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絵画鑑賞

〇〇さんは、なんで学校に行っていなかったの?

ゼミの先生

畏れや尊敬が先行して、どぎまぎして、上手に喋ることができなかったゼミの先生と、最近ようやくリラックスして話せるようになった。

研究室で研究についての不安を吐露していたところ「〇〇さんは、真面目だよね。学級委員長っぽい。学校に行っていなかったようには見えない」と言われた。


「学校に行っていなかったようには見えない」
大学に入学して、何十回と言われた。不登校なんて、どんな人でもなるよ。きっかけなんてなんでも良いんだよ。


そうこう話している間に冒頭の問いを投げかけられた。
なんで行っていなかったのか。21歳になった今、考える。


教室で起こるすべてのことが、どこか他人事だった。

周りのクラスメイトを見ていても、何を話したら良いのかわからない。

そもそも、話したいことなんか何も見つからない。




あの頃の私にとって、他者はこちらから干渉する対象ではなかった。
ぼんやりと、他者を捉え続ける。自己と世界がどんどん遠くなる。世界は、私が何もしなくても進んでいく。

気づいたら私は教室内で孤立し、息苦しくなって学校に足が向かわなくなった。




「ちょっとおませさんだったのかもね〜」と先生。
「そうだったのかもしれません」と私。



__________




ここ最近、自己と他者の間に膜みたいなものを感じる。
自分が知覚するあらゆるものは不確かで、ただの現象に過ぎない。そういえば、幼稚園の時にも同じようなこと、考えてた(「ぼんやり幼稚園と、学問」参照)。

今私の目の前で起きているもの全てが絵画みたいで、私はただそれを鑑賞しているにすぎない。


少し、学校に行かなくなった10歳の私みたい。

でも、あの頃と少しだけ変わったことがある。
それは、絵画を絵画として鑑賞しながら、それに介入できるようになったこと。


絵を見ていて、時々すごく心惹かれる人・もの・事象に出会う。
そこには、自分から歩み寄る。


博愛主義者になりたかった。自分から見える世界ぜんぶが愛おしいと思っていたかった。

だけどそれは諦めた。限られた好きな人たちをとことん愛し抜こうと思った。


他者を、世界を、絵画を鑑賞するように捉える。
その中で見つけた好きなものを、愛し抜く。


そうするようになってから、悲しいとか苦しいとか、はたまた何かを想って狂おしくなるとか、そういう感情がなくなった。日々が淡々と過ぎていく。




心が、凪いでいる
静かにそっと、凪いでいる



p.s.

自己と他者というものへの興味がすごく強くなったので、この本を読んでみます。某先輩をはじめ、そういう話がしたい方、しましょう。

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