いて閃き降ろしているリーディングという技術だ。

五行について知っている人はこの表現が何となくわかると思う。

木気は春や「青龍」という登り調子のことを指し、スクスク、伸び伸びとしたイメージがある気の働きがある。「雲」は物事のはじまりを司っていると見ていい。普段は何気ない雲だけれど、そこに様々な姿を見ることが出来ると対話して問題そのものを解決するヒントを授かることも出来る。

火気は夏や「朱雀」というたくさん集まって勢いづくとグングン、パァッと開き、広がっていくイメージがある気の働きがある。それは夢中になることでもある。夢中は霧中とも表現できるように雲の中に入っている状態であり、熱中している姿を表現しているとも言える。だから「霧」なんだ。

土気は土用として季節の間にあるが、四季全体を支える個であり全というものでもある。区切りをつけるものでもあるなどして土気は四季の働きにおける重要な位置づけとなるもので「麒麟(きりん)」という馴染みの薄い聖獣がある。じんわり、ふにゃふにゃ、甘々な感覚のイメージがある。ここに「雨」という恵みがもたらされる。「雨」という漢字が意味するものは自然の摂理や命のサイクルそのものを象徴化している文字であり、様々なものを含んでくれていていかなるものにも結びつくことが出来る力を有していることが伝わる。天から降っている間の表現が「雨」であり、水の姿のことである。様々な姿に変える水は、川や湖などにもなる。この個として全とした性質を持つから土気として「雨」の中に「神」を見る力を持つかどうかである。「命」の恵みという表現を別の表現にするなら「雨」と表現し直すことが出来る瞬間的なるものを指す。

金気は秋としての実り豊かなもので、「白虎」という気をどこまでも引き締めておかなければ大切なものを守れなかったり、助けられなかったりする為、強くないといけないため「虎」としたイメージがある。キッ、キュッ、と引き締める気迫や覇気などはこの金気の性質が強くないと見出せない。故に「雷」という原子分解するプラズマの力を有するものも神の力とされる。リーディングでの最終到達地点は雷の力を持つことで、全ての苦しみを繋ぎ合わせると無に還すことが出来「そういうことだったのか!」という大いなる気づきや目覚めに至らすことが出来る力になるので、建御雷神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)など、雷の神さまとは、本来偏った価値観を一瞬で祓い清めて目覚めさせることだと思ってくれるといい。

水気は冬としてぎゅっと厳しい寒さの中を耐え抜かなければならない堅い意思の現れとして「玄武」があり、亀でありながら尾っぽに蛇が描かれているように後ろに回り込んでも抜け目なく堅い守りを固めているイメージがあり「海」として全てが還り着く場所を示している。海って揺るがないでしょ? 玄武もそういうゆるがなさとしたのイメージを持つと根源的愛の力のゆるがなさはここにあることがニュアンスとしてわかるといい。

だからタイトルに「雲」「霧」「雨」「雷」「海」という五つの性質を表現していて、その中に「神」を見るとしているのだ。

その世界に飛び込まなければわからなぬもの

どんなジャンルも、その世界に入門して鍛錬を積み重ねなければ身につかないものがある。

ただ水蒸気を集めて熱して高めて「雲」にすればいいものではない。

空を見上げて「雲」を見ても、何の氣も感じられない雲ばかりある時もある。
ふと目が留まり、「あの雲、鳥みたい」と感じる時など、その雲に何か宿っていることがあるかも知れない。

そういう氣の詰まった「雲」にしてから、何かしら習い事など進むべきものを見つけられるといい。

雲に飛び込むと「霧」に包まれるくらいに「五里霧中」状態に陥る。

解らなくても、それでもそこに取り組みたいのかどうか? が鍵になる。
何か解らないけれどやっていくしか無いと腹を括れるか?
もう取り組んで行くしかない! と霧中でも頑張って続けて来たら何か形になってきた。

その形になって見えてくるのが「雨」である。

雨が少なければ「これっぽっち」と評価されるし、
雨が多ければ「大変!」と嫌がられる。
霧中にさせてもらえないから少なくなるし、周りのキャパ越えするような大量な雨を降らせようもなら「いい加減にして」などと好きなものを取り上げられることだってある。
何かにのめり込むにはそれを許容できるバランスのいい環境がないと難しい。

雨を集めて川にして、海に流すことを道だとつい考えてしまう。

しかし、神事(かみごと)や幽事(かくりごと)は違う。
雨と海との間に「雷」という山場が存在している。

実りある秋の氣のエネルギーを自身に蓄えるには、マイナスイオンとプラスイオンという偏った価値観の両極を同時に併せ持たなければならない。「進め」と「引き返せ」みたいな両極端な意見があるのだ。その両方を同時に抱きしめたり、繋ぎ結びつけることが出来ないと「雷」は落ちない。
雷が落ちないなら、ずっとずっと変な気が障りに障り、モヤモヤした状態やら鬱の状態などにはまり込み、道が見えなくなる。

この偏ったマイナスの気とプラスの氣が他人と自身に分かれて存在している時、他人は自身の映し鏡だと見つめられて「我」を取り除いて「神」を見出すことが出来るかどうかにある。

全部併せて「一つだった」とマイナスもプラスもないことに気づけばいい。

この世界にネガティヴがないと見抜けることが「雷」を宿すことが出来るとも言える。

建御雷神・武甕槌神(たけみかづちのか)などが神道での人気を博する最強神みたいに表現されているように、「雷」を使いこなせる意識を持てるか、持ちたいかどうかだ。

大体は、偏ったプラスイオンのような意識に留まってしまって、「雷」に至らないものである。

つまりは困難さ乗り越える強さともなり、弱さの克服という展開もこの金気の段階で必要とされる。

そして冬の「海」に還っていく流れがある。全ての命を育む母なる海として、後輩たちを育てる場として屈強に守りを固めて受け入れる姿に到るもの。その世界そのものの神と化すようなものである。

つまり結論を言うなら、何かを打ち込み始めるには誰かの「海」の世界に飛び込む必要があるということだ。
その冬の海から雲を生み出して霧となり、雨を降らせて雷を落とす。
そしてまた自身が海となって育む側に立てるかどうか?

