見出し画像

しかし看護できない患者はいない

現代の医学では、治せないという病気も、
たくさんある。

その方が、実は多い。

というか、
忘れておきたい現実ですが、
身体という病?は、
致死率100パーセント。

それは、ネガティブなことでも、
悲劇でもなく、まぎれもない自然そのもの。

でも、現代医学による治療法ができて、
治せるという考えが出てきた。
ひととき避けれる可能性が出てきた。

そして、
治せる病ができるということは、
治せる病の方ではないという状況も生まれる。

どうして治せないのか、という、
あきらめのつかない想いが、
また、新たに生み出される。

なんとか避けれる方法はないのかと、悩み、
避けれる方法はなかったかと、後悔する。


だから、不思議なことに、
医療が発展して、
病院で診れる病気が一つ増えると、

一方で、治らない、と悩む人の数が増え、
治らない、という苦悩が増えてしまう。

あきらめがつかない想い。

下手したら、
これは病気そのものよりももっともっと苦しい。
自然界にはない、新種の病。

医療はもちろん進歩して欲しいけど、
悩み苦しみが増えてしまうという、
なんじゃこれ現象。


心療内科/精神科では、

うつはこころの風邪、早く病院に行きましょう、
ストレスは放っておかずに、治しましょう、
的な、スローガンで、

心療内科に来て、なんとも端切れの悪い対応しかできないことに、
がっかりされる患者さんに、よく出会う。

人類が自然現象を制御できるという過剰な万能感の中にいることを、
また、思い出さされる。

内科や外科疾患のように、
スパッと数値化して、データに基づいて決定される、
デジタルに治療ガイドラインが確立された、
割り切った医療が提供できるのは、
まだまだ、未来のことのようだ。

割り切れない想い、
あきらめがつかない想い、が、
増殖して渦巻いている。

病という事態に対して、
治療を求める側も、治療する側も、
つい忘れてしまいがちな、、
何かがある気がする。


「看護できない患者はいない」
という、中井久夫先生のことばを思い出した。

精神医療では、診断や治療がまだまだ発展途上なぶん、
治療というより、看護やケアの視点に近いのだと思う。

精神科医の大家が書かれた、
看護学の教科書の、有名な一節。

看護という職業は,医者よりもはるかに古く,
はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。

医者が治せる患者は少ない。
しかし看護できない患者はいない。
息を引き取るまで,看護だけはできるのだ。

病気の診断がつく患者も,思うほど多くない。
診断がつかないとき,医者は困る。
あせる。
あせらないほうがよいと思うが,やはり,あせる。

しかし,看護は,診断をこえたものである。

「病める人であること」
「生きるうえで心身の不自由な人」

──看護にとってそれでほとんど十分なのである。

「看護としての精神医学」(医学書院)中井久夫著 より抜粋


医者も患者も、医師アタマになって、
診断と治療を求めがちだけど、

私たちは、ほんとは、看て欲しいはずなのに、
診て欲しいと、勘違いしてしまっている。

自然から離れてしまったものを、
自然に返していくのも、
医療者が裏テーマとして担っている役割かな、
と思ったのでした。
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?