色々やりたいけど飽き性な人の苦悩と悟り、というか開き直りについて。
色々やりたくて仕方がない、けど飽きちゃうのよね
ブログを書く、YouTubeでVlogerになったりゲーム実況でアフレコを面白がる、ライブ配信アプリでライバーをやる、TikTokerになる、DTMerをはじめようとする、ペンタブを使っての似顔絵制作、ホームページ作り、など、、
このnoteへの執筆作業然り、わたしという人間は、ネット上の表現手法の数々について興味を持っては、ちょいと手を出して辞める。また目新しいものに食いついて、ちょいと手を出して辞める。これを繰り返してきた。
お察しのとおり、こういった人間というのはネット上に限らずあらゆるものに対して同じ姿勢であり、短期間のうちに熱を上げては面白がってやって、熟練度としてはかなり中途半端のうちにすぐに飽きてやらなくなるもんだ。
アコギ弾き語り、ピアノ、洋裁で服作り、編み物、刺繍、執筆、革製品のリペア作業、借りてる取り壊し予定の部屋のDIY、アクセサリー作り、セルフネイル、、物を作ったり表現をすることが好きで、そういう系統の中から自分のアンテナが反応することにだけ、熱を上げる。
だからって何でもいいわけではないという件について
モノ作りが好きだと言っても、たとえば美大の方々のやっているようないわゆる”アート”の類は難しそうでピンとこない。
まあ、アートってかなり抽象的な言葉だからもっと広義に表現全般について言えることなのかもしれないけど、イメージの話。そう。彫刻とか、色んな資材を使用してのモニュメント、石像、油絵、、
へぇ、上手いこと描くもんだね、とか、なんかアートって感じだね、とか、ああ、こういう表現がいいって言われるんだァふぅん、とか、そんなしょうもないことは思えても、
横文字だらけの、あるいは難しい熟語だらけの言語表現でもってそれらを評価するとか感じ取るみたいなことは、わたしにはできない。そういう感性はまったく持ち合わせていないのだ。
かといって、幼児向けの絵本のレベル感で、見ればこうだ!と分かるような分かりやすいものだったら反応できるかというとそういうわけでもなく。わたしはわたしの直感が反応できる範囲のものにしか、良いも悪いも、気持ちいい気持ち悪いも思えない。アートに限らずだけど、そういうもんだし、それでいい。と思う。
こうして、結局なにが言いたいんだかよく分からん感じに文章が向かって行きがちなのだが、あれです。(あれとは?)
飽きっぽくて色々やりたがるとは言っても、何でもかんでもやりたがるわけではなく、飽きっぽい中でも大体こういうことに興味があるよねとか、ジャンルみたいなものが結構絞られているんだということ。
飽きて辞めてもう二度と戻ってこないわけではなく、周期みたいなものがあるなぁ、ということです。好きで楽しいという物事に対する感覚がなくなるわけではない。伝わったかしら、この書き方。
人生いつでもwktkしていたいなぁ
飽きるとはいっても、急激に冷めて愛情がなくなってどうでもよくなってしまうわけではないのだ。
初めに一度突き上げるような熱情が腹の底から湧き上がり(ものによって度合いは変わるが)、ワクワクとかドキドキとか言われる感じの感覚、「楽しー!」「好きだー!」と夢中になってみせ、目を輝かせて、これがプロ並みに上手くなったらどんなに楽しいことだろう。そうなった自分はなんと美しいことだろう。そんな風に未来の自分を想像してwktkしてみせる。
正直言って、一番楽しくて大好きで夢中のピークはこの一瞬である。この、wktkな一瞬のために目新しいものを好きになってると言っても過言でないほどには、恍惚として心地がよくて幸福な瞬間だ。
しかしそのピークが過ぎた後、わたしはいわゆる「現実」をまざまざと知ることになる。妄想上のwktkでキラキラな自分がいかに嘘っぱちで、夢見がちであるのかを突きつけられる。
