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取り戻す旅⑨ 『盛岡の夜』編

 吉浜食堂では、いづみさんが声をかけてくれていた二人と合流した。うち一人は、アンドブックス(八戸)でのイベントに来てくれていた、奈々という20代の女の子。写真家・浅田政志くんと僕の共著『アルバムのチカラ』が大好きだと付箋だらけの一冊を持参してくれて、さらに、フィルムカメラで写真を撮っているという彼女のInstagramアカウントがずいぶん良くて、印象に残っていた。イベントの打ち上げにも参加してくれた彼女は、八戸出身ながら今は盛岡の代理店に勤めていて、わざわざ盛岡からやって来たと言う。早速その場で、同じく盛岡から来たいづみさんをつなげたところ、今度はいづみさんが早速、今夜のご飯に奈々を誘ったのだ。「早速」が重なるとご縁は深まる。

 僕は旅先で気に入った店に出合うと「早速」また翌日に行ったりする。昨日の今日だと、大抵、店の人も覚えてくれているから、嬉しい出合いがリセットされず「続き」になる。最初は「なんか好き」という裏付けのない感覚が、「昨日もいらっしゃってくれましたよね」「いやあ、あんまりおいしくて」なんて会話を皮切りに、そこにある哲学や姿勢に触れて、徐々に明確な「好き」に変化していく。早速のチカラでより深まる理解が、一方的な出会いを双方向に変えてくれる瞬間の幸福はほかに変え難い。僕はそうやって知らない土地に自分の居場所をつくってきた。いわば今夜のご飯も然りだ。2日連続ご一緒することになった奈々の解像度が自然に上がっていく。

 彼女は写真のほかに、編集やライティングにも興味があり、いま勤めている会社を辞めて4月からフリーになるという。僕は早速、来月予定していた取材にカメラマンとして同行してもらうことを決めた。彼女の能力がどれくらいのものか、まだまだわからないし、経験が足りないのは明白だ。けれど僕は、早速が重なることのチカラを知っているのだから、そこに身を預ければいいと思ったし、それに、自分の20代を思えば、ほかに選択肢なんてない気がした。

 1999年、25歳のときに、僕は『バグマガ』というフリーペーパーを創刊させた。いま見たら、褒めるところは、勢いくらいしかない拙いメディアだけれど、それでも何年も隔月発行を続けられたのは、「OPUS(オプス)」というデザイン専門学校がずっと広告出稿してくれていたおかげだった。関西のクリエイターの底上げをしたい、そんな思いで、原さんという某デザイン事務所の社長が立ち上げたOPUSは、その志のとおり、のちの関西のクリエイティブを支える多くの才能を輩出することになる。さっと思い出すだけでもD&DEPARTMENT PROJECT 社長の相馬夕輝くんや、写真家の津田直さんなど、現在活躍されているデザイナー、写真家、編集者などの多くが、OPUSの卒業生だったりする。

 ある日、OPUSの広報担当者さんから、ぜひバグマガに広告出稿したいと連絡があり、それ以来バグマガの表4、つまり裏表紙は終刊するまでずっとOPUSの広告が掲載されていた。代表の原さんと初めてお会いしたのは、たしか最初の広告出稿をいただいた直後だったように思う。タバコを片手に、斜め下から見上げるようにして話す原さんの目は無邪気な鋭さがあって、僕はいつも少し緊張していた。クリエイターとしての矜恃を捨てず、それでいて経営者としても頼もしいその姿は、まっすぐ僕の理想で、つまりは憧れだった。

 そんな原さんは僕に会うなり、OPUSに入ることを熱心にすすめてきた。独学でMacの使い方を学びながら騙し騙しフリーペーパーをつくっていた僕は、確かに一度、きちんとデザインを学んでみたいと思っていたけれど、せっかくの広告費が学費で消えてしまうように思ってしまい、もう少しお金を稼げるようになってからにしようと、失礼ながらその誘いを聞き流していた。しかし原さんの勧誘はさらに熱を帯びていく。「君は将来きっと、ディレクションしたり、プロデュースしたりするような、そんな立場になっていくと思うから、その時にデザインのことをきちんとわかってた方が、絶対にいいディレクションができる」。いま思えば、星読みか何かでもしてたんだろうかと思うほど、的中率抜群なその言葉を、当時の僕は失礼ながら、ぼんやりと聞いていた。けれど、次の一言に、思わず原さんの顔を二度見する。

「授業料は、いらへんから」

 え?!

「これは内緒にしておいてもらいたいけど、藤本君からは授業料は取れへんから、うちで勉強しぃ」

 それで僕はOPUSでデザインを学ばせてもらうことになった。OPUSに通わせていただいたことはとても大きかった。独学で覚えていくしかなかったフォトショップやイラストレーターなど、デザインに欠かせないAdobe製品の使い方を教わっただけでなく、原さんからデザインというものの基本的な考え方を学べたことは、僕の編集の基礎をも作ってくれた。ある忘れられない出来事がある。

 当時OPUSがあった建物は、もともと昭和感あふれる雑居ビルだったものを、原さんたちが外装や玄関、エントランスの入居企業看板のグラフィックなどを手掛け直していくことで、抜群にお洒落にチェンジさせていた。まだリノベーションという言葉すらなかったような時代だ。しかしながら、入居している他の会社は昔ながらの中小企業が多く、ビルの入り口でタバコを吸っては、そのままポイ捨て、靴底で火種を消しながらビルに入っていくような、そんな人が多かった。それゆえ、ビルの入り口はいつでもタバコの吸い殻が散乱していて、タバコを吸わない僕はそれが気になっていた。けれどそれは、ヘビースモーカーな原さんも同じだったようで、ポイ捨てをやめさせる方法を考えてみるという。

