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登れぬ坂

 ”とんがり帽子のアパート。妻を亡くし我が子との生活。好き嫌いの多い子だ。どうやら海苔巻きは気に入ってくれたらしい。具のない海苔巻きに醤油をつけて食べている。それからライスボールもいい。カツオのふりかけを混ぜて作ると、よく食べてくれる。皮膚も弱いから、あまり油物は食べさせられない。この間、店で買ったドーナツはよくなかった。食べたら直ぐに搔きむしって大変だった。どうやら、あの店は古い油を使っているらしい。掻くなと言っても仕方ない。掻きだしたら血が出るまで掻くのだから。言えば言うほど痒くなる。よっぽど食事に気をつけるしかないのだ。”
 ”今晩も夕食を用意して食卓に着く。このところ体調が優れない。この子には元気に育ってもらいたいが。どうにか踏みとどまらなくては。悩みが尽きない。頭が割れるようだ。”
 気がつくと彼は床に倒れこんでいた。どうやら椅子から転げ落ちたらしい。傍らで子が泣いていた。起き上がれなかったなら、どうなっていたのだろう。彼は子を連れて実家へ帰ることにした。

 ”全く散々な引っ越しだった。向こうの親に軽トラを頼んだが、まさか荷物を落とすとは。よりにもよって、お袋の形見のミシンを。”
 物を大事にする人であるから、いろいろと特殊な道具も多い。その分、荷下ろしは大変だった。一段落すると荷台から落下して壊れたミシンを自ら修理するのだったが、以前と変わらぬ動作をすることは二度となかった。

 彼は父親に言う。私が我が子を残していくようなことがあれば、名前を書いて新しい家を見つけてあげて欲しいと。だが、私が孤児院に預けられることはなかった。それほどに彼の生命力は太いのだ。とはいえ満身創痍に変わりはない。潰瘍が破れ血を吐き貧血が続いていた。歩くことも相当にきつかったのだった。
 
 実家の上り口は坂になっていて、勾配は少し急になっている。彼は貧血で消耗し坂を登れないでいた。
「わりゃ、のぼりきらんとか。」
そう言って父親は笑うのだった。助けてくれるとは期待しなかっただろう。この子を頼むとは言わなかったのだから。それでも寂しかったに違いない。
それを言葉にはせず自分の足で歩くことは決して止めなかった。

 生き抜く力とは何だろうか。何をもって、それは執念に足りうるのだろうか。血だらけになった身体を、やさしく労わるのは非力な小さい手だった。

 

 

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