金がないとか時間がないとか現実的でないとか言って、色んな条件をもとにできなくなる理由探しに躍起になる。そして自分にこれは向いてないだとか、言い訳をしてそっとやめたりする。他に興味が写ってしまったときは、そんな言い訳も不要でなし崩し的、自然消滅的にやらなくなっていたりするので楽だ。お前にはできっこないぜ☆という、自己否定の段を踏まなくてもよいのだから。
本人は、別に理由探しをしているつもりなど毛頭ないし、うぉおお!と好きがたぎって楽しもうとwktkなときに、いつか辞めるんだ!と思って等いるはずもない。けれども、もう体がそういうルーティンをやることに決めてるみたいになっている。
けれども飽きられた有象無象たちは、いつでもわたしが再開できるように、みんなスタンバイOKで待ち構えてくれている。やられる側の創造物たちは、わたしがwktkするのをいつでも待ってくれている。わたしが行くぜ!と思ってやる気をぶん回せば、誰も逃げることなく向き合う準備をしてくれている。いつだってそうだ。
わたしの気が今は全く向いてくれない、違う方向に注がれている、というだけ。気まぐれで、今はそのときじゃない。と、いうだけ。
それが単に、飽き性とか、長続きしないとか、中途半端とか、出来損ない、とか言うマイナスイメージの言葉に結びついて、ダメなやつ認定、パッとしないもったいないやつ認定、器用貧乏、などといって片づけられてしまう、というだけ。なんとまあ残念なこったろう。
Q.中途半端は悪? A.なにごとも捉え方次第です。
中途半端、、とはいうけれど、この言葉って、やっぱり『こういう状態が完璧だよね、完成形だよね』、という100%の状態みたいなもののイメージ像があるからだと思うんだけど、そもそも本来この世界に真に「完璧」なんてことはないんじゃなかろうか。
なにかをやりはじめたら、やりきること、完成させること、終わらせること、ここに向かって進まなければいけないという、もはや強迫観念すら覚えるような社会通念のようなものがあると思う。
それが一体なぜなんだか考えたときに、何かを作り上げることで、それを応用してさらに発展させていくことで、人間は進化してきたからだ、と言えそうだと思う。
しかし、そんな風にきちんと「完成」「完了」「完璧」に到達することって、この世界で起こるあらゆるすべての中のいったいどれほどあるんだろう。
こういう話をしてると思いだすのはエジソンの逸話だ。
彼には、「完成」「完了」「完璧」に到達しない、周りからは「失敗」つまり「中途半端」とみなされる行動が1万回あったと。しかし彼自身からすれば、『この手法では電球は光らないんだという1万回の発見をした』、のだと。
そんな風に、まったく違った視点からの考え方を採用して、ポジティブに行動に対して向き合えるのであれば、わたしの物事に対する行動の姿勢だってまったくもってマイナスであることはないじゃないか、と思う。
だって、好きだとか楽しいという単純明快な感覚、創造したいという欲求はいたって健康的であり前向きであるからだ。誰かを踏んづけて押しのけて痛めつけたい!というのではない。
エジソンは、自分の1万回もの「失敗」を「悪いこと」と一切みなさなかったことで、他者からの評価を意に介さなかったことで、諦めたりやめたりする選択肢を持たず、「光る電球」という目的の答えに向かってただ行動を繰り返した。結果として、答えにたどり着いた。ただそれだけだ。
じゃあわたしの目的はなにか?エジソンの逸話を出すのであれば、ここが重要なポイントだ。
中途半端だということが「悪」になりうるのは、いわゆる「完成」「完了」「完璧」のゴールが誰しもにとっての目的でなければならないとされているからだ。ここで、世論はさておき自分の素直な感覚感情に問うてみたい。
『わたしは何を求めて、様々のことに興味を持って向き合うのか?』
答えは至極シンプルで、色んなことを楽しみたい。ということ。
わたしはこの人生で、たくさんの色んな経験を、その新鮮味を持って体感したいのだ。
それが心からの欲求であると理解している。
集中して極める人達、彼らに対して感じる劣等感
