2 ニーチェが語る天才



 前回の記事では、気の玉の作り方を生意気にもご説明させて頂きましたが、かくいう私もやればやるほど、自分の気の玉の精度の甘さには辟易してします。
 
 まだまだ、リアリティーの生成も保持も甘いし。
 物理的なフィードバックを取ることも、あまりできていない。
 何より、身体のレベルが正直低いのです。
 
 私のメンターは、一流になればなるほど、むしろ体調が悪くなっていくと仰っておりました。

 一流になれば、より精妙に身体の感覚が意識に上がるようになるので、一般人であれば意識にも上がらない小さな拘縮を自覚してしまうようになるのです。
 
 だから、常に身体が痛いし、不調なのです。
 
 ぶっちゃけ大腰筋ってインナーマッスルなので、普段意識には上がりません。
 しかし、気功師として身体を客観的に観れるようになるほど、大腰筋どころか腸や肝臓などの内臓すら意識に上がるようになってきます。
 
 というか、他の気功師の方に施術を行って貰うと、筋肉や内臓は結構意識に上がってきます。
 しかし、自分で自分に気功をかけても、こういった身体の感覚を意識に上げることは中々難しいです。
 
 何故なら、自分を客観的に観ることは難しいからです。
 気功のポイントは、意識に上げること。
 つまりは、客観視です。
 
 例えば、他者の欠点や長所は意外と簡単に見つかるのに、自分自身の欠点や長所を自分で見つけることは難しいと思いませんか?
 
 それと同じで、自分に気功をかけることは意外に難しいのです。
 とはいえ、嘆いていたって気功は上達しません。
 
 なんでもそうですが、上達のポイントは、未来の自分に期待して、現状の期待値をゼロまで下げることです。
 
 なんというか、人って自分に期待するからこそ、誰でもできるような単調な鍛練などが苦しくなってしまうのです。

 「いや、私にはこんな単調な練習は相応しくない。もっと高度なことができるはずだ!」と。

 こんな感じで、現実と理想とギャップに苦しくなってしまいます。
 
 しかし、ニーチェは言いました。
 
 
 天賦の才能について、持って生まれた資質について話すのはやめてくれ! わずかな才能しか持たなかった偉大な人間はたくさんいる。

 彼らは偉大さを獲得し、『天才』(いわゆる)になったのだ。 

 実体を知らない人々が褒めそやす資質を欠いていたからこそ。 

 いきなり全体像を作りにかかる前に、適切な一部を組み立てることを最初に学ぶ有能な職人のごとき真面目さを、彼ら全員がそなえていた。

 フリードリヒ・ニーチェ
 

 つまり、誰でもできるような小さなことを、ずっと行い続ける根気があったからこそ、天才は『天才』と呼ばれるようになったのです。
 
 気功の練習は猛烈に頭を使うし、物理的にないものをあるように扱う技術なので、たまに自分でも「頭をおかしくしたか?」と疑う時もあります。
 
 気の玉も、一定以上のレベルに行けません。
 だから、虚しさはいつも感じています。
 しかし、そこで腐るわけにもいきません。
 
 私には、気功しかないのです。
 気功しか、私の人生を切り開く武器がない。
 気功がなければ、私は本当の意味で“生きる”ことすらできないのです。
 
 だから、愚直にやり続けます。
 未来の自分に存分に期待して、現状の期待値はゼロにして。
 ゆっくり、ゆっくり丁寧に気の玉を作り続けます。
 
 馬鹿みたいな話ですが、これが私にとっての現状を打開するための手段なのです。
 
 そして、それほど気の玉は重要な技術なのです。 



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