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「正しい」と「間違ってる」の狭間で 『ガールズバンドクライ』感想


アニメ『ガールズバンドクライ』を無事最終回まで視聴した。第1話をdアニメストアで視聴した時点で私はガルクラを激賞しており、その後は毎回リアタイした上で大筋は本当に楽しむことができていた。だが、だからこそ気に掛かってしまう部分も少なくないため、自分自身の意見の整理を兼ね、備忘録的に感想を残しておきたいと思う。
なお、私は二十世紀のロックミュージックには詳しくない。ただ、中学生の頃はRADWIMPSの暗い曲をよく聴いていたし、高校生から大学生である現在にかけてはamazarashiという同じくロックバンドの曲をよく聴いているので、ある種のロックを楽しんでいることは間違いないとは言えるだろう。そういった背景から、古典的なロックやその精神性といった立場からガルクラをどう論じることができるかは、是非とも他の方の記事を参照されたい。


はじめに

メジャーに行ったらごり押しされて
売れ線になったら用無しだな
ツタヤ入り口のワゴンセールは
まるで商業音楽の墓場

amazarashi『匿名希望』

これは、私の好きなロックバンドであるamazarashiの『匿名希望』という楽曲の歌詞の一部である。私には、この歌詞が『ガールズバンドクライ』第1話の前日譚として河原木桃香が直面した絶望や、最終回でトゲナシトゲアリが直面した現実と相当程度合致しているように思われる。もっとも、本稿を読まれている方は商業音楽に対する批判を歌ったロックバンドの曲はこれ以外にもごまんとあるではないか、と思われるかもしれない。しかし、この曲や『ガールズバンドクライ』にはそれ以外にも特筆すべき点や文脈があり、それを含めて考えるとトゲナシトゲアリの精神性にさらに接近しているのだと述べたいのである。とはいえ自分語りはウザいし、それを説明するには本稿での議論を踏まえる必要があるため、後に述べたいと思う。

さて、作中で主人公井芹仁菜を含めたトゲナシトゲアリのメンバーは、折角掴んだチャンスだったはずのプロ入りを一曲のリリースのみで取りやめ、事務所を辞めインディーズとして活動していくことを決めた。彼女らの決断の背後には、ただその時々の思いを「全部ぶち込む」のだという強い意志があり、結果としてプロを続ける選択を拒否したのだと私は考えている。
本稿では、彼女らの決断に至るまでの葛藤や、その心境の変化について追っていきたい。

最終回視聴中・直後の所感

最終回をリアタイしているとき、まず序盤で感じたのはOPがカットされないということへの驚きだった。これはEDについても同様で、敢えて分かりやすいカタルシスを最終回に持ち込まないということなのだろう。後述する結末からも明らかであるように、彼女らの物語はまさに始まったばかりなのである。それを象徴するかのように、エンディングは通常の回と同じように流れ出し、物語の途上の一ページとして綴られていく。もっとも、手島nariさんのツイートにもあるように、エンディングの映像には彼女らの後日談が綴られており、この回で初めてその文脈が現れるのだという特異性がある。しかし、そうであるからこそ、描かれたエンディングはまさに彼女らの物語が続いていくことを示し、最終回という「終わり」を「日常」の中に組み込めているのだ。
そういった意味で、このエンディングで『ガールズバンドクライ』は完成したとも言えるのかもしれない。続きを示唆しつつ終わるからこそ、開かれたものとしてこの物語を閉じられるかもしれないということだ。だが、率直な感想としては、続編の制作を切に願ってしまってやまない。それを心から期待してしまうほどに、彼女らの紡ぐ物語は魅力的に思えてしまうのである。

