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【連載小説】夢で見た #25

白石ケン至

 翌朝到着した駅もかつて啓太がデリーに向かうために乗車したヴァラナシ駅ではなくそこから東にあるというジャンクション駅の引込線だった。快適な車両での移動ではあったが、乗り心地の問題だろうか、腰が少し痛かった。背中を伸ばしながら降車すると既に迎えの警備の者たちが待っていた。その中の一人、鍛え上げられた身体を軍服で包んだと表現するに相応しい男にラジュが親しげに話しかけている。そしてその男をラジュが啓太に紹介した。啓太さん、今回のプロジェクトの警備全般の責任者でインド陸軍のドゥルーヴ少佐です。厳つい顔ですが心優しい素晴らしい方です。日本語で紹介したからか少佐に伝わっていないと思うが、余計な説明をすることはラジュの悪い癖なのだろう。求められた握手の手は分厚く巨大でグローブのようだと啓太は思った。ヴァラナシでの滞在期間は何度もお会いすることになります。どうぞよろしくお願いしますとラジュからの通訳を介して言葉を貰った。ここからは車に乗り換え旧市街に向かうことになるが、旧市街への新たな入域は在住者以外は禁止されているが、そこまでのルートが通常時に比べ圧倒的な混雑の状態なのだと状況の説明があった。その説明の間にも駅の構内から夢で見たのコールがここまで響き届いてくる。そして啓太は気付き始めていた。デリー滞在時よりも明らかに空や周囲の黄色みが増していると。かつてヴァラナシを訪れ日本人旅行者にそのことを尋ねた記憶が再び蘇ってきた。つまりはあの時すでにこの視界の変化を感じていたということなのだろう。石川から何か感じますかと聞かれ啓太がそのことを話すと、納得の表情で彼は頷いて反応した。乗車したセダンの後部座席の窓から見えるごった返した街並みを進むとすぐにあちこちから夢で見たのコールが上がっているのがわかった。そしてすぐに車列はガンガーの流れを渡る橋に差し掛かる。いよいよ再びのガンガーだ。湧き上がる高揚への違和感を啓太はそのままに感じ始めていた。なかなか進まない混雑した状況ではあったが昼前には川沿いガートへのメインロードであるゴードウリア・ロードの交差点へ到着した。通常はそこからガンガーへは車の乗り入れが出来ないことは啓太にも記憶があったがプロジェクト当局の車両は帰還の儀の期間は使用しているようで直接ダーシャシュワメード・ガート近くまで乗車したまま辿り着くことができた。川岸沿いの巡礼ガート沿いの滞在にあたってラジュから説明があった。ラリター・ガート裏の安宿に入ってもらい勝手に外出することは禁止。法王から経由される彼女からの何らかの光の言葉を待つということ。その内容によって今後の行動が決まってくるということ。分かりましたと啓太が答えると石川が安宿だけどエアコンは新しく付け替えたし心配はいらないですよ。啓太さんはかつての旅で経験済みでしょうし、パハールガンジの宿に滞在していたくらいですから問題ないと思っていますと声を掛けてきた。懐かしいですよと啓太が答えると、始めてきた方でもそう言うことがある街です。何百年と基本様子が変わらない街というものはそういう雰囲気が醸し出されるというか印象を与えるのかもしれませんね、ここに限らずですが。カオスと呼ぶに相応しいような喧騒を見つめながら言葉を交わし路地を歩く。路地を塞ぐ白い牛と壁の隙間をサリー姿の女性が過ぎようとした瞬間、彼女の手が牛の腰辺りをサッと撫ぜた。その手を自身の額に何気なく当てる姿に信仰という言葉と意味を思わされる。相変わらずのゴミと牛糞に塗れそれらとスパイスと焚かれた香が混じり合った香りが鼻腔を通し記憶を蘇らせ始めたことに啓太は興奮を覚えていた。あのままだ、あの時のままだ。軍服やスーツ姿の帰還プロジェクト当局者たちと見てとれるその様子だからだろう、路地筋の土産物からの呼び込みの声が全くかからないことに啓太は違和感を覚えていた。かつてひとり旅人としてこの路地を歩いていた時は常に前後左右から買え買え見ていけと人気者にでもなったような声に囲まれていたのだ、そして黄金寺院と呼ばれるヒンドゥー寺院の前を通過し辿り着いたその宿のエントランスで彼は記憶の強烈さにたじろいていた。そこは二四歳の彼が滞在した宿だった。あぁ、これは彼女が用意したまた一つの小さな奇跡なのだろうか。もうたじろぐといった感覚よりも苦笑が湧いて出るような、やれやれと言ったようだった。そのことを石川に伝えると彼はそれをそのままラジュに伝え、まるで伝令のようにそれを少佐や周囲の者、当局にスマホで伝えている。そしてそれを耳にした誰もがおぉ、だとか、ほぉ、などと感嘆の声を上げるのだった。今度の候補者こそ随伴者に違いないという想像を掻き立てるのだろう、安宿のレセプションはあの時の記憶のままだった。幾人かの人物に紹介されると宿のオーナーが何か宿内で困ったことがあったら何でも彼を呼びつけてくださいとアニクという名のスタッフを紹介してくれその彼に先導され高層階の部屋に入った啓太は真っ先に窓を開け放った。鉄柵が嵌め込まれてはいるがそこには記憶通りの絶景が広がっていた。ガンガーだ。すぐに階上の屋上に駆け上がるとそこはあの時怠惰な時間を潰したいくつかのテーブルと椅子が設置されたままの空間があった。ただいま。思わず呟く啓太はコンクリートブロックが積み上げられた端からガンガーを見下ろした。鼻腔に届く近くの火葬場マニカルニカー・ガートからの火葬の煙の香りもあのままだ。周囲の見下ろす屋根から子どもが上げる凧が見える。遠くから人々の声、犬、鳥、山羊の声。変わらない、違うのはガート沿いの軍隊の車列と緊張感伴う雰囲気だった。ガートを見つめる視界が黄色く濁っている。もはや彼にとって当たり前の視界だった。その時だった、見つめる眼下のガンガーが一瞬チラッと光った気がした。それは視界の中の周囲の景色も含めた一瞬の変化だった。まるで現像済みのネガフィルムを光に翳し見たような光と影が反転したような印象だった。しばらくガンガーを見つめていると不定期にその現象は起きているのが分かる。啓太だけに届くその光を感じながら彼は夕刻までそこを動かなかった。ひたすらにガンガーを見つめ思いを巡らせていた。まるでここに至るまでのあらゆる過去が蘇ってきているようだ。それが自身の意志からなのか彼女がもたらしたものだったのかは分かるはずもなかったが。日が沈む前に希望を伝え川岸へ向かった。ラジュと警備の者が同行することになり路地側のエントランスを出てトンネルのように屋根に覆われた薄暗い路地を抜けるとそこはラリター・ガートだ。幅の狭い階段上のガートを下りガンガーに辿り着く。時折の光の反転に困惑しつつ冷たい水に右手が触れると大河の流れの中程から何かが発するような声がする。顔をあげた啓太が見たものはカワイルカの背中だった。薄いグレーのその艶やかな一瞬の姿を再び探し始めると背後からラジュの声がした。


