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野田村の写真返却会が、お茶会な理由。

 10年近く来れてなかったかもしれない。
 20年ほど日本中を旅して回っていれば、正直、そういう町はたくさんあるのだけれど、いま向かっているこの町に対しては、どこか後ろめたさのようなものを感じていた。前泊地の仙台から昨夜のうちに青森県八戸市に入っていた僕は、八戸にある高専の先生をされている河村さんにホテルまで迎えに来てもらい、コンビニコーヒー片手に後部座席に座りながら、懐かしいような新鮮なような風景を眺めていた。

 同じく後部座席の隣にいるのは写真家の浅田政志。浅田くんとこの道を走るのは初めてではなかった。それどころか、幾度この道を走ったかわからない。だけど、こうやって二人が後部座席に並ぶことは一度もなかった。あの頃は僕か浅田くんのどちらかが運転をしていた。

 2011年3月11日、東北沿岸部を襲った津波が多くの人たちの命を奪った。それとともに、多くの思い出たちが流された。その2年ほど前から「アルバムエキスポ」なる展示イベントを開催したり、「アルバムの日」(12月5日)という記念日を制定したり、当時、大きく減少傾向にあった写真アルバム文化を、未来につなげたいと活動していた僕は、それらにも深く関わってくれていた浅田くんに電話をして、なんのゴールもアウトプットも持たぬまま、とにかく一緒に東北の写真救済現場を取材したいと伝えた。浅田くんは二つ返事で「行きましょう」と言ってくれて、そこから2年間、二人で何度も被災地まで車を走らせてはボランティアをしたり、取材をしたりした。そのなかで何度も通った町の一つが、いま向かう岩手県野田村だった。

 記録として、あるいは重要なコミュニケーションツールとして、写真プリントやアルバムのチカラを信じていた僕たちだけれど、あれだけの被害を前に、そんなものはきっと無力だと思った。まずは人命救助が何よりだし、アルバムや写真が被災された皆さんの手助けになるフェーズなど、あと何年も先に違いない、そう思っていた。

 しかし、それはある意味で間違いだった。震災から数週間後、沿岸部各地で避難勧告が解除され、被災されたみなさんが、我が家があったはずの場所を確認しに向かう光景が、テレビ各局で放映された。チャンネルごとに、被写体となるご家族は違っていたけれど、それぞれの家族がみな、アルバムや写真を探していた。
 僕はそれを見て、目が覚めるような思いになった。写真って大切。アルバムは大事。そう言い続けてきた僕だけれど、そんな大義名分的な言葉ではなく、実にフィジカルなアクションとして、お金でも通帳でもなく、家族の思い出が焼き付けられた写真を探す人々を前に、僕はなかば衝動的に被災地へ行くことを決めた。

 僕が最初にボランティアをさせてもらったのは宮城県の松島町だった。その際、泥んこのアルバムに水をかけて洗ってくれと言われて、写真に水をかけてよいのだろうかと戸惑った。そしてこんなことが各地で起こっているのだと気づいた。
 一方、浅田くんは、八戸市内で開催していた写真展をご縁に、そこで出会った友人たちと連携し、八戸から少し下がったところにある岩手県の野田村で写真救済活動をしていた。そのことを人伝てで知ったことから、僕は浅田くんを誘ったのだ。

 各地で集められた泥だらけのアルバムや写真プリントたちは、そのままだと腐敗し、ごみになってしまう。写真を救うのは急務だった。陸前高田、山田町、気仙沼、南三陸、山元町など、沿岸部各地で自発的に写真救済ボランティアが立ち上がった。誰かがコントロールしたわけではなく、何かしらの必然をもってアクションが自然発生的に生まれていくさまを僕はどこか心強い気持ちでみていた。世の中に必要なものは、ちゃんと生まれていくのだ。僕が人間社会をどこか楽観的にみているのは、あの頃感じたことに理由があるのかもしれない。たった一人の情熱は、真に一人ではなく、思いを同じくし、また行動する人たちが世界中にいる。
 そうやって立ち上がった各地のボランティアさんの手によって、また、さまざまな企業のサポートによって、少しずつではあるけれど確実に救われる写真たちが増えていった。

 当時のそれらの活動をまとめたのが、『アルバムのチカラ』だ。数年前に上映された映画『浅田家!』の原案の一つにもなっている。

 また企業の動きとして忘れてはいけないのが、富士フイルムさんだ。震災から一年後、非常時における富士フイルムさんがどのようにアクションを起こしたのか、その動きをきちんとまとめておきましょうと、僕が取材し執筆させてもらったページがいまも残っている。よければこちらもぜひ読んでみてほしい。

 各地の写真救済活動は洗浄及び乾燥の作業から、写真返却のための作業にフェーズが変化していった。せっかく救われた写真たち。それらをいち早く救うことが何より大切だったけれど、しかしそれはあくまでも持ち主に返すためのこと。各現場において、救済写真を持ち主に返却することがゴールであることに相違はなかった。

 しかし、被災された方みんなが、いますぐ思い出の写真を目にしたいわけではない。ご家族を亡くされてしまった方が、当時の写真一枚見てしまうことの辛さを思うと、無邪気に写真を届ければいいというものでもないのは明らかだった。だからこそ、いずれ気持ちが落ち着いて、当時の思い出を見返したいと思うそのときのためにも、救済写真を未来のために残していかなければならない。しかし、震災前は各家庭に収められていた膨大な数の写真たちを自治体が保管し続けるというのは、とても難しい問題だった。