青臭さの裏返しとしての視野狭窄

とは言ったものの、第二話の頃から一貫してガルクラの物語には気に掛かる点があった。それが、主人公井芹仁菜の視野狭窄的な性格と、それに駆動されて彼女を含めたトゲナシトゲアリのメンバーがダイヤモンドダストとの対決へと突き進んでいくという点である。何も、私は井芹仁菜の性格を必ずしも否定的なものとして捉えている訳ではない。彼女は人一倍の素直さや青臭さをもっており、それこそが彼女の美徳であるとさえ思っている。彼女は多くの人々が口をつぐむような場面で、主にトゲナシトゲアリのメンバーを中心とする周囲の人間と「正論モンスター」としてぶつかっていき、その過程で信頼を深めていく。それ自体を私は全く否定的には思わない。むしろ、それこそが現代の去勢された我々が恢復すべき態度であるようにも思われる。その点で、井芹仁菜をただ「狂犬」と呼んで、外部化して彼女の行動を面白がるばかりであったように思われる一部の視聴者に、私は反感さえ抱いている。

ただ、彼女の素直さや青臭さの裏返しとして現れてくるのが、ある種の視野狭窄である。彼女は元々、河原木桃香作詞作曲のダイヤモンドダストの楽曲『空の箱』に心を救われ、突き動かされることで運命を大きく変えられた。いじめられていた級友を助けようとした結果、今度は自身がいじめに遭うようになってしまっていた高校を中退し、分かり合えない家族から離れ単身で上京し、川崎の街に辿り着いた。そこで出会ったのが、たった一人ダイヤモンドダストを脱退し、故郷にまさに帰ろうとしていた河原木桃香だったのである。これ以降、井芹仁菜は河原木桃香に、そして彼女自身に繰り返し言い聞かせるように叫び続ける。私は(私達は)「間違ってない」、「負けてない」、負けるはずがないのだと。
しかし、作中で井芹仁菜により繰り返される「負けてない」という主張には、いささか無理があると言わざるを得ないであろう。確かに、井芹仁菜がいじめを止めようとしたことは、倫理的に善い行いであり、その意味で間違っていない。正義であるとしか言いようがないだろう。しかし、それにも拘わらず、いやそうであるからこそ、彼女は「負けた」のだ。教室というある種のヒエラルキーのあるコミュニティの中で、ただ正論を振りかざすばかりでは地位を失っていく一方である。この構造は、舞台が教室から社会へと移り変わっても同様だ。そのことを正しく理解できないまま、あるいは心の奥底では理解していても受け入れようとしないまま、彼女の物語は終盤まで突き進んでいく。
第12話で、当時制作中だった新曲について彼女は「大丈夫ですよ。だって、こんなに一生懸命作ってるんですよ。大丈夫。」と言い、微睡んでいる河原木桃香を慈愛のまなざしを向けていた。思うにその言葉や表情に、不安のような感情をあまり読み取ることはできない。このような不合理な自信を胸に、物語は第12話のラストへと向かっていくのである。もっとも、彼女とて自らが負ける可能性を少なからず認識はしていただろう。しかし、同じく第12話で神社で悩む河原木桃香を問いただし、「この感覚を、信じてます。」という言葉とともにトゲトゲメンバーとの契りを結んだ瞬間の彼女は、間違いなく勝利の可能性を肯定しようとしていた。それ自体は、18かそこらの若者にとって何ら無理もないことであるだろう。本作でも、第8話冒頭の回想シーンにて河原木桃香の高校時代が描かれ、彼女はダイヤモンドダストとしての活動が成功すると信じていた。このような漠然とした大人や社会への信頼や、友人関係の良好さから彼女に井芹仁菜との精神性の差異を見出そうとする見たことがあるが、実のところ井芹仁菜も高校時代の河原木桃香と同じく、自身が評価されるはずだと信じていたのである。そうであるからこそ、「現実」を分かっているはずの河原木桃香は井芹仁菜の衝動に結局は突き動かされたのだろう。
とはいえそんな願いにはお構いなく、容赦なく現実が突きつけられるときが来てしまう。結局直面したのは、新曲の再生数が鳴かず飛ばずであるという事態だった。ここに至ってようやく井芹仁菜は「正しさ」が評価に直接結びつかず、チケットの売上で勝敗をダイダスとの対バンでも確実に負けるであろうという現実を痛感したのだろう。ロックの神様は居なかったか、あるいは居たとしてもその時の彼女らには微笑まなかったのだろう。
勿論、本稿ならびに私がそういった社会の在り方を何ら肯定しようとするものではないことを付け加えておきたい。私自身、叶うならば正論だけで成り立つ社会に住んでみたいものだと夢想することは少なくない。