 客足がパッタリと止まることは少佐から聞いていた通りだった。何せ観光客と巡礼者が全く訪れないのだから仕方がない。チャンダンの家族には国からの返還者支援金があるから困らないが、同業者やこの街のあらゆる商売人たちが困惑していた。それでも帰還の儀の日程は事前にわかっていたことは救いでその日が過ぎれば再びいつも通りの賑わいが戻ってくると我慢の日々だった。変わらない場所での親子でチャイを売る毎日、ガートの背後のアニクが働く宿が幾つか政府から指定された当局詰所の一つになったことでチャンダンはガンガーと共に帰還するとされている男の候補者に遭遇する機会を得ていた。先日までの二人とも、そして新たな候補者も皆アジア人、それも日本人であることに彼女のどういった思いや理由があるのかは皆目わからなかった。観光でこの街を訪れる日本人は総じておとなしく礼儀正しいことは商売人のチャンダンも感じていた。候補者たちも同じだった。彼らは弔いという偶然なのか彼女のもたらした作為なのかはわからない目的でここを訪れていたし、共通して神妙な様子だった。アニクから今日三人目の候補者が訪れることを聞き再び遭遇するだろうかと何度か考えながら働いていたその日の夕刻、ガートをラジュと共に当人がやって来たのが目に入った。彼はガンガーに赴き水面に手を触れると何やら静かにその流れをしばらく見つめていた。近づいてきたラジュに声を掛けると今までの候補者との遭遇時と同じような展開が訪れた。

→ #26 へ続きます。

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