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5月23日(月)なぜ、らいざは多くの本を読むのかの話#101

みなさん、(おはようございます。)(こんにちは。)(こんばんは。)

昨日の記事で、連続100日更新を達成した、ご存じ『教育系筋肉note執筆家のらいざ』です!(今、命名w)

いつも読んでくださっている読者の皆さんの中には、『100日を達成後、おそらくノリに乗ってるので、ここかららいざは、ますます良記事を書んじゃないか?』と期待してくれているかもしれません。。。

(え?期待してなんてしてない?)

(いやいや、してるでしょ!)※決めつけ笑

しかし、すみません!!

今週は少し違ったところにアウトプットの時間を割きたいと思うので、今週いっぱいは、短めの記事になると思います。

だからと言って、見放さないでください!!

またキレッキレで戻ってきますので!

(謎の宣言w)

というわけで、今日のタイトルは

『なぜ、らいざは多くの本を読むのかの話』

です。

ボクのTwitterを見てくださる方は分かると思うのですが、実は多読家なんですね。

(ま、速読能力がそれを可能にもしてくれてるのですが)

2022年の元旦に『教団X』を読み始めて、スタートした♯らいざ読書記録ですが、現在までで合計150冊読んでいます。

このツリーを遡っていくと、2022年に読んだ本がずらっと連なっています。(途中で切れてて、引用RTで繋げてるところもありますが)

スタートのツイートはこちらね↓

実は2021年も300冊を超える本を読みました。

2020年は250冊。

※これは自慢ですw

では、なぜここまで多くの本を読むのか?


理由は三つあります。

①楽しいから

②知識が増えるから

③自分や世界の解像度が上がるから

これらです。

①②の理由は飛ばしましょう。

そのままの意味ですからね。

今日の記事でメインで書きたいのが③です。

『自分や世界の解像度が上がるから』


①②とも繋がる部分があるのですが、本を読むことによって、今まで見えなかった、もしくは、ぼやけていた自分や世界に対する見え方がハッキリしていくんですね。

やはり自分は、まだまだ知らないことだらけです。それは世界はおろか、自分自分のことすらも分かってないし、見えていないと思っています。

分かっていないし、見えていない中で、何を成し遂げられるでしょうか?

全てが見える、そして理解するなんて到底無理なことですが、そこに向かっていくことで人生を豊かに過ごせるようにもなると思っています。(現在地を知れる)

そのための方法の一つが、

たくさんの本を読むことなんです。


本を読むことで、知らなかったことが少しずつクリアになっていくことがあって、それがワクワクするし、アクションにも繋がるんですよね。

このワクワクは、①の楽しいとも同じ意味ですし、知識が増えるからこそクリアになっていくのは②とも関係しています。

たしかに、

本を読むことでの限界もあるでしょう。


でも、それは読んで終わりにした場合であって、

読んだことを何かしらのアクションに繋げていくことを前提とすれば、読書の可能性は、まだまだ広げられる

と思っています。

さらに、仕事のスキルが増えるとかの役に立つというところを抜きにして、娯楽として読むことも時々は意識しています。

例えば、小説を読むことで、直接的な知識は得られずとも、気分転換になり、それがまた行動のエネルギーになることもあるんです。

さらにヴィトゲンシュタインの考え方に、

『言語の限界が思考の限界である』

とあります。

ま、要するに言語で表せないことは、思考できない、つまり考えることはできないと、これまでの哲学の問題について語ってるわけなんですが、

逆に考えると、言語で表せること、つまり書籍になって言語化されていることに関しては、自分の中で思考できる可能性、理解できる可能性があるということなんですね。

この考え方を自分を知って、さらに本を読む意欲が湧きました。

まだまだ読みたい本あるし、その読みたい本だけでも一生かかっても読み切れないんでしょうが、読書は今後も長く続けて、自分の視界をクリアにしていけたらと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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