一部にとって予想外な予定調和的結末

このように、主人公井芹仁菜の視野狭窄について述べてきた。彼女らの「負け」は客観的には必定であり、それを覆すものがあるとすれば、創作者という上位存在からの超越的な干渉以外になかっただろう。
しかし、『ガールズバンドクライ』の結末はそうした「勝利」ではなかったのである。集客力の圧倒的差から「負ける」ことは分かりきっていたダイダスとの対バンでは案の定奇跡は起こらず、満員とは程遠い会場で作中ラストのライブを彼女らは迎えることとなったのである。ライブでの彼女らの振る舞いや披露された楽曲『運命の華』については後に詳述するが、ここで先に触れておきたい点がある。
それは、トゲナシトゲアリの「敗北」という展開自体は、Twitterを見る限り少なくない割合の視聴者にとって十分予想され納得できるものであった一方で、その際に見せた彼女らの表情や言動が、一部の視聴者からは予想外かつ納得できないものとして受け止められたという点である。具体的には、ライブを観に来ていたダイダスのボーカルにして絶交した親友のヒナと井芹仁菜は和解し、彼女はもはや、ルサンチマンや鬱屈からほぼ無縁となったかのように一部の視聴者には見えたという点である。
だが、実のところそれさえも含め予定調和であり、必然であったのだと次節で述べたいと思う。

井芹仁菜がまなざしていたのは

最終回を終えて、ガルクラのストーリーにはいくつかの面で批判がなされているのを目にする。例えば、当初は社会や周囲から相当に逸脱し暴力的な面を見せていた井芹仁菜は結局、父親や激しく憎んでいたヒナと和解して態度を軟化させてしまい、社会や体制に対する懐疑や批判の目をあまり向けなかったといったものである。あるいは、そもそもダイダスとの対決に拘らず、競争からさっさと降りるべきだった、といった批判もある。そういったストーリーに至った原因やその是非を作劇というレベルの話として作家論的に批評することも可能だろうが、私の知識の不足等ゆえここでは敢えて触れないこととし、以下では『ガールズバンドクライ』を個の完結した作品として捉えた場合の私の考えを述べたい。
私には、先述したような井芹仁菜に「反体制」として振る舞うことを求めるような態度には、そもそもとして彼女の人格やものの見方に対する理解の不十分故に生まれてくる部分が少なくないように思われる。先述した通り、確かに彼女は家族や学校というコミュニティで意見の不一致や不和の結果として、それらから逃避する道を選んだのであった。その振る舞いは、一見して所謂「反体制」としてのロックに期待されるものと同一であるかのように思われたかもしれない。しかし、よく考えれば彼女が反抗しているのは体制という社会全体の権力に対してというよりはむしろ、直接的に属しているコミュニティに対してであり、しかもそれは相手の言い分に納得していない場合が主たるケースなのである。私の記憶する限りでは、作中で彼女が家族や学校での人間関係について反芻し時として不満をぶち撒けることはあっても、社会そのものを批判するような場面は一貫して第1話から見られなかった。そして、相手の言い分や自身を思いやる心に気付き、完全にではないにせよ概ね納得できたとき彼女はトゲを引っ込め、晴れやかな表情を見せるのである。