世の中には一つのことを極めていくことに達成感や快感を覚えて、一つのことを継続して積み重ねていくことで、プロフェッショナル、スペシャリスト、となっていく人たちがいる。それが、一般的に褒められるべきことであろうし、「すごい人」「偉い人」と言われ、評価され、称えられる。
そんなことはわたしにも重々分かっていることで、誰しも評価されたい、認められたい、という承認欲求はあるわけだ。
だから、一つのことに秀でていくことを目指して若い頃から励む人達をみては劣等感を感じ続けた。わたしはああはなれない。ああはなれないし、やりたくもないのだということを認めてあげられずに長いこと生きてきた。
そうやって、行動を積み重ねていく人たちを前に、「中途半端」はより一層に中途半端になった。
なぜなら、あの人たちのように評価されるということがない、ということがやる前から分かってしまうからだ。必ず飽きる。他の魅力的なことに心を奪われていく。それを端から分かってしまっている。
評価されない、つまり、価値のない人間だとレッテルを貼られてしまうことが恐ろしかった。分かりきったことならば、割り切ってしまってその瞬間の好きや楽しいの感情に身を委ねてしまえばいいものを、無駄に自責するなどしてエネルギーを消耗して何もできなくなるといった負のループに陥っていたような気がする。
あの一途の人たちと同じようにはなれっこないことを分かっていながら、どこかであの人たちと同じようにやらなければいけないという思いがあり、そうしなければわたしという存在はぞんざいに扱われ、見下され、無碍にされてしまうかのように感じていたのだ。だから、どうやったって、自分の行動に対する姿勢というのを自らも認めることができなかった。
ひとつの物事を継続できる人達からすれば、わたしの生き方というのは、じゃあ、苦しくても努力すればいいじゃないか、お前が怠けているだけだろうが。と思われるのだろうが、努力をすれば報われるという考えもどうなの?と思っていて、継続することで必ずしもいい評価があるわけではないことも分かっているし、そもそも、情熱を注げないことに対して苦痛を伴う努力をすることになんの価値も感じることができない。
成功者がやっているいわゆる努力というのは、結果としての他人の評価にすぎず、本人は楽しいから気づいたら続けていた、楽しくて続けていたことが結果として努力とか天才とか呼ばれるんだ、という話が正解かなと思う。だからやっぱり、根性とか気合とか言うのもよく分からない。理解の及ばないところにある、単なる精神論だなと思う。
遊びがない人生なんてつまらない
30を過ぎて、ようやっと、わたしはわたしがどんな人間なのか、ということをきちんと理解できるようになってきた。
理解というか、許容というか。だからようやっと、わたしはわたしを生きられるようになってきたな、やっとスタートラインに立ったかな。そんな感じがする。
以前は、なんとなくわかってはいたものの拒絶してきたんだろうなと思う。
それは、あまりにも社会的に評価されることのない態度だからだ。
はじめたはいいけれどやりたくなくなったからやめる、あるいはやりたくないからやらない、じゃ通用しないんだよ。生きるには金が要るんだよ。遊んでいたら生活は成り立たないんだ。ちゃんとしなさい。遊びに金は出さない。
そうやって、親にも周りの大人にも言われ続けて大人になった。そうして、自身でもそうか世界はそうなのか、と思い込んでしまって、大きな違和感やズレを感じながらも、クソつまらない大人になったような気がする。なんとまぁ、かなしいことだ。
つましく働いて、自分自身のことを無視して、ラットレースに脳死で参加し続けることがきっと正しい人間の生き方だとでもいうかのように、「人として」”正しく”生きることは、労働であり、倹約的な金銭感覚でもって暮らしを回すことであり、貞操はきちんと守るべきで、上には従順でありながら誰しもに優しく寛容であれ、、とそういう風に言われるのである。そうやって、社会そのものが教育されてしまっているのだ。
音楽は、歌うことは、遊びだと言われた。
いい年して遊んでるんじゃない。就職はどうするのか、学校は?
