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Cahier 2020.08.09

言葉を失うような暑さ。とはいえ、気温は35℃程度のものだから、エアコンの効いた小さな部屋でテレワークに勤しむ日々を送るうちに、すっかり暑さへの耐性を欠いてしまっただけなのかもしれない。

軒下やちょっとした木陰で涼むであるとか、雑巾がけした後ピカピカになった床を裸足の足裏が触れる瞬間とか、それこそ風に鳴く風鈴の音であるとか、暑さの中に一寸の涼を感じ取る感覚が退化してしまっているような。

毎年この季節になると、日本戦没学生記念会の編んだ『きけ わだつみのこえ』を手に取る。白日の下、街路樹の緑の中で蝉の鳴く声を聞いていると、夏日影のように濃く深く、この本のことが心に刺さる。

もう何度も語られてきたことをここで繰り返すこともないけれど、第二次大戦の頃、荒れ狂う軍国主義の渦に巻き込まれていった人々の中には、もちろんそれを疑問視したり批判的に捉えていた人もいたわけで、『わだつみのこえ』に収められているテクストは、最後まで自分だけで考え、大切なもの・人を思い、書くことを辞めなかった人たちの、鋭く煌めきながらも戦火に散ってしまった知性と魂の欠片なのだと思う。

コロナ対策を巡ってもそれ以前にも、現政権には何かと失望の声が多い。

たしかに、今年の広島・長崎の追悼文ひとつを取ってみても驚くほどの言葉の空虚さで、わたしのようなノンポリに近い人間ですら軽く寒気を覚えたほどだ。

でもたぶん、この程度の失望ではこの国は変わらない。この先もずっと変わらないだろう。絶望するべきときに絶望し切れず、何となく立ち上がって歩き出してしまったわたしたちの国は、多少の失望くらいでは変わる勇気を持つことができない。世界で唯一、核兵器が実戦使用された、しかも二度も。このおそるべき事実に対してすら絶望し切れなかった国。福島第一原発事故があっても絶望し切れない国。この先一体どんなカタストロフがわたしたちを絶望させ、変える勇気を授けてくれるんだろう。批判でもなんでもなく、単純にわたしは、日本という国が絶望による自己懐疑の回路を持たない国なんだと思う。もちろん、個人や小さな組織単位では後悔、絶望している人々が多い。でも大きな集団や組織になると、それができない。それが日本という国のひとつの姿なんじゃないだろうか。

そういう国だから、戦争や原発事故の記憶を風化させない、ということだってもちろん難しい。人は忘れるようにできている。辛いこと苦しいことならなおさら忘れる必要があるので、「忘れない努力を強いる」ということは「絶望しろと強いる」ことと同じくらい困難だ。忘れる努力はできるし、絶望しないように前向きに頑張ることはできる。その逆は結構、難しい。

以前、津田大介さんの主催する「ポリタス」で、映画監督の森達也さんが「絶望しない国で生きる、ということ」というタイトルの記事を寄せていた。なぜかもうページにアクセスができず、再読できないのが残念だけど、著書『不寛容な時代のポピュリズム』にそのスピリットは凝縮されている。

わたしたちは、戦争や原発事故、あるいは感染症によって、絶望とともに失われた多くの命の犠牲のもと、絶望しないこの国で、日常を生きている。

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