全ては繋がっている世界だと認識出来るのか?

「雲」から生まれるものではあるが、それ以前に誰かの「海」に飛び込んで行かなくてはならない。

両親という「海」に抱かれて誕生して人生が始まる。

そこから水蒸気となり上空へと高まり「雲」を形成して流れていくようになる。つまりは親元から少しずつ離れて、色々体験して行くようになる。

本当にやりたいこと、見つけたいものが見つかると「霧」に飛び込んで行くようになる。学校の中に入る。部活の中に入る。仲間と遊びに出かけて色んな体験に入る。などなど、さまざまな体験を経て「雲となる自身の神の姿を育てて行く」ものだ。

ある程度形になり、大きくなると「雨」を降らせて喜ばれたり、軽んじられたりするようになる。

その経験の積み重ねで豊かな姿に育っていくものとなる。
この時、対立する意見や分離する派閥などを全てまとめて一つにしてしまおうとする気概を持ち「雷」を落とす勇敢な人として立ち上がれるかにある。

それがまた「海」となり、人の親になったり、師匠になるなどして子どもたちや後輩を育成する世界観として生きることになる。

本当に成りたいものにあなたは成れているのか?

行き詰まって気のない「雲」のまま漂っていないか?

人は太陽など晴れ間ばかりでは生きてはいけない。

雨など水が不可欠であることは間違いないけれども、その「水」を形成するサイクルの中に、あなたは含まれているのか? 伴侶や子どもたちは含まれているのか?

雲も霧も雨も雷も、どれも海があって成り立つものである。
それぞれがどれも必要なのだ。
雨なくて海など有り得ないし、そのまた逆も然りだ。

人の心も、自然の中の私たちも内包されているものでもある。
知識で巡り巡りて循環する世界と言うのは簡単だしわかる。
しかし、犯罪やルール違反など人が不快に陥ることをやってしまう人がいる。

やりたくなくてやってしまう突発性のものもある。
10秒間、深呼吸すれば「怒り」はコントロール出来るって教わって出来なる人はいいが、出来ない人はどうしたらいい?

自然界の表現で例えている「雲」だとか「雨」だとか「海」なら、見えるからいい。

しかし「幽事(かくりごと)」というのは、まさに私たちは「海」の中でもあったりする。空間そのものが既に両親が見る夢の世界であったりもする。

海の中で雲が生まれ、霧となり、雨となる過程は見えない。「海の中に雲? はぁ? 理解出来ない」となるものである。

故に、海を空に置き換えて考えないと雲や霧や雨を成り立たせられない。
心の幽事(かくりごと)の話をしています。

自然界の話ではないのです。

海なのだけれど、それを空とすることで「海はある、けど、ない」とすることで人の夢に呑まれていることが見えなくなっていることを隠していると伝えたいのだ。

この繋がりが見えないから天界や地上界や冥界など、高天原、葦原中国、黄泉の国とした世界の隔たりがあることも認識出来ない眼差しや客観視出来ない呑まれた世界観に埋没しているとなる。

見えない幽事(かくりごと)は、わからない。

わからないから知りたくない。

知りたくないから関わらない。

関わらないから証拠だけ見て信じて行けばいいとなる。

その結果、「形」だけを気遣って整えてきた顕事(あらわにごと)として、家があり、仕事があり、家族がいて、健康で命がある。
けれども死んだような心としての「精神」になってしまっていたら?

繋がりを見失うと、「雲」は雲でしか無くなり、そこに「青龍」や「朱雀」などの姿を見ることもなく、天啓を降ろすこともなくなり、道から逸れることになる。

あなたの側に、見えない「雷」を落として偏った気を祓ってくれる仲間はいるのだろうか?
はたまた、あなたという自分自身は、その「雷」の力を有しているのか?

八方塞がりの状態に陥っても、素戔嗚尊・須佐之男(すさのおのみこと)が十拳剣(とつかのづるぎ)を振るって八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して窮地を救い出すのは自分自身でしかいないことに気づいて欲しいと伝えたいところである。

元気がでないのは、その因果関係の中にいるから

雲・霧・雨・雷・海とした神話に含まれている霊的な学びについて自然界からどう学ぶかをリーディングして降ろしてみた。

実り豊かな秋の氣としての「雷」を落とせないと、冬も迎えられない難題がある。

今の時代は、「好きなものを追いかけよ」と教えて、マイナスの表現や、嫌なことを伝えてくる交友関係は直ちにやめるように促している。

それは否定しない。

けれどもマイナスイオンとプラスイオンが繋がれば原子分解するプラズマエネルギーの「雷」が発生して、全ての因果関係が「無」に還ることが出来るので、対立は無くなり笑い合うことが出来る平和を生み出す事が出来る。

まず、その力を自身の日常にもたらせることが先決ではないかと問いたい。

救えるのは自分自身である。

私は雷を落とすことが出来る人である。
鹿島神宮の建御雷神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)や香取神宮の経津主神(ふつぬしのかみ)が何を為す力の象徴かがわかる。

経津主神(ふつぬしのかみ)なしに、建御雷神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)は成り立たない。陰陽のセットのようなものである。

対立する世界観をやめて、大国主の優しさのように全てを需要した上で、神事、幽事(かくりごと)を終わらせて、天照大神の見える世界、顕事(あらわにごと)に取り組もう。

あなたの世界から争い事が消え去りますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?