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母なき仔


 母の日に想いを寄せて…
 
 あの日、彼女は言ったという。
「あなたと一緒になれないなら私は死ぬ。」
彼は何と答えただろうか。私には分からない。

 彼は病気だ。ベーチェット病という。リウマチ症状や粘膜の炎症などを引き起こす。膠原病というものの一種らしい。咽頭に潰瘍ができてしまうと息ができなくなる。その通り道は小さな縫い針の先よりも細いのだという。 喉には穴を開けており普段はガーゼで塞いでいた。潰瘍が破れると血が噴き出して洗面器は赤く染まった。
 彼は旅館で働いていた。企業としては一日で億単位を稼ぐこともあった。予約係という要に配置され、かなり慕われていたようだ。そんな彼が病気を理由に退職すると知ったとき彼らは何を思ったのだろうか。血を吐いてでも働くという言葉が、ただの慣用句ではないことを体現する者を目の前にして掛ける言葉は見つからないのかもしれない。

 彼女が、どうやって彼と知り合ったのか私は知らない。どんな会話をして互いを分かり合おうとしたのかを私は知らない。私が知っているのは、その結末だけなのだから。
 彼女は満たされなかったのだろう。思うように動くことができない彼を目の前にして。
「自分のことしかない。伝わらなかった。」
と寂しく呟いている父がいた。
 
 なんとか在りついた仕事。手についてきた頃だったのだろうか。
帰路についた彼は殆ど諦めていた。まだ間に合うことは知っていた。
「神様。もういいです。」

 子を連れて走る夜道。故郷の大根畑を抜けて橋の袂に停まる軽自動車。 その様子さえも頭に浮かんできていたらしい。どんなに苦しかっただろう。彼女は降りる。もう帰ってはこない。ぼんやりと橋の方へと歩いていく。 欄干に身を委ねた身体は、もう重力に逆らうことはなかった。
 なにも知らない子は待っている。どうだろう…本当は知っていたのかもしれない。待つことに意味がないことを悟ると私は車を降りた。引き寄せられるように橋の欄干へと向かう。見下ろした先には女が横たわっていた。  夢だったのかもしれない。子は薄明るい夜明けの空をみてから歩き出した。日が昇り、見つめる先には朝早くから大根畑で精を出す百姓がいた。

 「一緒になっても死ぬんだな。」
世の中の理不尽とは身近にあるものなのだ。そして理不尽は続いていく。 けれども、たった一つでも希望があれば人は前に進んでいける。     彼女は一人、旅立っていった。愛車と我が身を痛めて産んだ子を残して。 共に往かなかったのには何か理由があるのだろう。
 
 
私の始まりの物語、そして病室に横たわる彼の生きがい。
それは「母なき仔」

 

 

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