Netflixとゆめみにおける「自由と責任」

ゆめみの当たり前より

「自由と責任」の誤解

「自由と責任」と聞けば、「自由には責任が伴う」と捉える人が多いのではないでしょうか。一見すると当然のようにも思えます。

例えば、Netflixの文化として

Freedom & Responsibility(自由と責任)

という有名な言葉があります。

日本においては、スタートアップやIT企業などで「自由な文化」を謳う一方で、Netflixの「自由と責任」の言葉を持ち出してきて、「自由には責任が伴う」と言う主張を行い、身勝手な行動を慎むための「協調性」について言及するような事があります。

しかしながら、これは誤った解釈です。

Netflixのカルチャーデック(翻訳)を読むとわかるのですが

・高い成果を出すために、選択の自由度が非常に高くして創造的、独創的な仕事をしてもらう必要がある、その為には、成長とともにルールを最小限にするべき

・一方で、成果を出していれば、何をしても良い、自分の役割だけ行っていれば良い、というわけではなく、自分の役割以外も含めて、会社にとって役立つ事はいかなる状況でも行うという責任感を持つべき

という内容となっています。

つまり、「自由」は「NOT TO DO(してはいけない事)」についての考えを示しており、成果を上げるための「自由度の高さ」を主張しています。

一方で、「責任」については、「TO DO(するべき事)」についての考えを示しており、「幅広い役割に対しての当事者意識」を主張しています。

特に、責任については「ゴミを拾う」という事を例にあげています。

従業員が、誰かが拾うだろうとオフィスの床に落ちているゴミの隣を素通りしていく会社があります。また、自宅ではそうするように、従業員が見つけたゴミを拾うためにかがみこむ会社があります。私たちは、後者の会社になろうと懸命に努力しています。あらゆる岐路において会社の力になるよう正しいことをするという責任感を、全従業員が有している会社です。ゴミを拾うというのは問題に対処するということの例えです。小さかろうが大きかろうが、問題を見つけたら、決して「それは私の仕事ではない」と思わないことです。私たちは、本物のゴミ又は例えとしてのゴミを拾うことについての規則は持っていません。この行動を自然と取ってしまうような、当事者意識、責任感、自発性が生み出されるよう努めています
(Netflixカルチャーデック翻訳より)

つまり「ゴミを自ら拾って片付ける」という事を、自らの「当事者意識」として捉える文化という事なのです。

背景には、米国においては、ジョブディスクリプションに代表されるように、細かい役割が定められている一方で、個人主義が行き過ぎて、自分の担当業務以外は行わないという、チームとしての連携性に不備が起こりやすい事情があります。

特に、Netflixはエンターテイメント企業として、創造的、独創的な仕事をしてもらい、個の力を最大限に活かすため、自由度の高さと個人主義の弊害回避をして当事者意識を持ってもらうための「文化設計」を行っていると理解できます。


自由と自由度について


一方で、ゆめみでは、「自由かつ結果責任は問わない」としています。

まず、「自由はそもそもある」という考えです。

ここで、「自由(Free)の定義」を以下のように行います。

自由(Free)とは、自らが行動の選択・意思決定を行う事ができる状態

つまり「選択の自由」と言い換える事ができます。

あらゆる行動や意思決定は、自分の選択の結果であり、他人から要求や命令されたとしても、それを受けて本人が選択をした結果として考えます。

つまり、「自由は常にある状態」と捉える事ができます。

一方で、人は「自由がない」と不満を抱きがちです。

何故ならば、人は「妄想する」「夢を見る」力がある一方で、実際に自分が望む行動を、選択する場合に、選択の結果起きる不都合な事態を想像して、それを回避しようとするからです。

例えば、会社組織においては、様々な形式的・暗黙的なルールが存在します。選択の自由があったとしても、ルールに反する行動を選択した結果、評価を下げられたり、周りから非難されることを恐れるのは当然だと思います。

この状態を「自由度が低い」と呼びます。

ここで「自由度(degree of freedom)の定義」を以下のように行います

自由度(degree of freedom)とは、選択して行動可能と判断できる選択肢の度合い

つまり、自由と自由度は異なる定義を行い、意味を切り分けています。

その上で、一般的に「自由がない」と不満を抱く文脈については

「自由(Free)はあるが、自由度(Freedom)が低い」と言い表す事ができます。

ここで、Netflixのカルチャーデックでも言われるように、ルールが多くなればなるほど、自由度が低くなります。つまり実際に行動できる選択肢が少なくなります。

Netflixのカルチャーデックでも書かれていますが、医療や原子力発電所といったミスが起きた時に危機的な状態になる業界においては、ミスを回避するために、ルールが多く、自由度が低い事は「適切」です。

業界やビジネスモデルによって最適な自由度が設計されるべきなのですが、ではどのような形で最適な自由度を設計できるのでしょうか。

そのキーワードが、柔軟性(Flexibility)です。


ルール変更の柔軟性


Netflixのカルチャーデックでも書かれていますが、企業が成長すればするほど、社会的に与える影響は大きくなり、ルールが増えて、自由度が低くなり、複雑性が高まる傾向にあります。

