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躁うつ病になるまで。なってから。そして今。

 どうも、二十代後半で大学生をやっている躁うつ病持ちです。

 最近自分のことを振り返ると「なんか説明するの面倒な人生進んでんなぁ……」と思ったので、いっそのことnoteにまとめてみようかと思います。

 もっと細かく書けるのですが、これ以上は蛇足だなと思ったので大きな出来事以外は省きました。大まかな内容はこれで伝わるんじゃないかと。


●専門学校&大学、同時進学という無謀な挑戦

 私は小さいときから勉強が嫌いで、高校入試の時期以外は勉強を全くしない。という生活を送る子供でした。幼稚園児の時点で勉強嫌いを発症していました。ほんとそのぐらい努力嫌いでしたね。

 そんな私でしたが、高卒後の進路を決めるときに「さすがにこのまま社会人になったらダメだ」と思い、進学して努力嫌いを直そうと考えました。

 親の教育により、笑顔や受け答えだけは出来る人間だったので、AO入試でサクッと入学権利を得て進学。

 しかしここで、専門学校に通学しつつ通信で大学の勉強を行う、という普通の学生ですら大変な学科に進んでしまったのです。専門的な知識を身に着け、資格を取得し、大学卒の学歴を得る。それがメリットの学科でした。

 大変ではあるけど何とかなるだろうと楽観視していました。厳しい環境に身を置けば努力嫌いも直ってくれるだろうと思っていました。


●大学3年からすべてが変になっていく

 大学3年になり、周りが就職活動の準備をする中、私は大学の単位を取るために必死に勉強していました。

 専門学校の授業を受けていれば大学の単位も自然に取得できるという流れなので、科目を選んだらそれの難易度がすごく高くて……ということはなかったのですが、単純に授業についていけなくなり、一人だけ追加で科目を取ったりして補う日々が続いていました。

 そして4つのストレスにさらされ続けます。

①成績不振 ②通学時間の長さ ③毎日続く母と叔母の大声電話 ④私とは対照的に勉強のできる妹への申し訳なさ

①はそのまんまです。これが影響して就職活動は全くできませんでした。

②は毎日往復3時間の通学が本当に苦痛でした(たぶん社会人になれば普通のことになるのでしょうけど、私には地獄でした)。

③書いたまんまです。母と叔母が毎日大声で電話しているのです。スピーカーモードになっているので通話内容も丸聞こえ。内容は「日本は外国人(在日韓国人)に侵略されている」「もう日本人はほとんどいない」「自分たちは在日に殺される」などなど。典型的な統合失調症の妄想です。この話を毎日大声で延々と聞かされ続けるのです。聞かされる側の精神が持つわけがありません。家で安らげる時間などありませんでした。

④私には妹がいるのですが、私とは全く逆の存在で、勉強で不満を漏らした様子など見たことがなく、推薦で短大に進学。アルバイト、委員会をこなしながら順調に単位を取るという生活を送っていました。そんな出来る妹にこんなダメな兄がいるというのを、妹のためにも隠したかった、ということで、妹との繋がりをほぼ断っていました。3年ほど会話もほぼしませんでした。


 そして心身に症状が出るように。

①まずはゲーム依存症になりました。片道1時間半の通学を終えて帰宅したらPCの前に座り、数時間ネトゲ。これで現実逃避し、ストレス発散をしていました。ネトゲする→勉強が進まない→授業についていけない→単位が取れない→ストレスが溜まる→無限ループ。また深夜までネトゲを続けていたため、夜眠れず、昼間の眠気が強くなるという状態になりました。

性格が攻撃的になりました。リアルでは変わりなかったのですが、ツイッターでの発言が異様なほど過激化し、おそらく周囲をドン引きさせていました。当時は攻撃的になっているとは全く分からず、これが素の性格なんだと思い込んでいました。

朝起きると体が動かない日が出てきました。指先しか動かせず、起き上がることができないのです。学校に休みの電話を入れるのも嫌で嫌でたまらなくて、友人にメッセージを送って伝えてもらうようにしていました。

