自己紹介_なんで私が危機管理広報の専門家に!?

まずは懺悔から。もう数年ほど前の話になる。
私は、ある飲食業の企業から業務委託を受けて広報を支援する仕事を生業としていた。ある日、その企業の店舗で食中毒が起きた。
私はその時、何を思ったか。
いま振り返っても、自分の発想とも思えない。
なるべく食中毒の被害の大きさを小さく見せるにはどうすればいいのか。
被害者の数を、2桁ではなく1桁にして発表するには、どうすればいいのか――。
そんなことを考え始めたのだ。

はっと我に返り、そんな隠ぺいがかえって企業価値を損なうという当たり前の事実に思いが至って実行には移さなかったのは本当に幸いだった。そんなことに手を染めていたら、いま、危機管理広報の専門家を名乗ることなんてできていなかっただろう。

ここで言いたいのは、私が賢明にも隠ぺいに手を染めなかったということではない。知っておいていただきたいのは、「危機」というものが、いかに人間の思考から冷静さを奪い、誤った行動を取らせようとするかということだ。

もっと卑近な例で言えば、取引先との大切な約束に遅れてしまいそうな時、あと15分はかかるのに「10分くらいで着きます」と言ってしまう。冷静に考えれば、10分で着くと言ってさらに遅れれば傷が深くことは分かるはずなのに。そんな経験は誰にでもあるはずだ。

不祥事を起こした企業の記者会見を見て、多くの良識ある人は眉を顰める。

「最後まで隠し通せると思ったのか」
「被害者への謝罪より、保身を優先している」
「逆切れでみっともない」

ごもっともだと思う。だが、あれこそが危機にある人間の姿なのだ。
もちろん根っから悪質な体質の企業や経営者もあるだろう。けれど、不祥事を起こして火に油を注いでしまう大半の企業は、他と比べて特別に悪意が強かったり、非道な行動が多かったりするわけではない。もちろん不祥事や事故には原因がある。落ち度がなかったとは言わない。だが、そうした弱みを持っている部分も含めて、ほとんどは普通の会社であり、普通の人たちなのだ。
その普通の人たちが、起きてしまった不祥事をめぐる対応によって、本来、その不祥事で負うべき以上に傷口を自ら広げてしまう。
平時には良識人なのに考えられないような稚拙な嘘をつこうとし、普段はシビアな現実主義者なのに隠しきれるはずという希望的観測にすがろうとする。

なぜかと思われるかもしれないが、近年の研究により、危機にあっては人間のIQ(知能指数)が低下するということが証明されている。要は、人間の脳は、どうやら危機対応を苦手としているようなのだ。これはおそらく、野性において、危機に遭ったら冷静な判断や理屈などを抜きにして瞬発的に対応することが生存確率を上げることがもたらした進化の結果だろう。現代の企業社会はサバンナではないのに、私たちはその脳のつくりによって行動を誤ってしまう。

およそ人間である限り、この誰にとっても付き合うのが難しい「危機」というものと、どう向き合うべきか。私の仕事の原点は、この問いにある。


私も広報業界はそれなりに長いが、初めから危機管理に関心を持っていたわけではない。
冒頭に書いたように、当初は、よくある「インハウス広報」(企業の社員として、または企業から業務委託を受けるなどして、企業の中で広報業務を担うこと)を生業としていた。当時の成果は、パブリシティの獲得。企業が発信したい良いニュースを記事にしてもらう、電波に乗せてもらうために日々奮闘していた。

インハウス広報という仕事柄、経営層から現場まで、会社のあらゆる人たちと接する機会があった。一方で、社外に向けてコミュニケーションを設計する仕事なので、その会社には染まりきらずに、会社の風土や構造を客観視できる立場でもあった。
だからだろうと思うのだが、広報業務の経験を積む中で、次第に、企業組織が抱えるひずみを肌感覚で感じるようになってきた。