お前はどうやって生きていくのか。と。
きっと、逐一こちらから聞かずとも、動画制作も、絵も、DIYも、珈琲でさえ、生活の糧にイメージが直結していかないモノ作り全般は恐らくぜんぶ遊びだといわれたろう。実際は、遊び心や遊びそのものが価値を生み、それが糧になっていくものだろうに、、
真面目に生きても報われるかどうかは話が別だし報われる報われないだけじゃないでしょうって
そういう言葉たちや思想たちを聞いていると、さも真面目に生きていれば報われるんだというかのようだが、真面目に生きた果てに、わたしの父は自死の道をたどった。つい2年前の話だ。
父はもう二度と帰ってこないし、この世界でもう二度と会うことはない。なんて寂しいことなんだろう。
思い出して考えはじめれば未だに泣けてくるし、何で死ななきゃダメだったんだろうな、と思う。考えたって仕方のないことだし、考えたところで父が戻ってくるわけもないので、もう切り替えて考えることは基本しない。結局、病気だったとはいえ自死も本人が決めたことだし、わたしが何か父に対してしてあげられることは他になかったか、などとは考えないし後悔もしていないが、考えはじめたらやっぱりどうして、悲しいことでしかない。
遊びのない暮らしというのは、全然面白くない。
父がいい手本だったなと思う。
趣味もなく、友達も少なくて、仕事人間だった。仕事が好きであったにしたって、自らの精神を削ってまで追いかける数字とか他者からの評価とか、そんなものにどれだけの価値があるのか、わたしにはよく分からない。
遊んでいれば病むことはないか、といったらそれはそれでどうだろうか、わからないけれど、きちんと自らと対峙して許容して愛することができるのなら、、とは思う。
わたしと、その暮らしを愛すること
わたしは今の生活を愛している。
わたし自身のことも、愛したいと思って暮らしている。
人やものごとにたくさん感謝して穏やかに笑いたいと願って生きている。
人間の暮らしの中で金なり心なり物なりに不足を見つけても、深い深い本質の部分では満たされていることが大前提にあり、不足があることで不幸になることはないということを知っている。だから、なんにも問題なんてものはないんだと、なんとなく思って安堵して生きている。
不埒だと言われてしまうようなことも、自分の欲求に従って楽しめることであって他人を傷つけることがないのであれば、大いに遊んで楽しもうという姿勢で生きている。愛されたいのはいつでも自分自身に。足りないと感じてしまうもののすべては、よそからやってくるものではなく、内側に常にある。
一体いつ父みたいに死んでしまうか、終わってしまうか分からないすべてに対して、どうして保険をかけるような真似をしながら生きることを謳歌することができようか。
父が自死してからわたしは、人生クソ楽しむ、と決めているのである。
それなのに、どうしてつましく働いて暮らして死んでいくことが正しさだと信じてやまない大人たちの意見に殺されていく心を、野放しにできようか。
今は、そうして殺されてきたのだろう心に向き直して、対峙しているところである。この世界には結局のところ、自身の精神と、自身の観測点があるだけだ。それを理解しようと努めているところ。いかに脱力して心地よく笑っていられるのか。
人それぞれ様々な歴史や背景を抱えて生まれて、生きて、死んでゆく。
その条件には変わりはない。その中でそれぞれが培っていく価値観や感性をもとにあらゆるものが観測されて、その観測したものがそれぞれの「現実」となる。
「現実」というのは、自分で思考して自らに言い聞かせ見せている幻、虚像に過ぎず、これが「現実」だ、ということの認識をどう行うか?で「現実」が各人においてどんなものなのかが定義されている。
よって、すべては設定したように行われたものであり、自作自演の脚本をやりきっているだけだということに、「現実」に没頭している間は誰も気づくことができない。
脚本なんだから書き換えることも可能で、演じているだけなのだから役を降りることも可能なんだということを分からない。自分はまごうことなき自分なのだ、現実は今目の前に展開しているすべてで、それが自分を今このような状況状態に陥れているのだ……!
