オレンジに溺れたふたり【第2章 第1話 呪縛】
↓第1章 第1話 (大山才子SIDE)
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第2章 第1話 呪縛
「いただきまーす。」
テーブルには色とりどりの朝食が並んでいる。
「ねぇ光彦さん。来週の土曜さ、人参岳に登ってみない?仕事もないって言ってたでしょ?」
妻がきんぴらごぼうに箸をつけながら聞いてきた。
「あー、来週か。教え子から同窓会に誘われてるから行っていい?今の勤務先をネットで調べたのかご丁寧に学校に手紙が来てさ。」
「…そうなんだぁ。楽しんできてねぇ。」
言葉には出さないがあからさまに不機嫌になった。
バリッボリッ。
きんぴらごぼうの咀嚼音が心なしか大きく感じる。自分の思い通りにならないといつもこんな感じだ。
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妻の菜摘とはお見合い結婚だった。俺が39歳になったと同時に母が1枚の写真を持って一人暮らしをしているアパートにやって来た。
「誰だよ?」
着物を着て微笑む同い年くらいの女性。
「生け花教室で仲良くなった中原さんの娘さん。あんたと同い年なのよ。職業は栄養士ですって。」
「また見合い…嫌です。結婚はしません!」
「あのね、もうあんた40になるでしょ?いい加減結婚しなさい。今回はもうセッティングしてあるから。あちらも会いたいって言ってくださってるの。こんなあんたでもね。」
「はっあぁ!?勝手に決めるなよ!」
「文句は自己管理できるようになってから言ってちょうだい!部屋もきったないし、そのお腹は何よ?」
「うっ…!」
「私はあんたが体を壊さないか心配で言ってんの。ただでさえ体に負担がかかる仕事なのに。」
いや、そうだけれども。
「一生のお願いよ…もっと体を大切にしてよぉ…。私はあんたが心配で心配で…も〜う心配で心配で…。」
と最終的に泣き始めた。
母ももう70代だ。そろそろ安心させてやらないといけないのかな。会う度に結婚結婚言われるのもしんどくなってきたし。
「ぬぁー!分かったよ!」
いつまでも過去の事に囚われずに前に進むしかないのか。
なんて考えているうちにトントン拍子に事が進んでいった。
『温かな家庭を築けるよう頑張って参ります。』
結婚式にて数百人の前で宣言し、結婚生活がスタートした。
妻は栄養士と言う事もあり、栄養バランスを考えた食事を作る。初めて妻の料理を口にした時、給食以外は油っこいコンビニ弁当などで済ませていた俺の胃袋はさぞ喜んだことであろう。
しかし、疲れがピークに達した時はこってりした物が食べたくなる。
―そのことがきっかけで俺たちの夫婦関係に大きな変化が起きた。
ことの発端はある日の深夜。腹が減ったのでカップ麺を食べ、その後ベランダで缶コーヒーをお供にタバコを吸っていた。
「あぁー生き返るわ…。」
この組み合わせは最高の極みである。幸せを噛み締めていると後ろから
「何…してんの?」
震えながら鬼の形相をしている妻がいた。今まででそのような妻を見たことがなかったため恐怖しかなかった。タバコを奪われ中に連れ戻され
「そこに正座して。」
それからは深夜の説教が始まった。足の痺れと眠気でほとんど覚えていないが。
結果、以下のルールが出来上がった。
・ジャンクフード類は禁止。
・夜食は手作りの物。
・タバコ禁止。酒はたしなむ程度。
・最低週に1回は30〜1時間運動する。
妻は冷蔵庫にそれらを書いた紙が貼り
「一緒に頑張ろうね!」
と言いながらほほ笑んだ。その日から俺は妻の操り人形となった。
夫婦の営みも本当は苦痛だった。妻はとにかく性欲が強い。獣のようになった妻を見てると疲れてくる。
そのため常に目を閉じている。
目を閉じると脳裏に浮かぶのは夕日に照らされたオレンジ色の教室。
