メディアと文化とフィジカルと
みんなちがって みんないい。メディアとそこから生まれてくる文化についてなど、つらつらと書いてみました。一応、読書感想文です。
メディアと人
メディアが情報を記録/伝達/保管するものだとすれば、人類は様々なメディアを発明し発達させてきた。言葉や文字、絵画、音楽の発明などの人間らしい活動(アートと呼ぶこともできる)はメディアの発明そのものである。ラスコーの洞窟壁画の生き生きとしたストロークや整然としたメソポタミアの楔形文字の審美性から、人間は何か情報を伝えずにはいられない動物であることがわかる。
18世紀後半、ナポレオンの登場によってヨーロッパ各地で戦争が勃発すると、人々は戦況に関する情報をいち早く求めるようになった。これに応えたのが、蒸気機関である。イギリスのジェームス・ワットによって1769年に開発された蒸気機関はやがて印刷機に取り付けられ、それまでとは比べものにならないスピードでの印刷を可能にした。これはメディアへの“より早く、より広く”というニーズの上に成り立つものである。このニーズはさまざまな技術の進化と相まって今日のインターネット社会へとつながっていく。
メディアと文化
こうしたメディア技術に刺激されて新たな文化が発生する。例えば、録音技術が発明され音楽がレコードに記録され販売されるとき、そのコンテンツをアピールするためのパッケージがデザインされる。ジャケットやポスターは本来コンテンツである音楽をイメージさせ購買意欲を刺激するための付属品でしかない。しかしそれらの存在は時間をかけて成熟していき、その役目を宣伝材料以上に拡大し、それ単体がアートや文化として成立するようになった。ジャケットやポスターを額縁に入れて飾れば立派なギャラリーになる。付属品が新しいコンテンツとなったのである。例えば、クリスチャン・マークレイの『カヴァーのないレコード』は、購入体験自体をアートとして抽出し新たな次元でのコンテンツに昇華させている。また、“ジャケ買い”はまさにメディア技術の発展により誕生した文化だといえる。
そもそも“文化になる”、“アートに昇華する”とはどういうことなのか。人によって文化や芸術の定義は異なる。ここでは文化に限って言えば、ある程度のポピュラリティーを獲得し受け入れられたうえで、単なる流行として終わらずある程度継続することを条件としたい。今回アートの定義については言及しない。メディア技術が文化を生み出すということは、メディアによって発生した“付属品”が文化として独り歩きをすることである。
メディアとディジタル
近年のインターネット通信技術の発展によって、メディアは急速に脱物質化を遂げている。本は電子書籍になり、音楽はストリーミングサービスによって配信される。誰もが、どこでも、簡単にコンテンツを楽しむことができる。そんなユビキタスな環境においてメディアに付随する文化はどのように変化するのか。音楽のカヴァーアートワークを例に考える。音楽配信サービスのユーザインターフェース上に表示されるジャケットは実物のジャケットよりはるかに小さな画像である。まさにアプリケーションのアイコンのような意味、役割を求められているのではないだろうか。アイコンとは標識であり、その役割は効率よく情報を伝えることである。画面上のアイコンボタンとしてのジャケットは段々と記号化し、より象徴的なものとなっていくだろう。それはアートワークがその絵画性を失うということでもある。
ドイツの電子音楽グループクラフトワークのカヴァーアートの一新はその最たる例である。高速道路が走る山々の風景が描かれた『アウトバーン』のカヴァーアートは、実際にアウトバーンを意味するドイツの道路標識のピクトグラムに変更された。同様に全アルバムのカヴァーアートが、リリース当時の工業文明に向けての懐古趣味が取り払われ、情報時代において必要とされるシンプルでアイコニックな姿に生まれ変わった。このような役割の変化によって、カヴァーアートは本来の“付属品”という立ち位置に戻っていくのかもしれない。
メディアとフィジカル
一方で既存のフィジカルなジャケットは新たなポテンシャルを獲得しているといえる。フィジカルなものの強みは、実際に手に取ってそのテクスチャや重みを感じ取ることができ、飾ることができるという点である。この人間の原始的な体験はしばらくの間は取って代わられることのない活動であるから(もしこの体験がヴァーチャルで完全再現されてしまえば世界は『マトリックス』となり、誰もが自己の存在意義に疑念を抱くだろう)、実体を伴うアートワークはその付加価値を保証されている。脱物質化の流れの中で差別化されることで際立った存在になることができる。『カヴァーのないレコード』はディジタルでは存在しえないし、クラフトワークのボックスセットがLPサイズに巨大化したことでモダンな筋肉美を誇示していることがそれを証明している。
ディジタル化に対する既存のフィジカルの可能性についてもうひとつ例を挙げる。浮世絵は大量生産され広く江戸の大衆メディアとして当時の庶民に愛されたが、現代に浮世絵を描き、掘り、摺る人はほとんどいない。メディア技術の進化という淘汰の中で廃れてしまったのだ。しかし、この“時代に取り残された”メディア技術は現在の木版画技術では再現が困難であると言われ、彫師と摺師による超絶技巧の産物となって、失われた幻の文化として確固たる地位を築いたアートとなった。
メディア技術の発展は文化を生み出す。淘汰を勝ち抜いたメディア文化は影響力があり価値がある。一方で、時代遅れになった/使われなくなったメディア技術もまた“ヴィンテージ”という文化を生み出すことができるのである。その意味では、現在使われていないメディア技術はすべて付加価値を得て文化になるポテンシャルを秘めているといえる。
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