これが俗世の”苦しみ”ってやつなんだと思う。
自分で作って自分で反応してるのに、それを知らないふりして生きているって滑稽なことだなぁと思う。がしかし、知らないふりをして生きていた方が、人間的で、感情的で、ドラマチックであるとも思う。すべて俯瞰してしまって、悟ったみたいに冷静になってしまったら、もしかしてつまらないのかもしれない、、とかも思う。
月刊でZINEを出してみたい
なんか今回も色々繋がりがあるんだかないんだか分からないまとまりのない文章でごめんなさい、って誰に対して謝るのかよく分からないが、もしもここまで読み進めた人がいるなら、ごめんなさい。読みづらかったりしたら、謝っておくね。
最後に書いておきたいことと言うか、初めからこれについて書こうと思ってたらこんなことになってしまったのだが、、今まで書いてきたような飽き性のわたしという特性があるからこそ書けるZINEを作ってみたいなというのがある。
(ZINE、ザインと読んでしまっていたけど、vineとかLINEみたいにね(笑)、マガジンの「ジン」なんだねこれはw
人前で「ザイン」と言ったのたしか2回目で、物覚え悪いなってやっぱり思ったよww)
継続が難しい人間だと言っているのに、月刊で出したらおもろそう、と考えているあたり、自分のことをわかっているようでわかっていない、というのが実情かもしれない。笑
月刊が無理なら、じゃあ、不定期発行にするか。そういうこと言ってると、不定期にすら出さなくなりそうだなとかも思う。不確実性しかない。それも、わたしらしい。そういいながら、きちんと月刊で出すと決めてやりこなす設定にして本当にこなしちゃうというのも、またおもろそう。(というのも、ぜんぶ自作自演の脚本、設定だという前提に立っての話)
べつに、飽き性の話を延々書いていくZINEということではなく、わたしの興味関心を掘り下げる記録、日々の徒然記みたいなごくごく個人的な内容でいいかなとか思うけど、わたしと同じことに興味関心がある人ってたくさんいるし、わたしと同じような苦しみを抱えてきた人もたくさんいると思うので、需要がないではないと思うんだ(自死遺族であることとか、量子力学の話とか、珈琲とか、性の話とか色々)。
元々本を出したい、というのはあったし、手始めにZINEというのは視覚的にも、記録的にも、分かりやすく残せていいのではないかしら、と思う。出版するにあたっては色々調べたりいくらかかるのか、制作に関してなど知らなきゃならないことはたくさんあるだろうけど。それを調べたりするのもまた楽しいだろうな。
ということで、月刊でZINE、それからkindle出版を来年は目標に色々動きたいな、と思う。創作活動のひとつとして。
(ほかにも、服作ったり曲作ったり靴作り学んだりなど、色々やりたいことはあるんだけれどもねww)
キリがいいんだか悪いんだか分からないけど、ここらでおしまいにしようかなと。
余談。
4日前、今インフルエンザで苦しんでいる某人と数時間の間近距離で過ごすということがあった。コロナ禍で生まれたろう、いわゆる「濃厚接触者」という言葉にあたる感じだったと思う。思う、というか、実際にそうだった。うん。結構な感じで濃厚接触者であったのではないか。結構な感じ、とは。果たして。
インフルエンザウイルスの潜伏期間は1日~長くて4日程度。
某人はわたしと会った直後から発熱して、今もアホみたいに高熱出して、体調不良にうなされているけれども(がんばれ)、その当日からわたしは罹患する気が全くしていなかった。
そして4日目の今、まったくなんともなく健康体のわたしがいる。今日を越せばもう大丈夫だと思うが、すでに18時を目前にして夕方を過ぎているので、体調が変化する時間帯は優に超えている。
わたしはコロナ禍以降ワクチンを打っていない。いたって健康だ。
まあ、コロナには2度、風邪もふつうにひいて高熱自体は3回ほどこの3年の間に出してるわけだがww
結局、免疫力如何で罹患するしないは左右されるんだなぁ、と思う。
この後体調悪くなってたらおもろいけどまあ、それはそれでいいじゃないですか。いいのか?ンいや、よくはないか。ってさっきから何言ってんの?w
免疫力って、メンタル力であるとも思う。
心と体のバランスが崩れていると、体調も崩しやすい。
比較的ここ数カ月は安定的で穏やかに暮らせているのでそれもあろうな。
自分のそういうエネルギ―状態みたいなものを、意図してコントロールできるようになるととてもいいなと思う。たまには高熱出して寝込んでみるのも乙なものだが。さすがに40度近い熱は出したくない。。w
おしまい。
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