例えば、私がインハウス広報としてお世話になった会社に、辣腕オーナー社長がすべてを決めるところがあった。この社長はほれぼれするほどセンスが素晴らしく、イノベーティブなチャレンジを次々繰り出すので、情報発信のネタには事欠かなかった。

しかし、次第に、不安になってきた。社長一人がワンマンとしてすべてを切り盛りし、社員は社長の機嫌を損ねまいということに専念しているこの会社で不祥事や予期せぬ事故が起きたらどうなるだろう。
この組織風土にどっぷり漬かった社員たちは、社会に対する責任よりも、社長の機嫌を損ねないということを優先してしまうのではないか。正しい情報が正しいタイミングで社長に上がらないのではないか。あるいは、オーナー社長が、わが子のように愛している会社を守ろうとするあまりに手を染める隠ぺいや虚言を、誰も諫められないのではないか――。

企業が発信したい情報を扱うだけであれば、ひずみなんて関係ない。いいところだけ出せばいいのだから。でも、ひとたび予期せぬ事故や不祥事が起きたらどうなるか、と「危機」を想像すると、企業が抱えているひずみ――潜在的な脆弱性が浮かび上がってくる。なにせ、冒頭に書いたように、危機は人間の能力を通常よりも低下させる。普段、取り繕ってかろうじてうまくいっていたものも、まともに稼働しなくなるのだから。
パブリシティ獲得による企業価値の向上も大事だが、この潜在的に企業が抱えるリスクを回避することによって失われる可能性のある企業価値を守ることも「広報」の大事な機能なのではないか。

そんな思いが、今の私の仕事に繋がっていく。

私はまず、そのオーナー社長に直談判して、危機管理に関する研修プログラムを試験的に導入してもらった。
数人の参加者にリスク・マネジメントの基礎を座学で学んでもらい、自分たちが抱えているリスクを洗い出してもらう作業などを実践してもらった。手応えを感じたので、少しずつ内容をブラッシュアップさせながら、同様の研修をほかの企業にも導入していった。

「まず起きないから」「これまで大丈夫だったから」と目を背けてきた潜在的なリスクの数々を机の上に並べてもらうと、参加者たちは、いかに自分たちの事業が薄氷の幸運の上に成り立っているかを実感することになる。
積み上げてきた信用が吹き飛ぶような不祥事に見舞われて悲壮な姿をさらしている企業の姿は対岸の火事ではなく、自分たちの足元にも、いつ火が付いてもおかしくないリスクが無数に転がっていることに気づくのだ。

この感覚がとても大事なのだと思う。
リスクの種をつぶしていく努力は怠るべきではない。しかし、断言してもいいが、リスクの種は根絶させることはまずできない。そして、私たちの想定を超えて、しかも無数に潜んでいる。
だからこそ、個別のケースをシミュレーションして備えるような「危機対応」だけでは、危機への備えとして不十分なのだ。まず、危機にいたる原因は千差万別で、ケースで学ぶには再現性が乏しい。また、単純な対応マニュアルは、危機が想定を超えたときに形骸化し、むしろそのマニュアルに縛られることで対応を誤らせる。危機はしばしば想定を超えるし、想定を超えるからこそ危機なのにも関わらず、だ。

私が研修を通じて考えてもらうのは、リスクが顕在化したときに、自分たちが守らなければならない最も大切なものはなにか、絶対にやってはいけないことはなにか、その原則を守るために組織はどうあるべきか、もっと言えば、リスクを結実させないために組織風土をどう変えていくべきか、など。つまり、危機を捻じ伏せてやり過ごす方法ではなく、組織として危機をどう向き合うべきかという「危機管理」なのだ。

同時にそれは、矛盾するようだが、社会やステークホルダーに対するコミュニケーションというアクションに落とし込むかたちの具体論に結び付けなければならないと思っている。そうでないと、観念的な抽象論や心構えに終始してしまうからだ。だから私は教条的な「危機対応」ではなく、観念的な「危機管理」でもなく、「危機管理」に「広報」という言葉を組み合わせて「危機管理広報」という言葉を使っている。