また、彼女は「間違ってない」ことを証明するために、ダイダスに「負けてない」ことを示そうとしてもいた。つまり、「正しさ」と勝利は、当初彼女の中で対応するものと見做されており、分かちがたく結びついていたのである。もっとも、それは自らの「正しさ」の決定をただ社会の評価に委ねるという意志薄弱を意味するものでは全くない。むしろ、自らに内在する「正しさ」が多くの人々に適切に伝わるべきで、実際そうなってほしいという祈りめいた、ナイーブな考えによるものであったように思われるのである。
実際、先述した第12話での「大丈夫ですよ。だって、こんなに一生懸命作ってるんですよ。大丈夫。」と発した場面にもあるように、彼女は物語が最終回を迎える直前までダイダスに対する勝利の可能性を確かに信じていた。彼女は信頼できる仲間と出会い、その音楽や在り方を「間違ってない」と肯定したいと願っていた。その根底には、「たとえ身近なコミュニティから排斥されたとしても、必ず社会という巨大な構造のもとでは彼女らの『正しさ』が評価され、ダイダスより人気を得るといった形で勝利し報われる」とどこかで信じてしまっている、いや、信じたがったているという、切実な願いがあったと私は考えている。そして、勝利を信じたいがゆえに、本来取り得たはずの予備校に通い続ける等の無数の選択肢を目的論的に削ぎ落として退路を断ち、既存の価値観や構造の支配する社会のもとで、勝てるはずのない勝負に向かっていったということなのだろう。
従って、社会や体制に批判をあまり向けなかったという批判は、そもそも井芹仁菜という人間の人物像を見誤り、明後日の方向に期待してしまったが故に生まれたものであると私は考えている。
もちろん、私は「反体制」として振る舞うことや、創作物の登場人物を含め他者にそうであることを期待することを否定しようとは全く思わない。そういった作品に対する需要があることも確かで、必要であると私自身も思っている。ただ、ガルクラでははじめからその批判や怒りのまなざしは社会へは向いていなかったということを踏まえた上で、その是非について問うことが適切であろう。

「正しい」と「間違ってる」の狭間で

このように、井芹仁菜は「正しさ」を証明するために、目に見える客観的な形での社会的な勝利を願っていた。では、そうした願いは何故に抱かれたのだろうか。井芹仁菜の在り方が間違っており、かつダイダスのそれが正しいのだという了解が社会に共有されているのだとしても、それが生命を害されるようなことには勿論結びつかないどころか、自分たちが「正しい」と信じる音楽をやり続けることさえ何ら直接的に遮ることにはならないのである。あるいは、主観的な精神的勝利で満足することを許さず、彼女を戦いに駆り立ててやまないものは何なのか。このような問いに応答することができれば、同時にそれは「そもそもダイダスとの対決に拘らず、競争からさっさと降りるべきだった」という批判について検討し、何らかの応答をすることにも繋がるだろう。
そこで注目したいのが、作中における「正しい」と「間違ってない」についてである。作中で井芹仁菜が「正しい」と主張する頻度は、「間違ってない」と発する頻度より圧倒的に少ない。その背後には、実のところ彼女自身がその正しさに完全な自信はなく、「正しく」ないのかもしれないという不安が脳裏を過ったということがあったのではないだろうか。彼女が「間違ってない」と叫ぶのは、基本的に彼女を否定しようとする相手や意見に対してであり、そのまなざしは自身やトゲトゲメンバーだけに向いている訳ではない。屈託のない肯定とは程遠く、否定(間違ってる)の否定(ない)としてどこまでもその目線はダイダスや他者に向けられ、ルサンチマンに塗れていたのである。第11話のライブシーンの口上での「私の全てを否定した、全ての連中に、間違ってないって、叫んでやる!」という台詞に、特にそのことが際立っていると言えるだろう。
また、同じく最終回で海老塚智が述べたのは、コミュニティ内で「うまくやっていく」ことこそが「正しい」とするならば、いじめをみて見ぬふりしたヒナが「正しく」、立ち向かったこと井芹仁菜は「間違い」だったということなのだろう。ヒナが認めるよう迫った通り、ダイダスに勝てるはずのない戦いを挑む努力は空転するしかなく「間違い」だったのだ。
さらに、赤の他人が河原木桃香の在り方や、彼女がかつてダイダスで目指した音楽を、本人がやや否定的であったにもかかわらず「間違ってない」と強弁する姿は独善的であり、客観的には「正しい」とは言い難いだろう。
つまり、井芹仁菜の「正しさ」は当人にとって絶えず揺らいでおり、それどころか客観的にも完全に肯定できるものではなく、相対化されてしまっているのだ。その結果として、彼女は「正しい」と胸を張って主張することは殆どできなかった。

