オレンジに溺れたふたり【エピローグ】
―ここ最近なのだが、毎晩同じ夢を見る。
約20年前に好きだった人との思い出と、もう二度と会えないかと思いきや同窓会で再会しめでたく結ばれる、そんな懐かしくて甘くてちょっとだけ寂しい夢。
全てにオレンジ色のフィルターがかかっているからより切なさを際立たせる。
―涙を拭いていつもの朝が始まる。
そうだ。私は未だに未練たらたらで次の恋に進めないでいる。先日ついに母から
「あんたもう35になるけどいい人いないの?」
と言われた。その問いに対して
「今は仕事が恋人だから。」
とか格好つけて返してみたが、実際はこのザマである。
いい方はかなり悪いが、いくらお世話になったからと言っても約20年前からずっとメタボっぽいお腹で不潔なおじさんに片想いしているなんて言えるわけがない。
せっせと身支度をし、さて仕事に行こうと玄関に向かう途中気づく。
「あ、マスクマスク。」
このマスクを着けて外に出かけるのはいつまで続くのだろうか。
あの頃はこんなことになるなんて思ってもいなかったのに。
職場に着く前に近くの屋外喫煙所で缶コーヒーをお供にタバコを吸う。
確証はできないが色々試した結果、これが一番近かった。あの人と同じであろう銘柄。
結構きついが、煙を吸い込んで目を閉じるとあの人が近くにいるような気がする。
――
「先生、次の患者さん呼んでよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
私は現在、駅前のあんずメンタルクリニックで心療内科医として働いている。
平日にも関わらず、今日もたくさんの患者さんと話をした。
3件ほど病院受診を勧めたケースもあった。
そんな慌ただしい1日も終わろうとしている。
PM16:30
「こちらの患者さんはノベルメンタルクリニックからの紹介の方です。紹介状です。」
「ほー。」
今日最後の患者さんだ。
―紹介状を見た瞬間、思わず声が漏れてしまった。
コンコンッ
「どうぞー。」
「よろしくお願いします。」
中年の男性が入ってきた。マスクをしていて目元しか見えない。えっと…50歳か。
「どうぞおかけになってください。ノベルメンタルクリニックさんからの紹介ですね。では、少し詳しくお話を聞かせてください。途中辛くなったら休憩を挟んでいいので。」
「妻からの精神的DVがすごくて。一番辛いのは運動と称した…性行為です。妻はとにかく性欲が強くて……」
「それは辛かったですね。」
「でも私、好きな人がいるんです。」
「…ん?それはその人に会ったりしている?」
「いえ、相手は中学校時代のその…教え子でして。卒業以来会っていないんですが忘れられなくて…」
それから彼はこれまでのことをありのままに話した。
中学校時代の教え子の成長を見守るうちに彼女に恋心を抱いており、何度も自分の理性と立場の狭間で葛藤していたこと。
奥さんとの性行為中は教え子が成長した姿を思い浮かべながら罪悪感を抱きつつも快感を覚えていたこと。
そしてここ最近毎晩のように彼女との思い出と共に、同窓会で再会し心も体も結ばれるという夢を見て、現実に戻るととてつもない絶望感に襲われるのだという。
「…先生、私って変ですよね?変態ですよね?」
正直にいうと、この時ばかりはマスクがあってよかったと思った。
「変じゃないですよ、想像する分には。犯罪さえ犯さなければね。」
「そっか…。」
「今はご家庭ではどのように過ごされていますか。」
「平日は仕事であまり顔を合わさなくて済むんですが、休みの前日や当日はほぼ妻が主導権を握ってます。離婚話を切り出してからは特に酷くなりました。」
「離婚したいことを伝えているんですね。」
「…できるものなら一刻も早く離婚したいです。実は病院に通っているのも内緒にしてて。薬は学校のデスクに鍵をかけて保管しててこっそり飲んでました…。」
「おっと志賀さん。とりあえずお薬の管理を見直しましょうか。自分の手元に置いておかないと。」
「すみません。もう私、とにかく限界で…。」
終始猫背の彼は今にも泣き出しそうな顔をしている。
体型はそのままだが顔色が悪く、過去の記憶や夢の中で杉田たちにちょっかい出されてガハハハ笑っていた彼の面影はなかった。
『…っ!す、すまん!』
こんなことになるなら、あの時とっさに離した手を無理矢理にでも捕まえて一緒にどこか遠くに逃げてしまえばよかった。
「……。」
彼は窓の方をゆっくり見てからうつむき、黙りこんでしまった。
「あ、綺麗な夕日。ちょっと窓小さいけど見えます?」
「はい。何か懐かしいな…。」
その瞬間、診察室が教室に変わって…いるような感覚に見舞われた。
「……あの、お久しぶりです。こんなところで言うのもあれですが。」
「…目元が少し似ているなと思ってたけど。えぇ…何というか気まずいな。あ、ごめんなさい…。今は大山"先生"ですね。いやぁ心療内科の先生になっているとは…。」
「いえいえ、いいんです。逃げ場がないならいつでも頼ってください。」
私はあなたのおかげでここまで来れた。
あなたが背中を押してくれなかったらきっと私はこの場にいなかったであろう。
「あ、あああのさっきのは忘れてください。引いたよな…。」
「何を今さら。カルテは変えられませんし、消しても頭に全てインプットしてありますから。」
「えぇ…そんな…。勘弁してくれよ…。」
「ただ、次回から担当医師を木口に変更します。デリケートな問題もありますし、何より私が関わっています。今日は研修で不在ですが、引き継ぎをしますので。堅苦しくなくてとても話しやすい先生ですよ。白衣着ないし。」
木口達郎は同じくあんずクリニックの院長で私が尊敬する上司だ。
院長先生じゃないと嫌だ!という患者さんも少なくない。その度に私やもう1人の医師はほんのちょっと傷つくのだが。
「はい…これからもよろしくお願いします。」
「…志賀先生、あなたは決して1人じゃないってこと忘れないでください。ゆっくり焦らずに。」
「大山…ありがとな。」
「まぁ、ぶっちゃけ私は嬉しかったですよ。」
「え…。」
視線同士が絡み合う。ほんの数秒だが色々な感情があふれ、溺れたように息ができない。涙が溢れそうだ。
気がつくと診察室は夕日でオレンジ色に染まっていた。
「…ふふっ。何か変ですね。はい、手を出してください。」
「ん?こ、こうか?」
私は顔が真っ赤になった先生の手を優しく両手で包み込んだ。
「先生、今度は私があなたを支える存在になりたいです。いえ、なってみせます。」
先生は温かく優しい目で静かに頷いた。
私は席を立って先生の目の前に立った。次から私はこの人と直接関われなくなる。
「…えぇ!?ちょっ!」
私は先生の上に乗っかり口で口を塞いだ。水玉模様のパンツが見えていようが今はどうでもいい。
「…怖いですか?」
先生も最初は断固として動かなかったが、震える手で頬に触れ先生は
「これは…夢…だよな?」
夢とか現実とかそんなのどうでもいい。
「どっちでしょうかね。」
私は先生の加齢臭漂う耳たぶを噛んだ。
「…っ!」
時計をチラッと見てから診療終了時間が来るまで、先生と一緒に溺れた。
熱を帯びた赤に近いオレンジ色の視線を交わしながら。
あぁ、うまく息ができない。
―終わり―
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