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魔法のコトバ

 もう5年ぶりくらいになるだろうか、熊本に暮らす友人で写真家の齋藤陽道くんとサクラマチクマモトにあるロンハーマンのカフェで久しぶりにお茶をした。一週間ほど前にも熊本入りしていた僕は、その際も連絡をとってみようかと思ったのだけれど、ちょうど彼はそのとき、撮影でインドのラダックに居たので、つい3日ほど前に帰国したばかりの彼にようやく会うことができた。

ラダックのお土産くれたー

 サクラマチクマモトの正面入口前で待っていてくれた彼は、僕を見つけるなり、まっすぐ駆け寄ってハグしてくれて、なんだかそれだけで僕は胸がいっぱいになった。いくら5年ぶりとはいえ、ふだんなら「久しぶりー」と言って握手するくらいが精一杯な僕も、陽道くんに会うときだけは、ちょっぴり恥ずかしい気持ちを解放して、全身で再会の喜びをぶつけあえる。

 あ、陽道くんは聾者だ。彼は耳が聞こえないからというのもあるんだろうけれど、それよりも陽道くんという人間がそのまま溢れていて、彼がたとえ聴者だったとしてもこうやってハグするに違いないと思う。

 嬉しいというシンプルな気持ちを全身で伝えあうこと。触れ合うことでしか伝わらない鼓動と共鳴していく気持ち。言葉はいらない。というか、これこそが「ことば」なのだと思う。

陽道くんとはいつも筆談でコミュニケーションをとるのだけれど、次回会うときはもっと手話ができるようになっていたいなあと思う。僕はそもそも外国語に対する苦手意識が強いのだけど、手話に関してはそういう気持ちにならない。

 それは、目の前の友人ともっと豊かに語り合いたい気持ちが強いからということもあるけれど、外国語を学ぼうとする人だって同じモチベーションを持つの人も多いはずだから、手話に限った話ではない。そのこと以上に、僕が手話を学びたいと思ったのは、「手話」というものにありのままの「ことば」を感じるからだ。「ことば」というものが誕生するその瞬間に毎度立ち会っているような代え難い興奮がある。手話を織り込みながら、気持ちや思いを伝えんとする目の前の彼に、僕はなんだかずっと感動していた。

 聾者と聴者のコミュニケーションの不便さはもちろんそうなのだけれど、それ以前に、陽道くんのように、感動がそのまま発露するような会話ができない自分の身体に歯痒さを覚えた。それで僕は仕方なく筆談をしたけれど、せっかくの今日という日に何か楔を打ちたいような気持ちで、彼の新著「せかいはことば」のなかで気になっていた「感動」と「好き」という意味の手話を実際に目の前でやってもらって、覚えた。あと「美味しい」も。

 「ここのバナナジュース美味しいんだよ〜」と、以前別の打ち合わせでご馳走になったバナナジュースを勧めてみると、彼も迷わずそれを注文。一口飲むなり満面の笑みでほっぺたをさすり「美味しい!」と言う彼に、これこそが「おいしい」ということばの誕生だとまた感動する。

 今年の5月に出版された新著「せかいはことば」は、陽道くんによる育児まんが日記なのだけれど(彼は漫画も描ける!)、子どもたちの小さな体から日々あたらしい言葉が生まれていくさまに僕は一緒になって感動した。「言葉を覚える」というように、言葉は成長過程で少しづつインストールされていくものだと思っていた僕は、ことばとは、もっと湧き上がったり、溢れ出たりするものでもあるんだと気付かされる。

「せかいはことば」のなかに、こんなくだりがある。

写真集に「感動」という言葉を選ぶまでは深く考えず使っていたこの手話、よく考えるとスゴイ。現在のぼくらの認識では「涙」のように、上から下へつるりと落ちる表現をしそうなのに、「感動」の手話は、下から上へとじっくりじわじわと、あがっていくのだ!!! 時間をかけて、下から上へとあがってくるもの。心から脳へと伝わる過程を身体表現できている、見事なまでに。

「せかいはことば」齋藤陽道/ナナロク社

 「感動」の手話は、つまんだ5指を頬のあたりからねじるように上げる。「感動」の原初的な湧き上がりが身体感覚そのままに表現されていることに、まさに感動したというこのエピソードは、この本を説明するのに、とても象徴的な箇所だと僕は思う。

 まさにそんなタイミングで「silent」というドラマが始まった。

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