では、「正しくない」と「間違ってる」は完全に同一な、対応した概念ということなのだろうか。
そうでは全くない、というのが私の考えである。確かに、井芹仁菜は独善的で、コミュニティでうまくやっていくことはできず、自身もそんな自分が「正しく」ないのではないかと不安に駆られていた。そうして絞り出されたのが、全てを明け渡すことだけは拒否したいと踏みとどまる懸命な「間違ってない」だったのだと思う。
いじめを巡り彼女を「間違い」と断じたように思われた海老塚智は、続いてこうも述べている。「だから私は惹かれたんだと思う」と。「うまくやっていく」ことができるか否かだけを価値基準として採用する限りでは、「正しくない」と「間違ってる」は単なるトートロジーに堕してしまう。その意味で井芹仁菜は概ね「正しくない」し「間違ってる」が、海老塚智はそんな井芹仁菜の在り方を完全に否定はせず、好ましいとさえ思っていた。これは、「うまくやっていく」とは異なった文脈で「間違ってない」と述べたことに等しいだろう。
また、彼女の「独善的な」言葉が河原木桃香を励まし、度々音楽を諦めようとする彼女を何度も突き動かす原動力になったことは確かなのだ。そしてそれは、彼女の願望をただ押し付けようとしているのではなく、河原木桃香の嘘や葛藤を見抜いているがゆえに発されたものであり、そこには確かに「善性」が宿っているように思われるのである。
彼女がダイダスとの対決に拘るがあまり様々な取り得たはずの選択肢を切り捨てることで、失ったものもあったに違いない。しかし、エンディング映像で示唆されている通り、井芹仁菜は最終回後に勉強を再開しており、高認を取るといった形で、「退路を断つ」以前のような過激な選択からはやや距離を置こうとしているものと見受けられる。アニメ本編での彼女の視野狭窄は、少なからず改善されつつあるという訳だ。
従って、井芹仁菜の在り方は、社会への適応という観点からは勿論、倫理的な観点からも完全には「正しく」ないが、その行動や言葉は彼女や周囲の人間を突き動かし続けていた。この意味で、彼女は一貫して「間違ってない」のだと述べたい。「正しい」とも「間違ってる」とも異なった仕方で、その狭間で、「正しくない」が「間違ってない」という葛藤を生きるということがあり得るのだ。
これは、程度の差こそあれ現代を生きる私達に普遍的な感覚であるように思われる。「正しくない」と思った出来事について、残念ながら私たちの多くはその全てに立ち向かうことはできていない。差別や偏見や社会問題に見て見ぬふりをして、沈黙したまま社会に迎合してしまうことがある。ルパは第8話でバイト中、客から人種差別を受けてしまう。思わず反論しようとする井芹仁菜を抑え、その場では受け流していたものの、「私にもロックは必要ということです」とも述べていた。ルパにとって、ロックとはそういった日常での鬱屈をぶち込んで解放するためのものということなのだろう。全ての不正義に立ち向かうことこそ理想的には望ましいのだが、現に私たちの多くは金銭や社会への最低限の適応のため、そうすることはできず、「うまくやっていく」ことを選択してしまっている。ただ、表面上はそれに適応しながらも、内面化することだけは拒否し、葛藤を抱えつつ何らかの形で抵抗していくことは、倫理的に最善ではないが「間違ってない」とは言えるのではなかろうか。
もっとも、それを理由に自身を正当化し、現状追認に安住することが許される訳ではない。いじめを止めようとはしなかったヒナも、確かに止めることが望ましいとは分かっていて、葛藤もしていただろう。その意味では、ヒナの在り方は完全には「間違ってない」のかもしれないが、いじめを止めようとした井芹仁菜の方が「間違ってなさ」では上回っているのだと、私は井芹仁菜の在り方をこそ称揚したくなるのである。