その中で夕日に照らされたツヤツヤの髪。雪のように白い肌。シャーペンを走らせる細い手首。時折り動く長いまつ毛。
そして…少し茶色がかった瞳。それらの持ち主。
俺には忘れられない人がいる。
―大山才子、俺が昔ずっと好きだった教え子だ。彼女は15歳、俺は30歳だった。
当時の教え子、杉田信也から同窓会の案内の手紙が来た時は心が舞い上がった。
28歳になった大山に会えるかもしれないと。そのためなら…頑張れる。
獣の声は聞こえないふりをし、これは大人になった大山だと考えるとすごく興奮した。
「はっあ!何で!耳を塞ぐのっ?ねぇってば…ひゃっ…!!はぁぁぁぁぁ!いぃっ!」
うるさい獣を思いきり一突きした。それでも聞こえてくる汚いノイズ。
あぁ邪魔だ。
これは大山。意識を全集中させた。俺は変態極まりない、最低野郎だ。
――
―いよいよ同窓会当日がやって来た。
「先生。自然な流れで紹介しますからね。サプライズとか言わないので。全然緊張する必要ないですからねっ。俺がちゃんとフォローします。」「あぁ、ありがとな杉…」
「はぁーい!みんな注目!何と今日はですね…サプライズゲストを用意してまーす。ではではどうぞ!」
『こいつ…。』
お調子者の杉田はやはり相変わらずであった。普通に最初から座らせてくれよ。
「ど、どうもー皆さんお久しぶりです!」
目の前には懐かしい顔触れ。当時とあまり変わらない者や年相応の見た目になっている者、体格がガラッと変わっている者。それでも面影はあって名前は全員覚えている。
しかし当の教え子たちは「…誰?」という反応だ。少しだけ寂しくなった。
すると、中心的なグループにいた末永美咲が口に手を当てながら叫んだ。
「もしかして志賀セン!?」
一気に会場はどよめき、すぐさま周りに教え子たちが集まった。
「先生ー!今日はマジでありがとうございます!」
今回の幹事である杉田がやって来た。さっきはよくも…まぁいいか。
「おぉ。びっくりしたぞー。学校にいきなり手紙来て一瞬誰?って思ったわ!」
「てか返事来るの遅すぎっすよ。毎日ポスト覗いて、まだかなまだかなーって。まるで恋する乙女になった気持ちになった気分でしたわ。」
「忙しかったんだよ色々。」
「あぁ、分かります。俺、実は中学の教師で数学教えてます。部活の顧問もしてるし毎日忙しいですよね。」
坂本大樹が話に入ってきた。こいつはクラスで一番のハンサムで女子から人気があった。
「マジか!お前理系強かったもんな!」
「いつか一緒に働けたら良いな。まぁその頃には先生は教頭か校長になってるかもだけど。」
「だよなぁ、年がな…。」
俺と坂本が一緒に働く未来があるのだろうか。少なくともタイムリミットは今の現状では後17年。短いようであっという間だ。
ふと離れの席で1人お酒をちまちま飲んでいる女性に目が止まった。
化粧をしているせいかあの頃よりも断然大人びた顔つきになっている。想像していたよりもずっと綺麗で色気すら感じる。
―大山才子だ。
物凄い罪悪感に襲われた。
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「お久しぶりです。覚えてますか?」
杉田たちがそれぞれの友人との談笑に励み出した所、大山が俺の席に来てコップにビールを注いでくれた。
「おー!大山じゃないか。久しぶりだな。元気だったか?」
シャンプーのような香りがほのかに漂う。いきなり眼中に現れたので心臓が跳ね上がった。
俺の左手をチラッと見た大山は
「はい…あ、結婚されたんですね。おめでとうございます。では。」
しまった、と思った。いや、何で隠す必要がある?事実だから仕方ないではないか。
大山は微笑んで一礼し、すぐに末永たちのいる席へ戻った。
…もう行ってしまうのか?気のせいか俺を避けているような気がする。
やっぱりあの時、何もかもを捨てる覚悟で殻を破れば良かった。
