満たされてしまった。絵に全振りする時期は終わってしまった。

初めて、「あ、もう絵から自分を開放してもいいかもしれない」と思った。


ここ1ヶ月、満たされる日が多く続いていた。
創作を理解してくれる相互さん、込めていた性癖を汲んでくれる相互さん、心の隙間を埋めて包み込んで、そして包み込ませてくれる恋人。

たったそれだけだった。
働いていないのでお金はギリギリ。でもネットで熱い創作の想いを分かち合って、私生活で美味しいものを一緒に食べて、抱きしめ合って、笑い合って、どんどん心の隙間が埋まっていった。

トドメは抗うつ剤だったと思う。
抗うつ剤を飲み始めて、明らかに精神が安定しだした。というか、乱高下が落ち着いた。
落ちきる前に、表面をツルルと上滑りする。



埋まったら、人の顔を、魅力を、ゆっくり見つめる余裕ができた。
誰も彼も、みんな余裕がなくて、でもキラキラしているところを持っていて、素敵な人ばかりで溢れている。

自分は凄い人間だと思っていた。でもそんなことはなくて、みんな凄い人間だった。
みんながそれぞれ様々なことを考えて、日々懸命に生きていた。
ろくでもない人種が視界に入らないだけかもしれないけど。



そしてついに、「絵」が要らない瞬間が出てきた。
ずっと絵と創作行為、創作物に寄りかかって生きてきたのに。
こんな日は、死ぬまで訪れないんだろうと思っていたのに。




客観的にはかなり衰弱しきった、生物として息絶える寸前のような状態でやってきたと思う。
深くだだっ広い海で、じたばた溺れ藻掻いて、たまたま傍にあって捕まりやすかった「絵」という流木に捕まっていた。




寂しい話だけど、noteでも幾度か言っているように、それは「絵」でなくてもきっと良かった。
衰弱した今にも死にそうな心身には、「鉛筆を持つ」ことがなんとか出来そうなレベルだった。

心身が健やかになるにつれ、自身の置かれていた健康状態がいかに底辺であったか思い知らされる。




自分の生きづらさは、結局のところ多方面で健やかではなかった。現実はそんなものだった。

両親がいて、存在をただ受け入れられて、栄養をそれなりにしっかり摂れて、毎日同じ時間に寝て、日が昇ったら起きて精力的に活動する。
愛する人や大切な友人や、もの、いま持っているすべてに感謝して、大切にする。

必要なのはそれだけだった。他には何も要らない。
そう自然と口に出た。
なんて難しいシンプルだったんだろう。



いままで物を買って、買って、心の隙間を埋めていた。餓鬼のように、ずっとずっと満たされなかった。
これからも満たされないと思っていた。満たされてはいけないのかもとも思っていた。

ほら、「ハングリー精神を持て。満足したら成長が終わる」って言うし。
まあこれは、ビジネスの話かもしれないね。

ものによるのかもしれないけど、きっと満たされなければ次のステージに進めないんだよな。



2日前ぐらいだろうか。ふっと目覚めるように気づいた。
『私がなりたい人間は、果たして毎日絵を描くような人間だろうか?』と。

悲しいことに、寂しいことに、その答えはNOだった。
もっと身体を動かしたい。創作は頭を使うけれど、たぶん私は感覚で絵を描くタイプで、理路整然とクールにやっていく人間じゃないし、
思考停止して絵に打ち込んでいただけで、別にやることは他に幾らでもきっとあるのだ。



いまのスタイルは生きづらさは癒やしてくれる。でも癒やされた状態ではあまり得るものがない。
私は足りないものが無くなると、「マイナスからゼロ地点に戻る」と、何も無くなってしまう。

ゼロ地点に合った次のやりたいことを探す時期に来ている。


何も考えずに、身体の求めるままダンスとか、スポーツをしたいという気持ちが少しずつ思い出されてきた。

スポーツ用の水着を買って、スポーツセンターで運動をしたいという気持ちを、とうとう形に出来そうな時期が来た。
ダンスも、いつか近いうち現実的に習える日が来るのかもしれない。


SASUKEとかサーカス団員みたいなアクロバットも、小さい頃からずっと憧れていて、でもそれは『夢』で、
でもいまはもしかしたら普通に現実と地続きで、全然達成できるビジョンかもな、なんて気がしてくる。




いまは無理でも、「そういう人間」として生きていれば、「そういう人間」を呼び寄せて、お互い引き寄せあって、繋がっていく。





いままで私を支えてくれた絵と創作という『人生』を、私は手放せるだろうか。

いや、手放さなくても良いか。0か100かで考えなくてもいいんだ。
ただ、好きな打ち込めることが増えていくだけで、また辛くなった時に力を借りたらいいし、
一生の相棒は何人いたっていいものな。

というかたぶんこの記事を書いた数時間後とかにも絵は描くんでしょうよ。
絵に幾ら寄りかかってきて、それが要らなくなってきたとしても、
「絵自体が好き」であることは変わらないし。

感情を放出する手段としても、これからも使ってったらいいよ。

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