実存に立ち返った『運命の華』

ここからは、最終回で披露された『運命の華』について述べたい。私がこの曲を初めて聴いたときの印象は、トゲナシトゲアリの曲としては今まででおそらく最もキャッチーなメロディーかつ明るい歌詞である、というものだった。そのため、その意外さに当初はやや納得できなかったのだが、実はこの曲がトゲナシトゲアリらしくないと見做されることこそが、トゲナシトゲアリらしいということを逆説的に示しているのだと結論にやがて辿り着いた。
第12話で河原木桃香は、曲の制作中「なんかこういうのウケないっていうか、古いのかなって」と不安を感じており、それに対して井芹仁菜は「一番大切なのは、私たちの曲になっているかいないかだけ」ではないかと応答している。その言葉に励まされ、自らの望む表現を選んだ結果として、事務所に所属し注目が高まっているにも拘わらず103回しか再生されなかったという事態になったものと思われる。

広げた翼は穴だらけでも
地獄の底だって君と歌えるなら
消えたくって 羽ばたいて 今
消えたくなくなった
摘み取って残した
ここでいつか 華咲かせる
消えたかった 私はもういない
消えなくてよかったな・・・
だって君と出会い
芽吹いてしまった 運命の華

トゲナシトゲアリ『運命の華』

第12話でも述べられ、歌詞を見ても分かるように、『運命の華』では徹頭徹尾、河原木桃香の視点でトゲナシトゲアリについて述べられており、それまでの多くの楽曲とは異なり、あまり鬱屈とした感情のようなものは感じられない。いや、確かに鬱屈は表明されているものの、それらを乗り越え、これから彼女ら自身がどうしていくのかというところに力点が置かれているように思われる。そのため、作中世界でそれまでのトゲナシトゲアリの曲を聴き、「自らの鬱屈を代弁してくれている」と感じていたリスナーや、アニメ『ガールズバンドクライ』の視聴者であっても、そこに「反体制」を幻視し、同じく鬱屈の表明を求めていた者にとっては、あまり好ましくないものとして受け止められたのではなかろうか。それどころか、バンドメンバーについてという内輪ネタの極致である解釈に困る内容の歌詞を、素直でキャッチーなメロディーで歌い上げたことで、彼女らの辿った道程を知り得ない作中世界のリスナーにとっては、プロ入りしたことで売れ線に走ったのだと思われてしまった可能性すらあるだろう。その結果として、再生数103回という事態になってしまったのだと考えれば納得がいく。
しかし、彼女らがそうした表現を選んだ内実には、結局のところその時々の感情を「全部ぶち込む」ことがただあったのだ。井芹仁菜を筆頭に、トゲナシトゲアリのメンバーは皆「売れる」ことを全く望んでいなかった訳ではなく、むしろ意識的であった。しかし、それが表現したいものと衝突したとき、葛藤を重ねつつも結局は彼女らは実存に立ち返り、自らの望む表現を選んだということなのだろう。もっとも、特に井芹仁菜はそれが評価されるものと信じたがっていた訳だが。

