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経営者と走り続けるデザイナー 池田拓司氏のキャリア【前編】

ReDesigner Magazineは、デザイナーのキャリアにフォーカスしたマガジンです。さまざまな組織で活躍するデザイナーのインタビューや、最新のデザイナー事情についてご紹介します。

今回お話を伺ったのは、デザイナーの池田拓司さん。池田さんは、ニフティ株式会社、はてな株式会社を経てクックパッド株式会社へ入社し、ユーザーファースト推進部長・執行役を務めていました。早くからインターネットに親しみ、インターフェイスデザインの思想に触れてきた池田さんのキャリアから、経営者と走り続けるデザイナーを紐解きます。

お話を伺った人:
池田拓司 TAKUJI IKEDA
ニフティ株式会社、株式会社はてな、クックパッド株式会社のユーザーファースト推進部長・執行役を経て、現在はデザインアンドライフ株式会社 代表取締役 デザイナー / 株式会社トクバイ 取締役。Sassを使ったUI Frameworkの構築、ウェブ・アプリなどサービス全体の設計、ユーザーを向いたデザイナーやサービス開発の組織づくりなども努める。著書に『スマートフォンのためのUIデザイン』など

インターフェイスデザインに触れた大学時代

──本日はよろしくお願いします。まずは、デザイナー歴のスタートから聞いていけたらと思います。池田さんは多摩美術大学のご出身なんですね。

はい。多摩美術大学(以下:多摩美)には、1年浪人して入学しました。受験生の頃は、予備校に入っていたデザイン事務所で名刺を印刷するアルバイトをしたり、日曜絵画教室を手伝ったりしていました。もともと絵が好きだったので、美大進学を決める前は、専門学校に行こうと考えていました。色々と調べている中で「美大というものがあるらしいぞ」ということを知ったという感じでした。

あとは高校の時にパソコンが好きで『PC-9800』をよくやっていたんです。なぜかは覚えてないんですが親に買ってもらって、いつも触っていました。当時お金に無理をして買ってもらったと思っているので、最近は「元が取れてよかった」と親に言っています(笑)。何がきっかけかは覚えていないのですが、すごくラッキーだったと思います。

そんな頃にたまたま、多摩美の二部の卒業制作を見たんです。ハードウェアとソフトウェアを組み合わせた、覗くと昆虫図鑑になっているという作品を見て「すごく面白いな」と感じました。

──その頃からインターネットに触れて、可能性を感じていたのかもしれませんね。

そうですね。当時の多摩美は、コンピュータ環境が良いことを売りにしていたこともあって、自分との親和性があるなと思いました。

入学してからは、美術学部二部デザイン学科プロダクトデザイン専攻に進んだのですが、プロダクトデザイン専攻は、3年生からソフトプロダクトとハードプロダクトに分かれていたんです。珍しいですよね。「ソフトプロダクトなんてものがあるんだ」と思って、僕はソフトプロダクトを専攻しました。

これは、3年生の授業でやったプロトコル分析の資料です。キヤノンのデジカメをユーザーに使わせて、発話データに起こして、「このボタンはこっちにした方がいい」などインターフェイスを改善したりしていました。

この左側半分は、僕のアトリエ時代の作品です。こんなこともやっていたなと思って、持ってきました。

そして「働きたい欲」も強かったので、昼間はとにかくたくさん働き、夕方から大学に通っていました。仕事は大抵、大学の友達経由や掲示板で見つけて、いろいろな仕事を掛け持ちでやっていました。ビルの清掃とかもありましたが、一番長くやっていたのは、テレビ局のテロップを作る仕事でしたね。

たくさん掛け持ちする中で、SONYでアバターチャットのアルバイトもしていました。当時SONYは、インターネット事業として『PAW』という3Dチャットを運営していたんですが、この事業部が次に『Commue』というものを作りはじめたので、そのUIをアルバイトで作ったりもしていました。

卒業後はインターネットに関わると決めていた

──就職先はどのように決めたんですか?

Web制作にも興味があったし、色々なバイトもしていたんですが、やっぱりSONYのインターネットサービスを作るバイトがおもしろかったんです。3Dチャットを作るとか。あとは、お台場にデジタル掲示板みたいなものがあって、ネットで投稿した文字がお台場のカフェに流れるっていうこともSONYがやっていましたね。ライブチャットで話をしていて、自分がネットで打った文字が流れてくる。そんな流れを「すごいなぁ」と思って見ていました。結局、So-netは受けて落ちたので、最終的にニフティに内定をいただきました(笑)。

──インターネットに関わるということは明確に決められていたんですね。

決めていました。僕は大学も二部だったので、昼からアルバイトに行って、大学から帰ってきた夜中から明け方までがインターネットタイムだったこともありますね。

ニフティから、従業員数7人の環境へ転職

──ニフティにはどのくらいの期間いらっしゃったんですか?

