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ノンデュアリティとデュアリティの違い

ノンデュアリティデュアリティの違いをまとめると、

「事実は全部が自然現象だよ」(ノンデュアリティの立場)
・自然現象に「自由な意味付けをして楽しんでいるよ」(デュアリティの立場)

これが基本です。

ノンデュアリティは『事実ベース』

  1. ノンデュアリティが指し示す事実は、個の介在なしに物事がただ単に起きているだけだということです。

  2. その新事実発覚により、出来事に対し個の記憶上にある概念をまったく当てはめられなくなるということです。

  3. その結果、個は全体でありつつ個でもある事実に悩まなくなります

事実ベースになれば、信じ込んでいる観念である「人間本位な責任を背負う自己実現」が無くなります。それにより、現代人っぽい常識に悩む生き方をしなくて良くなります。

事実ベースになれば、それまで生きてきた「理念で望んだ現実」を欲しなくなります。

事実ベースになれば、全体の完璧さの一部が自分という個を通して然るべき時にあらわれているだけ、というところに着地し、現れた現実に抵抗しなくなります。

事実ベースになれば、事実をベースにした自己実現、つまり、全体としての自己実現を望むようになります。

デュアリティは『非事実ベース』

ノンデュアリティが示すことができるのは「事実まで」なので、事実からひらめいた新しい「概念を築きあげる」というのがデュアリティの活躍の場になります。デュアリティは非事実を示すことが可能です。

非事実を扱うことによって想像力を刺激し、イマジネーションを発達させ、それまでにない新しいイメージを仮想的に指し示す手がかりとなります。アニメや漫画がいい例です。

デュアリティは意味付けをする科学なので意味付けをしたのであればそれをいつでも正しく認識できるという仕組みです。

デュアリティのメインコンテンツである自由意志というものは、自分に起きたと感じるすべての出来事の意味付けを自由に更新できるよということです。

まとめ


  • ノンデュアリティは、事実ベースです。

  • デュアリティは、非事実ベースです。

目的が違うだけで、良い悪いはありません。

事実だけだと全く融通が利かない面もありますね。
そういう場合にはお楽しみ要素として空想ベース(非事実ベース)もあれば、人生が豊かになると思います。

漫才やコントは全部、その集合意識のちぐはぐさをネタにしているから共感もするしすぐに楽しい!とわかるものです。

また、各種コンプレックスを抱くというのも空想ベース(シュミレーションベース)です。

お顔にコンプレックスをお持ちでも、化粧の仕方を勉強されたり、研究されたり、睡眠に気をつけられたり、摂取するものに気を配られたり、と、あらゆる研鑽のモチベーションにしています。

人生は基本的に長いので各種イベントが割り振られていることの方が、実はよかったりもします。イベントというのは、コンプレックスに感じるであろうことの時期をずらして経験をするということです。

そうすれば、学んだ経験を教え合ったり、伝授することも無理なく可能になります。

実は事実ベースなら、そうあるのは単にそうあるというだけなので、特に努力を要しません。努力するという勤勉さは認めますが、自分がそうするかどうかはその時の流れにゆだねていますので、自分が個としてとらえることではなくなってしまうという意味になります。生まれながらにお顔の形が決まっているというのは単にそうだからです。

事実ベースでも個性があり、多様性があるのでこれはぼくのパターンです。
事実ベースになったからと言って、全員が全員同じコピペ人間にはならないよ、という感じですね。もしぼくがお化粧好きならばめちゃくちゃ熱中するだろうと思います。

なので、基本的に何でもいいということになります。
ただ違いがあるのは、わかってやっているのか、わからないで悩み続けているかの違いがあります。事実ベースは既存の空想ベースの上位互換なので、含んでいるということです。

空想ベースにあった、誰かに左右されて悩むということが少なくなります。時間がたてばたつほど、より少なくなっていきます。やがて、苦しみとか、悩みというのがほぼほぼ見当たらないので、やり方を忘れてしまうほどだと思います。それは、ある種の境地に達したというような大げさなものではなく、普通のことでした。

事実ベースの根底に流れる不変の真理は「無条件さ」といった愛だからですね。それが普通です。


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