電話恐怖症になりました。かけるのはもちろん、鳴る音を聞くだけですごいストレスになりました。これはストレス3が原因です。

授業内容を一瞬で忘れることが出てきました。先ほどまでなんの問題もなく課題を解いていたのに、その数分後の復習問題でやり方が分からなくなり、ゼロの状態に戻る。これを繰り返し、1年生で習う内容すら分からなくなり、一人だけ完全に孤立。グループ課題では、存在するだけで邪魔になる人になりました。

 こんな状態が大学3年の後半からずっと続き、専門学校はなんとか卒業。大学のほうは留年し、通信の大学生という身分と、奨学金という名の多額の借金、そして国家資格試験に7回落ちたというトラウマが残りました。


●専門学校卒業。留年した大学生へ

 専門学校を卒業し、通信の大学生という身分になった私は、往復3時間の通学時間が無くなり、実家で勉強することになりました。で、何をしていたかというと……ストレス3の電話地獄が続いたため、アルバイトも勉強もせずネトゲしてストレス発散。生活は昼夜逆転し、朝4時ごろまで起きて昼間は寝ていました。

 そんな生活を1ヵ月ほど続けたとき、ネトゲの通話中にフレンドさんが、私がいないと勘違いしてこんな言葉を口にしたのです。

「ラウィさんって睡眠障害持ってたりするのかな……」

 ハッとしました。障害……そんなこと考えたことがなかったです。すべては私の責任で、だらしない生活を送っているのが原因だと思い込んでいたためです。

 これでようやく病院に行ったのですが、この時に行ったのはかかりつけの内科。「とりあえずはい、睡眠導入剤」というライトな感じで薬を貰いました。ですがそんなので治るわけがなく、だらだらと生活が続きます。


●母親の暴走。電話地獄の終わり

 そんな状態の中、事件が起こります。朝起きると母親の様子がおかしいのです。何か雰囲気が違う……そう思ったのですが、朝は無視し、そのまま自室でネトゲ。しかし夜、リビングに向かうと異様な光景が目に飛び込んできました。手に小さいフライパンを持ち、リビングをうろうろし続ける母の姿。その様子を見て明らかに異常だと感じた私。そして母はこう言ったのです。

母「今から東京に行くよ。準備して」

私「……は?なんで?」

母「東京に行かなきゃいけないの」

私「どうやって?w今から飛行機なんて取れないよ?w」

母「ヘリコプターで行くよ」

 元々狂っていたと思っていましたが「完全に頭がイッた」と思いました。私は何かを言ってその場を回避し、母がおかしくなったと父に連絡。父が帰宅した時に「これは絶対病院に連れて行ったほうがいい。明日電話相談所に電話してみる」と言ってその日は終了。

 が時すでに遅し。夜中、大音量でラジオを流し始めて睡眠を妨害。それに怒った父が珍しく大声で怒鳴ったところ、フライパンを振り回し、食器を投げつけ、ガラスが大量に散乱。すぐに警察に通報し、色々あって精神病院に強制入院、隔離させることになりました。

 母の診断は統合失調症の妄想型。薬やカウンセリングによる治療を半年以上行い、症状を徐々に抑えていきました。

 皮肉なことにこの事件によって私は、最大のストレスだった電話地獄から解放されることになったのです。


●そして睡眠障害、躁うつ病と診断される

 その事件から数日後。また内科に行ったところ、「精神科のある病院に行ったほうがいいかもしれない。ここおすすめだから予約して行ってみて」と言われました。

 精神科というと暗いイメージがあったのですが、実際に行ってみると普通の病院。それどころか内科の病院より明るい雰囲気でした。

 もう内容は覚えていませんが、先生と色々なことを話し、結果、睡眠障害躁うつ病と診断されました。躁うつ病とはテンションが極端に高い躁の状態と、テンションが極端に低くなるうつの状態を行き来する病気のことです。

