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あれから思うこと



「避難所生活2日目です。
この子の笑顔が、私を救います。
いい子にしてくれてありがとう、
本当にごめんね。」

そう呟かれたツイートには無垢に笑う赤ちゃんの写真、そして必死に生きるお母さんの今にもこぼれ落ちそうな悲しみが詰まっていた。それは画面越しだが、どんなに苦しくても「母親は強くいなければいけない」というような場面。彼女の困惑が隅々まで分かりすぎて、私は同じ母親としてどうにも胸が詰まった。何より悲しかったのは、「いい子にさせる」それが彼女に突きつけられる常識だということ。愛する我が子の泣き声は「迷惑」とされる現実があることだった。日本人は決まって「親子」に優しくない。母親にならないとわからないなんて、想像力の乏しさはピカイチだよ。
良い子って誰のためのものなんだろうね。

ましてやそのツイートのすぐ下には、「避難所では日常的にレイプが起きるから気をつけて。女性は一人で行動しないこと」と信じがたい情報がバズっていた。子供の泣き声も、男の性欲も同じだっていうのか?大人は醜いと思った。私が男だったらそんな卑劣な瞬間を見てしまった時には一目散に助走をつけて殴りかかってしまうに違いない。醜い血を流す大人を殺してしまうかもしれない。

話は逸れたけど。
日々続いていく悲惨な地震のニュースや、人間にうんざりするようなアホらしい失態に、猛烈に虚しくて疲れてしまったんだ。大人とは何だ?良い子とは何だ?正義ってなんだ生死ってなんだ避難所ってなんだ。

そしてそんな理不尽の嵐に頭を垂らし、画面越しにイライラすることしかできない自分が一番ダサかった。どんなに画面を見つめても薄い膜のようなフィルターは何層にも重なりドス黒くなって。自分には見えない世界がそこにあるんだって。私が何を言っても部外者であるに違いないってことさ。

精神が芯まで冷え切った正月だった。

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そうして災害が起きてから三週間。私はあれから何度も考えてわかったことがある。
それは、「頑張らないと」ということだし、自分が自分の足で立つということがこの時代にどれだけ試されていくのかってこと。


ありとあらゆる悲しみには負けなちゃいけないし、今までよりも自分の足で立って、明るい未来を疑っちゃいけないんだ。国に頼れないし、誰も守ってくれないし、いつ何が起きてもおかしくないのであれば、個人は強く生きていかなければいけない。
「自分は自分ですけど何か?」って少しくらい強気な方がいいし、流されるのもエゴで言い倒すのもダメだ。人は傷つけないけど、自分は自分。空気は読むけど、従わない。納得するまで、自分を信じて何度も立ち上がるんだ。そうして、一つ一つの生命力は今まで以上に、偽りのない光を放つことが必要なんだろうと。もう「誰かがこう言ってるから自分も。」とか「周りから浮いてしまうから、やめとこう。」とか、そう言うのは終わりだよ。


それと、こどもたちには
「日本は終わりだ」なんて言わずに「支え合い」の方を見せたいと思ったんだ。大人がみんなが暗い顔して諦めたら、本当に終わっちゃうからだよ。大人が「終わりだ」なんて言ったら、本当に未来はオワっちゃうからだよ。

だからこそ私は何度もそう自分に言い聞かせながらたびたび、募金箱にお金を落とし込んだ。きっとこれからも。
それが今、精一杯の自分のことを情けなく攻めるのはやめて。「それでいい」と呟いて。下を向くのをやめて。

ほんの小さな行動も、言葉も、芸術も、技術も、努力も、それぞれの持つ光は放たれて、行き着く先はすべて幸せであって欲しい。幸せな未来であると信じて。
絶望なんて言ってる暇なんかないと
役に立つんだ。
一秒一秒、自分の足で立って
下手くそで大声で歌おう

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