結局、絵を描くこと以上に生を実感できる事など無いのかもしれない

ゴッホの絵本を読んだ。


私と同じだ、と思った。
彼も生きていることがいっぱいいっぱいで、絵を描くことで救われていた。
絵を描くことが最上の歓びだった。

どうして、こんなに心の美しい人が、こんなに悲しい老後で死にゆくのだろう。こみ上げてきた感情に泣きそうになってしまった。
友のゴーギャンとの日々。麦畑。弟のテオ。彼にとってはどれも宝物であったのだろう。瞳の綺麗な、心の綺麗な人であったのだろうな。
絵本だから、描かれてない部分も多いんだろうけど。


私は、幸せになった。
満たされたものはとても多い。それでもやはり、『』は不要にならなかった。


いまは精神日記として絵を描いている。己の心の内模様を絵にし、『痛み』を形に残し、それを他人に理解してもらえたその瞬間だけが、一番私は喜びと安らぎを感じられる
こんなに心が歓ぶことってほかにあるんだろうか?


いや、ある。アート作品に触れている時だ。アートと表現行為だけが、私を私そのもので居させてくれる。


私の心は孤独だ。ネットでは特に孤独感が強いので、最近は彼氏くんによくぼやいている。
もう隠し事も恥ずかしいこともあまり無くなって、絵を目の前で描くことも増えた。そうしたら、彼氏くんがよく絵を見てくれるようになった。


Twitterで、先日創作クラスタさんと繋がろうとタグを付けてポストをしてみた。けれど虚しくて、次の日に消してしまった。

私が本当に心から求める人とだけ関わっていたい。そんな人からだけ影響を受けたい。
私が興味のある対象はそう多くはない。

どんな人からも学べる素敵なところがあるけれど、とにかく私は、この世が複雑すぎるので、考えることが多すぎて疲れてしまう。出来るだけ、刺激を受けないように篭っていたい。

怖い。怖い。怖い。何が?人が?
否定されるのが?冷たい目を向けられるのが?自分が傷つくのが?わかってもらえないのが?


二次創作をアップするのが辛い。
それは、みんな「絵の外側から入る」からだ。
外側ありきなんだ。私は『目で見えないもの』を描きたいし、見てほしい。

外側を求められても、私の心は渇くばかりで、ちっとも満たされない。
虚しくなって、それが怒りに変わった時、いろいろなものを破壊してきた。




確かに私は自分の外見が気に入っているし、雑貨だって見た目で選ぶぐらいには見た目を重視している。
けれどそれは『その形になった、それそのものの生き様』という見えないものを愛しているゆえだ。

形だけ似せて、魂の伴わないものに私は興味がない。例えば、安価に量産された模造類似品、とか。



私の内面が拙かったころ、私はとても醜かった。頭はぼさぼさで顔はストレスとのぼせで常時赤く、いつも恥ずかしかった。
常にストレスから逃げ、他人からも逃げていた。最も立ち向かう力そのものと知識が無かった。

いまの私は少しずつ段階的に、心が美しく変わってきたと思っている。
見た目もそれに追いついて、相応に変化してきた。どんなに取り繕っても内面はにじみ出てくるものなんだ。


もう、心を表現する絵だけを、精神性を表現する絵だけを発信していきたい、そのほうがいいんだろう、と思えてくる。
調子が良いときは全く問題ないのだけれど、自我が不安定になるともう駄目だ。そういう『見た目の旨味を美味しくいただく』タイプの描き方は。
頭がバグって、全然上手く行かなくなる。絵を出してからもひたすらに虚しく、ブクマをされても怒りの感情ばかりが湧いてくる。
結局私の内側の問題でしかないのだ。

太一の絵を描きたい。彼の『目に見えないもの』を描きたい。そしてそれを彼と、デジモンの根っこを見ている人に伝えたい。わかってほしい。共鳴したい。

でもわかって貰えるまでがとてもとても苦しい。そしていっぱい傷つくのだろう。


傷ついてきて、親の顔色を常にうかがう幼少期を送ってしまったせいで、過度に他人の目を気にしてしまい、自分らしく振る舞うことが出来ない。
いつも錆びたオイル切れの自転車のチェーンみたいに、ギギ…ギ…とひどくカクンカクンな言動になってしまう。

それでも、やっぱり私はわかってほしくて、絵を描き続けるのだろう。自分の痛みの心象を。
そのたびに、強烈な己の美学ナルシシズムと、酷く抉れた不安定な自己肯定感で押しつぶされそうになる。


冬が来る。死にたい季節が来る。
今年は希死念慮とともに自殺に踏み切らないことを願う。

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