その中でも、最適な自由度を設計するために必要な事が、ルール変更の柔軟性です。

多くの会社組織に属する人は、「ルールは変えてはいけないもの」と言う観点に捉われがちです。

ルールが設定された背景や目的を改めて確認して、現状の状況を踏まえた場合に、ルールを変更した方が良い場合もあります。

つまり、「自由度の高さ」として、行動可能にするべき対象として、最も重要なものが「ルール変更」なのです。

ルール変更を、それぞれの社員が容易に実現できるようにする事で、状況に応じた対応を行う事ができます。

それによって、ルール変更の柔軟性が確保されるのです。

ゆめみでは、ティール組織の助言プロセスを採用しており、助言プロセスに従った上で、あらゆるルールを変更する事ができるようになっています。

以上が、Free、Freedom、Flexibilityについての考えとなります。


結果責任と遂行責任について

次に責任について考えてみます。

特に、「自由には責任が伴う」と言う言葉における「責任」の中でも、結果責任について考えてみます。

まず「結果責任(Accountability)」の定義を以下のように定義します。

選択の結果に伴う利益の逸失に対して、ペナルティーを負う事

この場合、ゆめみでは社員は結果責任を問われないとしています。

なぜならば、結果責任という名の下に、高い成果を出すことを求めすぎると、結果として、成果が伴わないという原因と結果の法則が起きる場合があるからです。

「頑張れば、その分だけ成果がでる時代」であれば、成果で管理するMBR(Management by Result)、MBO(Management by Objective)が特に有効だと思います。

そうではなくて成果を出すための要因が複雑に絡み合う場合は、違ったやり方も必要になります。その一つが、手段による管理、MBM(Management by Measure)とも呼ばれます。

逆説的ですが、最良の結果を得るには、経営者が結果責任を株主から求められるからといって、結果責任を経営者がメンバーに対して求めすぎない事も必要になります。

ただし、これには前提条件があり、遂行責任さえ果たせば、結果として、最良な結果が得られるような、役割分担やバリューチェーン、ビジネスモデルが一定構築されている前提です。

ここで、ゆめみでは「遂行責任(Responsiblity)」を以下のように定義しています。

自らの役割(担当業務)に対して最善を尽くす事

特に日本においては、「結果責任」という言葉は、会社の社員に対してプレッシャーを伴って求められるように思いますが、理由を考察してみます。


社員に結果責任が求められる背景


一般的に、ビジネスではなくて、私生活で、個人が故意によって他人に損害を与えた場合は、法律で定めるように、賠償を行うといった法的責任(liability)が求められます。

刑法・民法など法律で定められた範囲での責任を負わない場合に、罰が処せられます。

その類推から、ビジネスにおいて、会社に大きな損害を与えた場合、ともすると関わった社員に対して、結果責任という名の下に、ペナルティーを求めることが当たり前のように錯覚される場面があります。

しかしながら、会社というものは、法人と呼ばれるように法の下に定められた人であり、会社という「人格」が自ら行った行為の結果に対して、会社が自らペナルティーを負う場合、その時点で結果責任が果たされていると考えることができます。

例えば、顧客企業に損害を与えて、損害賠償を会社が支払うことになった場合、会社が顧客企業に対して賠償を支払ったり、和解することで、顧客企業に対しての結果責任を果たす事になります。

特に、会社に対して与えるマイナスな影響が大きければ大きいほど、会社が結果責任を果たすため、個人が結果責任を負うことはないと考えます。

仮に、個人がペナルティーを問われるような事があるとすれば、十分なリスクプレミアムを乗せた給与、あるいは業績連動での報酬を定めた雇用契約でないと納得がいかないし、本人は不安で仕方ないと思います。(※ゆめみの場合は、そのような雇用契約を社員と契約はしていないです。)

スポーツなどにおいても、結果を出すことを意識しすぎてしまうと、緊張で能力が最大限発揮できないパターンがあります。最大限の能力を発揮するには、これから起きる結果を気にすることなく、一つ一つの演技や競技を楽しむ気持ちで、自分なりのベストを尽くすということが大事だと思います。

ビジネスにおいても同様だと考えます。

したがって、ゆめみでは、結果責任を問われるのは、経営者を除いて「ない」としています。

結果責任は問われないと聞くと、結果を出さなくても良いと勘違いをしてしまう人もいるかもしれません。

そうではなく、結果を出すために、全員が遂行責任を負い、工夫と努力をする事

が大事だと考えています。

起きた結果に対しては、過去は変えられないので、結果責任を問われる必要はないと考えています。


以上から、ゆめみにおいてはNetflixの「Freedom&Responsiblity」に対して「Flexiblity&Responsiblity」として、ルール変更の柔軟性を確保した上で、遂行責任として最善を尽くす前提において、結果に対してペナルティーを問われることはないと言う前提をとっています。

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