3年間在籍しました。ニフティに入社したのが2002年で、ちょうど『Yahoo! BB』が出てきた頃でした。

ニフティにいた時の影響は大きかったです。今もインターネット業界で活躍している目線の高い同期がいて話をして刺激を受けたり、礼儀なども含めて社会人としてのマナーも色々と教わりました。
でも「インターネットサービスをデザインしたい、作りたい」という思い以外には、具体的なキャリアプランはなかったです。確かに身の周りには「この会社を何年でやめる」と公言する人もいました。でも、自分はそういう感じではなかったかなと思います。

──次に行ったのが、はてなですよね。

なんとなく3年経って、そろそろ違う環境でチャレンジしたいなと思いました。僕、今までの会社はどこも3月にやめてるんです。意図したわけではないのですが、新しいことを始めるなら4月からが良いなと考えていたのだと思います。

そのときは、他の制作会社とも迷っていました。ただ、ニフティをやめる理由として、社員はディレクションするという雰囲気があって、手を動かすのが好きな自分に合わなくなっていたことがありました。だから、会社以外で自分でサイトを作ったりしていたんですね。

画像:プライベートで運営してきた沖縄の旅行サイト。MovableType、PHP、Adsenseによるアフィリエイトなど、当時のWeb制作のトレンドを試していた。

ブログにアドセンス、アフィリエイト、APIなど色々な新しい仕組みがでてきていたので「これは儲かりそうだ」「やらないわけにはいかないじゃん」と。それと、手を動かしたかったので、はてなに行きました。 

当時のはてなは東京の、代官山のあたりにありました。ちょうど、京都から東京に出てきて、1年経っていないくらいの頃でした。

──はてなのことは、もともとご存知だったんですか?

検索でよくひっかかるブログや、人力検索はてなを運営する自社サービスをやっている会社といった感じで認識していました。でも、ニフティ時代の同期だった伊藤さんの誘いと、代表の近藤さんとお会いしてみて、サービス開発者としてのプロ意識を感じたことや、サービスについてまっすぐ考えられている姿勢に惹かれたというところがありました。

──今ではスタートアップへの転職も普通のことになってきていますが、大企業からベンチャーに転身する際はどんなことを考えましたか?

転職するときは、人数などの規模感は意識していました。上の層の雰囲気やカルチャーも知りたいという組織的な要素も考えてはいました。インターネット事業会社というのが今のように多かった頃でもまだなかったですが、切磋琢磨できる環境だったので不安はあまりなかったです。

──はてなには何年いらっしゃったんですか?

7年間在籍していたので、色々とやっていましたが、代表の近藤さんと何かをやることが多かったです。新規サービスを作ることが多かったので、任天堂さんとの協業も最初は担当していました。新しいことを色々やる機会を多くいただきました。

画像:はてなが任天堂と共同開発したコミュニティサービス『うごメモはてな』。池田さんがサービス立ち上げ時のアートディレクション、デザインを担当した。

自分の好きなものを作っても、あまりはまらないこともわかってきたのもこの頃でした。原体験として、パソコン通信のようなコミュニティサービスがずっと好きなんですけれども、そういうものばかり作ってもマニアックな方向に行ってしまうと思っていました。なのでちゃんとユーザーを見ないといけないな、という思いも強くなりました。

経営者の意図を汲み、形にする

──経営者と近い距離で働くことに関して、今後の池田さんのキャリアにずっとついてまわると思うのですが、デザイナーとしてどんな心持ちでやっていたのでしょうか。

そうですね。経営者の意図を汲んで、仕事をする機会は今でも多いです。
はてなの時は「IIY」という言葉があって、「池田さんいい感じによろしく」の略称でした(笑)。例えば、HTMLだけで作られたCSSが当たっていないものにCSSを当てるとか。

僕はインターネット業界において技術が重要であるとずっと思っていたのですが、はてなはエンジニアカルチャーが強かったので、どのように自分のポジションを作っていくかが難しかったです。でも、サービスを作る上で欠かせない存在としてデザイナーに意味を持たせていくために、エンジニアに寄り添うことを意識していました。エンジニア間だと、どうしてもCSSを書くなどの作業が宙に浮いてしまうことが多いので、その部分を自分の武器にしていきました。

今でこそデザインドリブンで、Prottでプロトタイプを作ることが当たり前になっていますが、当時はそういうカルチャーはありませんでした。それでも少しずつ、開発のトレンドがデザインを重視したものに変わってきて、その流れで「デザインドリブンでやろう」という機会がいくつかあって、『はてなダイアリー』などのディレクターを担当させていただいた時期もありました。

他にはロゴをリデザインしたり、オフィスの内装をデザインしたりと、サービス以外でも様々なことをやらせていただきました。

画像:現在も使われているはてなのロゴは、池田さんがデザインしたもの。CIの成功例として、デザイン誌に複数取り上げられた。

画像:オフィスフロアの中心にある柱に、京都の風景を描いたことも。柱をある角度から見ると、1枚の絵になっているそう。

──7年間はてなにいて、次の進路は考えられましたか?

長い間はてなにいたので、少し異なる思考のこともやってみたいという思いが出てきた時に考えました。それでクックパッドと他社をもう一社を受けていて、内定までいただいたんですが、クックパッドから内定をいただいた時点で、クックパッドに行こうと決めていました。

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今回は、池田さんの学生時代からデザイナーとしてのファーストキャリア、セカンドキャリアについて伺いました。次回はいよいよ、クックパッドに入社してからの執行役としての経験、現在やっていること、池田さんのデザイナーの定義に踏み込みます。ReDesigner Magazineでは、今後もデザイナーのキャリアにフォーカスした記事をお届けしていきます。お楽しみに!

ReDesignerは、デザイン会社のGoodpatchによるデザイナーに特化したキャリア支援サービスです。UI、UX、インタラクション、プロダクト、サービスなどに関わる全ての人が対象です。デザインの専門知識を持つキャリアデザイナーが、企業とデザイナーの間に立ってサポートします。デザイナーとしてより多くの場所で活躍したい方、キャリアを相談したい方は、ぜひいちどご相談ください!


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