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ショートショート 『落ちる』

今日こそは彼女にこの想いを伝えると決めていた。1週間も前から決めていた。僕の知らない間に、彼女の唇を奪った奴がいると知った以上、これ以上黙ってそれを容認しているわけにいかなかった。

いつものように彼女の部屋で過ごす2時間が過ぎて、僕はもう覚悟を決めていた。僕がいくらか緊張していたからか、彼女はだいぶ前から落ち着かない様子だった。

僕の表情を必要以上に気にしては、ちらちらと僕の顔を見、いつもより余分にどうでもいいような話を一人で展開した。

次第に彼女はいつもと何かが違う僕に対してイライラし始め、とうとう立ち上がって怒りを露に僕を見下ろした。

「ねえ、もう今日は帰ってよ、一体何だっていうの?」と言った。彼女に「帰れ」と言われることは予定になかったから、僕は些か焦ってもっと予定になかったことを言ってしまった。「嫌だ。君はこれから3時間以内に僕と恋に落ちる予定なんだから」。

僕は自分のセリフにびっくりしたが、彼女はもっとびっくりしたみたいだった。大きな目を更に大きくして何度か瞬きをし、口は何か言いかけるように僅かに動いていた。

彼女はしばらく僕の顔をまじまじと見つめていたが、やがてゆっくりまた床に座り直し、真正面から僕と目を合わせた。二人とも身じろぎもしなかった。

僕にとっては永遠とも思える時間が過ぎ、その間僕も彼女も一瞬もお互いから目を逸らさなかった。

そしてようやく、僕がよっぽど「なんてな、冗談に決まってるだろ」と言おうかと思った頃にようやく、彼女は至って落ち着いて口を開いた。「……もう落ちてるけど」。僕は手に持ったままだったビスケットを落とした。

#クリエイターフェス

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