「戦って」「負ける」ということ

そうして『運命の華』がリリースされ、芳しい評価を受けられなかったことで、彼女らは改めて苦悩する。プロデューサーのミウラがダイダスに頼み込んだことで、対バンのレギュレーションをより公平なものとすることが実現しそうになるが、それをトゲナシトゲアリは断り、再びインディーズで活動することを選んだのである。ヒナと再会し、自らが「間違っていた」ことを認めれば、いくらでも助けてあげると言われた井芹仁菜にとって、ダイダスに頭を下げることは「戦わずして負ける」ことを意味していたのだろう。ここでもやはり、「あの時の私を!否定しないでください!」「だって私、間違ってないから!」といった台詞を考慮すると、井芹仁菜は「負ける」ことが「間違ってる」ことを認めることに直結すると思っていたように思われる。それよりは、ひとまずは「戦う」ことで決定的な敗北を先延ばしにしたいと願っていたのではなかろうか。
しかし、それでは敗北が確定したライブ会場にて、井芹仁菜が晴れやかな表情であったことに説明がつかない。そこで注目したいのが、先にも述べた海老塚智の「だから私は惹かれたんだと思う」をはじめとする、神社での会話シーンである。友人たちの肯定を受けながら、井芹仁菜はここに至ってついに「負ける」ことが「間違ってる」ことと直結しないということを、ある程度の自信をもって信じることができるようになったのではなかろうか。
また、ライブ直前の控室にて、現実は厳しく、簡単ではない中でも信念を貫くということについて河原木桃香は「だから言えるんだろ、間違ってないって」と述べ、続いておそらく『運命の華』に対して「数字じゃねーんだよ、曲は」といったコメントがあったことをメンバーに伝えている。それを受け、井芹仁菜は「本気って伝わるんですね」と「間違ってない」ことへの自信を深め、いよいよステージへ向かったのである。
ステージでの口上の最中、井芹仁菜はヒナがいることに気付き、自分語りを始める。いじめを止めたことで不利益を被ったことは確かだが、それを後悔してはいないのだと彼女は言う。それを振り返る中で、彼女ははたと気付く。ヒナも彼女と同じく、ダイダスの歌が好きだった。ヒナもまた、彼女のような生き方が「間違ってない」のだと心の底では思っていたということに気づいたのだろう。
そして彼女は叫ぶ、「絶対負けてないって、間違ってないって!」と。今回のダイダスとの対バンでの「負け」は確定しているが、だとすればこの「負けてない」は何を意味するのだろうか。思うに、それは現時点では彼女らは「負けてる」のかもしれないが、それで諦めることはないという宣言だ。井芹仁菜は自らが「間違ってない」ことへの自信を、社会の評価とは独立して獲得することに成功した。しかし、それは敗者の美学に安住し、世界への働きかけを放棄することを意味している訳ではないのである。

おわりに

悩み多き僕の 歌に結実を
声なき声には 抵抗の扇動を
痛み多き僕の 過去に終止符を
君の代弁者は君以外にいない 匿名の希望

amazarashi『匿名希望』

結局、井芹仁菜は誰かの代弁者たり得ないということなのだろう。考えてみれば、第8話でも井芹仁菜は、彼女を「私の歌」と形容し、かつての自身を投影してくる河原木桃香に「私で逃げるな」と述べ、現実に立ち向かうことを求めていた。
amazarashiの『匿名希望』の歌詞は、鬱屈を歌い上げ、リスナーの心情を代弁してくれるかのように思いそうになるが、結局はそういった仮託をはっきりと拒否してくる。それは、先述した井芹仁菜の在り方と重なるところがあるように思われる。
また、「はじめに」で紹介した方の歌詞の「ツタヤ入り口のワゴンセールは まるで商業音楽の墓場」という部分において、実は一般に流通している音源では「ツタヤ」が削除されており、やや不自然な空白がある。amazarashiはプロとして活動しているため、こうした自主的な「検閲」が必要とされているということなのだろう。なお、amazarashiは2018年に武道館にて行ったライブ『朗読演奏実験空間 新言語秩序』にて言論統制への警鐘を鳴らし、放送禁止用語が歌詞に含まれる楽曲『独白』を披露しているため、社会に迎合するばかりではなく、まさに自らの目指す表現とプロとしてのしがらみの間で葛藤を抱えながら活動しているに違いない。
同じく、実存に立ち返ったトゲナシトゲアリにとっても、結局多くの人々に自らの「本気」を伝えるためには、独り善がりな表現に終始してばかりではいられない。勝利の自己目的化に警戒しつつも、世界に働きかけなければならないのだ。そういった現実の切実さを『ガールズバンドクライ』はリアリティをもって私に突きつけ、再考を促してくるのである。
以上より、「そもそもダイダスとの対決に拘らず、競争からさっさと降りるべきだった」という批判は確かに「正しい」のかもしれないが、彼女らが「間違ってない」ことや「本気」を多くの人々に伝えたいと思っている限りにおいては、議論は平行線となり、解消不可能なものとして残ってしまうものと思われる。

嘘みたいな 馬鹿みたいな
どうしようもない僕らの街
それでも この眼で確かに見えたんだ
この手で確かに触れたんだ
ねえ ほら ほら
ほら また吹いた 馬鹿みたいだ
どうしようもない闇を照らせ
夢じゃない どうせ終わってる街だって
諦めたって変わんないぜ
ああ まだ まだ まだ
やり残した鼓動がこの夜を覆って
僕らを包んで粉々になる前に
頼りなくてもいいその手を
この手は自分自身のものさ
変わらないはずはないよ 手を伸ばして