――
「あのブヨブヨお腹はどこに行ったんすか!」
妻はあの一件以来更に健康に対して更に口うるさくなった。
休日は一緒にウォーキングや山登りをする。本当は好きな映画を観てダラダラしたり、ゆっくり寝たいのに。妻にとっては充実はした結婚生活であろう。
「奥さんのどこが好きですか?てか夜はうまくいってますか?」
今は土曜の夜が、怖い。妻がよだれを垂らした獣に変わるあの苦痛な時間。それを乗りきるためにあんな最低な事を。
自然と目線があっちに行く。
目が合ったが大山はパッと目を伏せた。長いまつ毛がパチパチ動いている。化粧はしているがあの頃と変わらず雪のように白い肌と細い手首、サラサラな黒髪。
これは世の男たちは放っておけないだろう。恋人はいるのだろうか。
「カンパ〜イ。今、先生何歳なのぉ?」
大山の隣から移動してきた末永が既に出来上がった状態で聞いてきた。
「あー、もう43になったぞ。あん時はまだ30だったのに。」
「奥さんとの出会いを教えて〜。」
「あー…。」
――
お見合いの当日、妻は写真よりも美人に見えた。最初に述べたように俺には女性経験がなかったため、2人きりになった時は何を話せば良いのか分からなかった。
「えっと…中原さん…でしたっけ。良い天気ですね。」
「ふふ、菜摘さんで良いですよ。こんな風に天気が良いと気分が上がりますよね。私は朝は起きたらまず窓を開けて空気の入れ替えをしているんです。すると気持ちがシャキッとするんですよ。それからちょっと散歩して朝ご飯はしっかり食べて…私とにかく朝が一番好きなんです。そして…」
第一印象はベラベラ話す女だな。価値観を押し付けられそうで正直苦手なタイプだ。
「へ!へぇ。私は仕事が忙しくてそんな暇ないですね!ギリギリまで寝ていたいタイプで。何年も換気なんてしてないや。がははは!」
わざと嫌われる回答をした。しかし妻は
「じゃあ、私がそばで支えます。光彦さんの事、ひと目見て好きになりました。何と言うか母性をくすぐられるというか、守ってあげたい。2人で支え合って温かな家庭を築きませんか。」
「えっ!俺は…あ。」
遠くで双方の親がニヤニヤしながら見守っているのが見えた。
「おぉっ!いけ!」
「よく言ったわ!なっちゃん!」
「てか何言ってんの光彦!チャンスよ!頑張れー!」
『あ、これ断われないや』と悟った。小声で言ってるつもりなのだろうが丸聞こえなんだよ。この何とも言えない空気をぶち壊す勇気もなかった。
「よ、よろしくお願いいたします…。」
そうして俺はのちに獣と化す妻の檻の中に閉じ込められた。
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もう限界だ、助けてくれ。俺を遠くへ連れて行って。
俺は大山に語りかけるように見る。彼女はまたしても目を反らした。長いまつ毛をパチパチさせる姿が切ない。もしかしたら杉田や坂本とか別の奴を見ていたのかもしれないし。
そうだよな。よく考えたらこんなおっさんに見つめられて気持ち悪いよな。
だが、1人でぽつんと酒をちまちま飲んでいる彼女を見ていると様々な感情が込み上げてくる。懐かしというか切ないというか。
今すぐそばに行って話かけてあげたい。というのは口実で、その肌に触れたい。
こうやって改めて考えるとちっとも前に進めていないではないか。俺はお前への想いが濃縮された空間を無理矢理封じたつもりだった。
俺だけ過去に囚われて。勝手に興奮しては罪悪感に苛まれてさ。俺はあの空間の隙間からオレンジ色の光に包まれたお前をこっそり覗く変態だ。
この先いかなる時も大事にすると誓った妻がいるのに。
俺はまだお前の事が好きなんだ。
ごめんなさい。
―続く―
↓第2章 第2話
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