効果も実証された。
その後も数社で地道に研修を進めていたが、そのうちの1社が危機的な状況に立たされた。世の中に対して覆い隠したくなるような不祥事だったが、迅速な事実関係の確認、社内でのスムーズな情報共有、明確な方針決定、そして社会に対する必要十分な情報開示と再発防止策の提示など、見事な対応を見せてくれた。
社内には情報開示に反対する抵抗勢力も現れたが、それも乗り越えて勇気を出して情報を開示したら世の中からよいフィードバックが受けられることも分かった。
骨太の企業風土ができあがっていれば、危機にあっても揺らがず対応を決められる。危機にあっては人間はまともな判断ができなくなる、ということをあらかじめ知ったうえで危機下のガバナンスを設計しておくことで、火に油を注ぐような拙い対応を避けられる。
本来、企業価値を大きく損なうはずだったところ、そのダメージを軽減できたり、場合によっては危機対応を通じて社会からの信頼を勝ち取って、中長期的には企業価値を上げられたりすることすらある。そんな研修の効果を確信できた出来事だった。

研修から、思わぬ副産物が生まれることもわかった。
リスクは、その不顕性――あるかどうか分からない、見えない性質によって人を不安にさせる。そうしたリスクを洗い出して可視化する作業を重ねることで、社員たちの心理的安全性が高まり、通常業務のパフォーマンスも向上するという効果が見られた。
また、研修では、経営層から若手社員まで様々な階層が集まり、誰にとっても向き合いたくない「危機」を想像しながら企業価値や企業理念の根本から語り合うことになるため、上層部と現場との間にあるコミュニケーション不全が解消され、会社としての一体感を醸成するという効果もあった。

私は危機管理広報という分野の魅力に取りつかれ、やがて夢中になった。
熱中すると脇目も振らないギークな性格も手伝って、寝ても覚めても危機管理広報について考え、調べるようになった。何しろ、私にとっては面白いので苦にならない。
今や、日本でこの分野で最も多くの研修を担っている専門家という立場になった。おかげさまで支援先の企業数は増え続け、その実績がまたメソッド全体のレベルを引き上げてくれている。
また、米国などで発達する危機管理広報心理学(そんな専門分野があるんです!)の文献を取り寄せては貪るように読み、その先進性に感動していたが、やがて日本の危機管理広報の水準を引き上げなければと本気で思うようになった。各界の第一人者を招聘して危機管理について学ぶ機会を提供するために一般社団法人リスクコミュニケーション協会を立ち上げたのも、そんな思いがきっかけだった。

人間は間違う。人間が織りなす企業も間違う。
間違わないような仕組みを作り続け、あるいは間違わないように学び続けなければならないのは確かだが、それだけでなく、自分たちが間違う存在だということと正しく向き合うことも必要ではないか。これが危機管理広報の最も根幹にある問題意識だ。

間違いを認められるか。隠さずに伝えられるか。次に間違えないための方針を打ち出せるか。危機の中で、そうした正しいコミュニケーションを取れるような組織にしていくことを私はいつも目指している。多くの場合、発生した負の出来事そのものによるダメージよりも、そうした正しいコミュニケーションが取れなかったことによってより大きく企業価値を損なっている。まずこの損失をなくすことだ。

加えて、最後に強調したいのは、危機にあっても正しいコミュニケーションができれば、その姿勢は必ず社会に響くということだ。被害を受けた方がいるようなケースもあり、不祥事で売名するような安っぽい「ピンチはチャンス」論に与することはできないが、結果として、危機は良くも悪くも企業の姿勢を社会に示す大きな機会でもある。

短期的な批判の波風が消えた後、ただ傷だけが残るのか、あるいは危機対応の中で再生の糸口を見いだせるのか。後者だとしたら、危機の中で企業が見せた真摯なリスクコミュニケーションが社会にもたらした波紋は、消えることなく静かに広がり、いずれ企業価値の回復にとって力になってくれるはずだ。


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