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制作の話

死についての話でもある。

僕は制作にあたり、切っても切り離せないものがある。

それは「死」である。

これを見た人は、ネガティヴだな…嫌だな…と思う人もいるだろう。でも僕は決してマイナスの意味で死を捉えているわけじゃない。むしろ逆。

長生きしたい人は多いと思う。そりゃ死ぬのは誰だって怖いし、そう感じるように生き物は出来ている。故に生に食らいつき生きた証として子孫を残そうともする。それがごく一般的な生の営みだ。だからこそ長生きして人生を長く謳歌したい人が沢山いたって不思議じゃないしそれで良いと思う。

でも死ぬ。いずれ死ぬし必ず死ぬ。どう足掻いても。

人に限らず、この地球に生まれたもの全ていつかは死んで、朽ち果てやがて土に還る。そしてその土から草花や蟲達が栄養を吸収し新たな命として世界に顔を出す。その繰り返し。その繰り返しの中に僕たちがいる。それがこの世界の循環システムであり輪廻だと思う。

じゃあいずれ死ぬなら、死に方を選びたい。

僕は長生きしたいとは思はない。いつかはボケるし身体はどんどん思うように動かなくなり、満足に起き上がれなくなる。病気もしやすくなるだろう。

もし、あなたが脳死状態になったら、どうして欲しい?目を覚ますかもわからないまま管に繋がれてそれでも生きていたい?もしそこに意識だけがあったとしまらどうする?僕は恐ろしくゾッとする。せめて死にたい時に死にたいし、施しようが無いならそのまま自然な死に方をさせて欲しい。            

僕の祖父は僕が学部生の頃に急に亡くなった。突然の脳出血で脳死状態になってしまった。駆けつけた時にはまだ一応機械に繋がれていて心臓は動いていたけど、延命は無駄だとお医者さんが言っていた。その時、僕は祖父の徐々に冷たくなっていく手を強く握りながら安らかに眠って欲しいと強く思った。幸い(?)、我が家は延命処置をしない主義だったので(その時初めてそうなのだと知った)、ホッとした。 祖父はとても人望の厚い教師だった。退職後も自由に旅したり好きな事して楽しく過ごし地域の人と沢山交流し慕われている人だった。とても元気で美丈夫な人だった。そんな人が突然死ぬとは思いもしなかったけど、祖父の凄さを実感したのはその後だった。驚くほどの人達が葬式に参列し、身内でなくともぼろぼろと泣く人までおり、身辺整理はおろか旅の記録に至るまで事細かく丁寧にデータや書類に纏めてあったのだ。死ぬ何年も前からいつ死んでも大方周りが困らぬようにしてあった。10年近く前に遺影まで済ませてあるのだから、笑うしか無い。いつ死んでも悔いのない生き方をしろと言われた気がした。この時、僕は画家になろうと決めた。

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絵の話に戻ろう。僕はジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」という作品が好きだ。シェイクスピアのハムレットに登場するオフィーリアの死に行く直前の様が見事に描かれている。静けさと冷たさと植物の生い茂る小河に身を委ね歌を口ずさみながら流れてゆくその様はとても魅力的に僕の心を誘惑する。あぁ、こんな風に美しく死ねたらどれだけ嬉しいだろう… この世界観が僕の死生観とも言える情景の根幹にあると逝っても良い。

「(前略)すてきな花輪を、垂れた枝にかけようと、柳によじ登ったとたん、意地の悪い枝が折れ、花輪もろとも、まっさかさまに、涙の川に落ちました。裾が大きく広がって、人魚のようにしばらく体を浮かせて―――そのあいだ、あの子は古い小唄を口ずさみ、自分の不幸が分からぬ様子―――まるで水の中で暮らす妖精のように。でも、それも長くは続かず、服が水を吸って重くなり、哀れ、あの子を美しい歌から、泥まみれの死の底へ引きずり下ろしたのです。」
オフィーリアの死は、文学の中で最も詩的に書かれた死の場面の一つとして称賛された。 (wiki参照)

らしい。

ミレーはその景色を正確な自然の描写と共に描き、美しく優雅で幽玄的な儚さをも表してると感じる。子供の頃眺めていた古い画集の中で心奪われたこの世界観は僕に絵のベースの形成していると思う。なんと言っても僕の生まれ育った地域はかなりの田舎で山や川が本当に美しい自然に満ち溢れる土地(良く言えば)だったのでよりその世界観を肌身に感じたのかもしれない。しばしば僕は、ミレーのオフィーリアのように死にたいと公言するようになったほどだ。

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その儚さと冷たさに美しさを見出した僕は、自分の画風を考え始めた時分に日本絵画(もともと好きだった)と出会う事でより美しいモノになると考えた。僕は当時油画専攻だったが油絵具の透明感と写実性を用いて日本絵画の余白と精神性の要素を取り込み表現しようと試みた。コレが今に至る経緯だ。他にも色んなものに影響を受けたのは間違いない。幼少から地元の催事や祭りには参加し神社の境内で友達よく遊び、お寺のお墓によく散歩しに行って居たし、古くから残る文化や宗教、伝統に触れながら育ち、次第にそこに興味を持ち始めたのも必然だったかも知れない。自分の強い心象風景を形成するには充分豊かな土地だっただろう。お祭りでは浴衣を着るようになり、京都に来てからはアンティークの着物にまで手を出すようにもなったし、呉服屋に勤めたこともある。着物に限らず伝統と歴史と文化が生きている京都を学びの地に選んだのも割と無意識的だったが、振り返ると当然と言えば当然だったかもしれない。そうやって関心のあるものを取り込みながら、影響を受けながら絵を描いている。故にモチーフは日本文化的なものや精神性、魂に由来する物が殆どなのは、これを読んだ後に作品を見て貰えば分かってもらえる事だろう。

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そして死を描いてる。きっとこれからも。心の寄り添う景色として。有限であり幽玄な世界で、湿気と冷たさと儚さの中で茂る草木花々の中で魂が憩う場として。また次に繋がる強い意思として、僕は絵を描いている。今はただ

乱文失礼

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