トゲナシトゲアリ
『雑踏、僕らの街』/“Wrong World”

最終回で井芹仁菜は「この街が好きです」と河原木桃香に述べた。ここで思い出してしまうのが『雑踏、僕らの街』における「僕らの街」に対する表明だ。それと「この街が好きです」は矛盾しているように思われるかもしれないが、実はそうではない。彼女はトゲナシトゲアリと出会い、信頼関係を育むことのできた場として「この街」を肯定している。
そして、『雑踏、僕らの街』は英題では“Wrong World”(正しくない世界)となっていることが、YouTubeにアップロードされている音源から確認できる。つまり、「僕らの街」とは彼女らの住む世界を表す提喩であり、必ずしも川崎という具体的な街に限定したものではないのだ。彼女らの在り方を「間違ってる」と断ずる、川崎を含めた世界に彼女らは屈せず、決して肯定しない。「それでも」、偶然か必然か彼女らが出会い、本音でぶつかり合う関係を築くに至れた磁場としてならば、「この街」川崎は肯定されるのだ。
ところで、井芹仁菜が怒りを露わにする際に現れる赤黒いエフェクトを「トゲ」と呼ぶ比喩はトゲナシトゲアリという名称からの発想なのだろうが、偶然にもアナロジーとしても的を射ているように思われる。それをハリネズミのトゲのようなものと捉えるのなら、彼女のトゲは引っ込んで一見「トゲナシ」になることこそあれど、永遠に失われてしまうことはない。良くも悪くも納得に拘わる彼女は、最終回以降もまた、その時々の納得できない出来事に応じてトゲを出すことになり、「トゲナシ」と「トゲアリ」を行き来することになるだろう。父やヒナの考え方自体には一応納得し、ひとまず和解したとはいえ、いじめ等を巡った「行為」の点でやはり井芹仁菜とは食い違いがあると言わざるを得ないからだ。そうした行き来の果てに、OP映像で描かれていると思われる武道館ライブに辿り着くには、必ずや数え切れない葛藤が必要とされるに違いない。「変わらないはずはない」と信じ、「手を伸ばし」続ける彼女らの旅路は、如何にして肯定されうるのだろうか。それをこの目で見届けるべく、続編の実現を切に願っていると述べて、本稿を締めたいと思う。

なお、ガルクラの感想で特に面白いと感じた記事や、本稿を書くにあたり参考にさせていただいた記事が以下のように多々あるので、是非ともそちらもご一読願いたい限りである。

おまけ アルバム『棘アリ』のすすめ

「ガルクラの精神性は現代的というよりは古典的であるが、サウンドや歌詞は現代的である」といった点で不満を抱くロックファンをTwitterで目にしたことがある。そこで、そういった方々におすすめしたいのが、アルバム『棘アリ』の楽曲である。ガルクラはアニメ放送前から既に10曲がリリースされており、それらが『棘アリ』に収録されているのだが、アニメでは『名もなき何もかも』以外は披露されなかった。しかし、アニメ本編の曲よりややオルタナティブな傾向にあり、売れ線からはやや外れていると思われる楽曲が少なくない。ただ、やはり古典的なロックとは異なるサウンドではあるので、古典的なロックを好む方々が満足できるかは分からない。私が特にお勧めするのは、『理想的パラドクスとは』や『極私的極彩色アンサー』であり、前者は凛として時雨のようなサウンドを楽しめる楽曲で、後者は強い意志をもつ歌詞とベースが際立つ楽曲であり、トゲナシトゲアリの魅力をより深く知ることができるだろう。また、『黎明を穿つ』においては現実の厳しさに対する葛藤が、『運命に賭けたい論理』においては河原木桃香の井芹仁菜に対する思いが赤裸々に語られており、『運命の華』等とも比較しつつ、ガルクラの物語について深く考えるには必要不可欠な楽曲と言えるだろう。『棘アリ』の楽曲は全てフル尺のMVがYouTube上で公開されているため、是非そちらでご覧いただきたい。


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