 今思うと、ツイッターで攻撃的になっていたのは躁の状態、朝カラダが動かない状態がうつ状態だったのかなと思います。

 治療法は母と同じく、カウンセリングと薬物治療で精神を安定させています。

 ちなみに母は半年ほど入院していたのですが、その期間中私は一度も面会に行きませんでした。退院すると聞いたときは「永遠に病院にいればいいのに」と思ったぐらいです。それほど嫌いになっていましたし、会わないことでストレスを溜めないようにしていました。しかし退院して帰ってきた母は驚くほどやせ細り、まるで別人かのようになっていました。そんな姿を見て、しょうがない……となんとか自分に納得させ、これまでの行いについて何も言わずに許すことにしました。


●母の再入院。コロナ。そして別れ

 ここからは親友にしか話していないこと。

 母の退院から3年ほど経過したでしょうか。薬をちゃんと飲んだか、母に時々確認をしていたのですが、徐々に体調が悪化。食事を取ると激しい動悸がすると言い出し、最後には救急車を呼ぶレベルに。結局数十分で動機が治まり、診断のしようがないということで、その場は終了。

 母に再確認すると、朝の薬を飲んでいないということが分かったため、最初に入院した精神科の病院に”薬の管理ができない”という理由を無理やりつけて再入院させ、様子を見てもらうことに。

 正直うんざりしました。あれだけ確認して、ちゃんと飲まないと悪くなるからと言い続けたのに、結局嘘をつかれていたというところに。そんな母に毎月10万以上の入院費を払わなければいけないことにイラつきました。

 でも統合失調症だから。そう自分に言い聞かせ、今度は毎週母の病院を訪れ、面会をしました。なんとか話題を作って話をし、内心複雑ながら、それでも楽しい日々を送っていました。

 そんなのが4カ月ほど続き、そろそろ退院できるかもしれない。という話が出たところで、コロナが出てきました。感染防止のため、2月ごろから面会謝絶となりました。そしてそれが、最期の会話になりました。

 今月はじめ。夜。入院先の病院から電話。

 母が亡くなったと。

 1時間前まで普通に過ごしていたが、トイレで倒れているのが発見され、そのまま死亡確認。死因は急性心不全となりました。

 私は小学3年生で家族の死について真剣に悩むような子供だったので、泣きはしませんでしたし、悲しいという気持ちも沸きませんでした。これで私はずっと家事担当か。と思った程度です。

 そして葬式なりなんなりを色々済ませ、今はさまざまなものの手続きをしている。というところです。



●最後に現状報告

 というわけで今の環境、状態についてです。

 躁うつ病ですが、今は比較的安定しています。体のだるさ、眠気、集中力が極端に落ちていて本が読めないなどの症状が続いていますが。なので治療は続けています。

 母の死に関しては相変わらず何とも思っていません。面会謝絶の期間が長かったからでしょうね。普段と何も変わらない。という感じです。

 学業は、ギリギリの状態で勉強しています。また留年するかしないか、あるいは指定の在学期間を超え、退学させられるか、という状況です。まあこちらは体調と相談しながら頑張っていきます。

 生活のこと。今は実家で家事をし、父の負担を減らしたいと考えて行動しています。まあ食事の準備、食器洗い、洗濯、軽く掃除という程度ですけどね。父も買い出しや掃除の協力をしてくれているため、こちらもなんとかなっています。

 目標としましては、大学をちゃんと卒業したら2ヶ月ほどお休みをいただいてのんびりし、その後アルバイトを始めて、少しずつ社会生活に慣れていこうと考えています。色々と支払いもありますからね。奨学金とか年金とか……。

 という感じです。


 では最後に私から言いたいことが3つ。

①躁うつ病なのでメンタルガバだけど許してね(すべて許せという意味ではない。酷い場合は言ってください)。

②躁うつ病や留年など、昔のことを話すと、聞いてごめんという意味?で謝られることがあるのですが、謝らないでください。全てはもう終わってることですし、私は何とも思っていません。逆に私が申し訳なく感じます。

③人は簡単に変われません。性格も、精神も、肉体も。なので無茶はしないでください。身の丈に合わない学校に進学して後悔した私のようにならないでください。やらないで後悔するよりやって後悔するほうがいいとか言いますけど、それにも限度があります。よく考えて。


 以上です。乱文失礼しました。

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