 原さんのことだから、きっととんでもなくクールなデザインの「ポイ捨て禁止」ポスターでもつくるのだろうと思っていたけれど、ある日、いつものようにOPUSの講義を受けるべくやってきた僕は、自分の発想の貧困さに打ちのめされる。いつ来ても転がっているはずの吸い殻が一つもない。それどころかゴミ一つなく、しかしそこにはもちろん「ポイ捨て禁止」的な看板もポスターもなかった。その代わり、そこにはなんと、きれいな芝生が敷かれていた。

「こうしたらタバコなんか捨てられへんやろ。」

 デザインとはなんたるかを知った。
 原さんは、関西のクリエイティブ史において欠かせない人物だが、僕にとっては、20代の何者でもない僕を引き上げてくれた大恩人だ。

 奈々ともう一人、いづみさんが声をかけてくれていたのは、盛岡の某印刷会社に勤める、安藤くん。彼の会社で刷っているのが、盛岡の文化を醸成しつづけるリトルプレス『てくり』だと知って驚く。『てくり』というのは、2005年に創刊された盛岡の情報誌。と言っても、地方によくある広告やクーポンまみれの情報誌を想像されては困る。表紙にある「伝えたい、残したい、盛岡の『ふだん』を綴る本」というコピーが示すように、街の日常の豊かさや、ここで生きる人々の哲学を、さらりと伝えてくれるこの雑誌から、我が街に誇りを持った人は多いに違いない。それこそ、安藤くんも「てくりを刷らせてもらっているのは我々の誇りです」と言っていて素敵だなと思う。ZINEブーム的なものは常にあるけれど、特にローカルメディアに注目が集まりはじめた15年近く前のリトルプレスブームの際は、ローカルメディアの代表として『てくり』は、さまざまなメディアで大きく取り上げられていた。けれど、当時同様に取り上げられていた媒体でいまも続いているものは他にないんじゃないだろうか。てくりの編集をする「まちの編集室」の木村さんと水野さんのお二人は、僕にとっては、ずっと前を歩いてくれるカッコいいお姉さんたちで、そう言えば、最近お会いできてないなあと思う。 

 吉浜食堂を出て、ちょうど、てくり最新号の表紙を飾っている盛岡の「bar わたなべ」に行きたいと、連れて行ってもらう。BGMのない店内、岩手県産ケヤキのカウンターが美しいお店の設計は、以前ご飯をご一緒させてもらったことのある岩井沢工務所の岩井沢さんだと聞いて納得。マスターの渡邊さんは、秋田白岩焼の作家、渡邊葵さんの弟さんで、それゆえ、葵さんの焼くお皿や水差しが使われているほか、とても素敵なお父さんの作品が飾られたりもして、センスとは血なのか教育なのか、なんてことを考える。葵さんは僕が編集長を務めていた『なんも大学』という秋田県のサイトで取材をさせてもらったことがあった。しかもその際のライターさんを、いづみさんにお願いしたことを思い出した。

 東北と言えば、仙台が一番大きな街なのは周知の事実。しかし、仙台は東京からのアクセスの良さから、どこか出会いが軽薄になりがちだ。よく言えば都会的な軽やかさがあって、それはそれでよいのだけれど、北東北の要、盛岡の場合は少し違う。旅途中のSNSを見て、突然メッセンジャーで、「藤本さん盛岡にいるなら行ってもいいですか?」と、秋田から車をすっ飛ばしてやってきた、米農家の寿美子ちゃんという友人も合流し、盛岡らしい濃密な夜になっていく。

 いづみさんが長年、編集に携わる雑誌『rakra』が、青森・岩手・秋田の三県に特化した情報誌であることの意味はとても深く、重い。中央から離れるほどに希薄になるマスメディアの想像力と配慮。人口規模や経済圏といったモノサシで、ないものとされていく生活の息遣いを伝えることや、ここに生きているという確かな声を届けることが、ローカルメディアの役割なのだとあらためて思う。そういう意味で「伝えたい、残したい、盛岡の『ふだん』を綴る本」という、てくりのメッセージは秀逸だ。

 僕は仙台の街も大好きで何度も訪れるけれど、来盛と来仙の心持ちは少し違っている。それは辺境にあることの矜持に対する敬意のようなものではなかろうかと自覚する。南部せんべいが米ではなく小麦で作られるのは、米作の歴史の浅い北東北の雑穀文化の証でもある。恵まれた気候のもと、古くから稲作をした秋田ですら、いまのような米の産地となったのは昭和以降の話。日本人の主食は元来から米だと疑わない人々によって、無自覚に変化を強いられてきた東北。その足元の地層深くにある生活文化を感じるために僕は北へゆく。

 前々回くらいの来盛の際、盛岡駅から歩いてすぐ、北上川の河川敷にできた「木伏きっぷし」にある飲食店で、岩手県遠野市で活動を続ける編集・ライターの宮本拓海くんと、岩手県奥州市水沢で「Uchida」というカフェを経営する、デザイナーの川島佳輔くんの二人と一緒に飲んだことを思い出した。彼らの活動もまた、辺境から掲げるやさしい拳だ。彼らも頑張っているだろうか。また盛岡で飲みたいなとも思うし、今度は遠野に、そして奥州を訪ねたいと思う。

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