 あれからもう13年が経つ。当時、写真救済及び返却活動が活発だった地域も、その状況は大きく変化している。特に、震災から10年という節目のタイミングで、長く保管していた写真を処分するに至った自治体も多い。もちろんデータ化を進めた上での判断だけれど、アナログなプリントそのものの価値もあるだけに、残念な思いは強い。だけどその判断の向こうには、僕のようなよそ者にはわからない、さまざまな理由があるのだろう。

 そんななか、いまもなお、アナログな写真を保管し、地道に写真返却活動を行っている野田村はとても貴重な場所だ。地震につづいて、大雨でも甚大な被害を受けた能登や、この夏に最上川が氾濫した山形県最上地区など、災害が頻発する日本で、写真救済活動に限っただけでも、エネルギーや愛が分散してしまうのは当然のこと。それでもなお、野田村という一つの場所にこんなにも長く支援を続ける人がいるということは、そこでつくられた関係性の密度の向上が、震災直後とはまた違ったモチベーションを生んでいるからに違いない。

 これは、関係人口や交流人口などといった行政的な思惑を超え、多様な交通や通信手段が可能になった現代における、実に自然な関係であり交流だ。あの忌まわしい津波が引き離したものとともに、つなぎ合わせたものもある。それがこの世界。

 久しぶりにやってきた野田村は大きな堤防が出来たり、あたらしい住宅や店舗が建ったりして、ずいぶんと様変わりしたようにも思うけれど、何かが大きく変わったような気持ちになることはなかった。野田村まで送り届けてくれた河村先生をはじめ、この町で一番最初に写真洗浄をはじめた野田村出身の小田くん。いまも当時も変わらずムードメーカーでいつでも細やかにメンバーをフォローしてくれるマチコちゃんなど、懐かしい面々との再会がとても嬉しかった。

映画『浅田家!』では菅田将暉くんが演じていた青年。
小田くんはいまは奥州市の中学校の先生をしている。
野田村の活動はこの人無くしては語れない、みんな大好きなマチコちゃん。
八戸の街なかでモグナンプウドウ (Mog@nanpuhdo)というエスニックカフェをやってる。

 しかし、いまの写真返却活動をリーダー的に動かしているのは、すでにそういった初期メンバーよりもさらに若いメンバーだった。そのことに僕はさらに感激した。現在の活動を引っ張る宮前くんという男性は、広島県の福山で大学の先生をしている。つまり、毎回広島の福山からやってきているというのだからすごい。遠く三重県から活動を支援し続ける浅田政志も含めて、東京や大阪など、みんなそれぞれ、さまざまな街からここ野田村にやってきて写真返却活動を進めている。この活動にそれだけ人を惹きつけるチカラがあるのだとしたら、それもまた、写真のチカラ、アルバムのチカラなのかもしれない。

奥の右にいるのが宮前くん。

 野田村の写真返却活動の特徴は、その名称を返却会とせず、お茶会と称したことにある。これは13年前、写真返却をスタートさせた当初からだから本当にすごい。返却会という肩肘張ったものではなく、写真を前にちょっとお茶でもして帰りませんか? という、そんな気持ちを込めた「お茶会」は、被災されたみなさんの心を少しずつ和らげていったに違いない。
 実際何万枚とある写真のなかから、自分や家族がうつる写真を探し出すのはとても大変な作業で懸命に探してもなお一枚も見つからなかったときの徒労感といったらない。だからこそ、何度でも気軽に参加してもらって、少しずつ見終えたアルバムを増やしていくことが大事で、それを「お茶会」とすることで表現した野田村のみんなのアイデアと愛に僕はいまだに感動する。

 当時の中心人物で、いまもずっと活動を続けるマチコちゃんは、「モグナンプウドウ (Mog@nanpuhdo)」というエスニックカフェをやっていて、彼女がつくるケータリングが初期のお茶会を支えていた。いまでは、そこまで無理をせず、全国さまざまな土地からやってくるボランティアメンバーが持ってくるお土産のお菓子が並ぶのだけれど(それも持ってくるように誰かに言われたわけじゃないから素敵)、それだけで、お茶会のお菓子としてはかなり充実したものになる。

 ちなみに今回僕は前泊地が仙台だったので、仙台銘菓の「ずんだ餅」を買ってきたのだけれど、浅田くんがずいぶん可愛いパッケージの、ご当地カントリーマアムを出して横に並べたと思ったら、その間にマチコちゃんが同じくカントリーマアムのずんだ味を出してきて、その絶妙な被り方がまるで奇跡でみんなで爆笑。カントリーマアム(プリン味)→カントリーマアム(ずんだ味)→ずんだ餅。この美しきグラデーションにずいぶん心躍った。

 こうやって自然と笑顔が溢れる現場だからこそ、こうやって長く続いているんだなあとあらためて思う。13年も活動を続けていると、ここにきてようやく、初めて写真を見にきたとか、写真を探し始めたという方もいらっしゃる。人それぞれに、それぞれのタイミングがあるのだ。続けることの価値を痛感する。

 今回、返却活動の合間に、浅田くんとのトークライブを企画してくれていて、そこで久しぶりに浅田くんとお喋りした。当時を思い出しながら、あれこれと話すようなことを想像していたけれど、実際は、いまの野田村の活動の素晴らしさ。そしてこれからも続けていくためには、どう変化し続けるのが良いかという話になって、とてもよい時間だった。長く続くものは、変わらずあるのではなく、ずっと変化し続けている。野田村の写真返却活動はまさにその象徴だ。

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