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貴方が美しいということ【全話まとめ】

 僕は一瞬で激しく心を奪われた。
 珊瑚礁の海のような、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳に。

 青い光に満たされた空間の中で、取り囲むように揺らめく海百合を背景に立つ彼女は、ベージュのジーンズと白いシャツという簡素な服装だった。
 それでも、無造作に束ねた長い亜麻色の髪、ほっそりした手足と、細くて優美な首から肩の線、均衡のとれた目鼻立ちは……ただ立っているだけで眩しく輝いて見えた。生まれて十六年目で、こんな綺麗な人を初めて見た。

「初めまして。ミキ・アヅマと申します。あなたの話は彼から何度も聞いています。今年から高等部に入学されると。おめでとうございます」
 彼女は微笑んで、長さ三十センチ位の、細長いカプセル状のものを僕に手渡し、僕はそれに目を落とした。カプセルの中は透明な液体で満たされていて、茎も葉も全てが青い花……海百合が封じ込められている。

「海里(かいり)、海百合の本物を見た事はある?初めてか。入学祝いに現金も考えたんだけどな、味気ないだろ。女はこういうのを喜ぶ。好きな子にでもあげたらいい」
 僕の叔父さん、金城樹貴(キンジョウタツキ)は、彼女の背後から腰に手を回し、僕の方に身をかがめて、肩をポンと叩いた。
 まくられたシャツから見える引き締まった腕の筋肉。仕事もプライベートもアグレッシブな叔父さんは一族会社の最年少取締役で、目覚ましい実績を上げ、この調子なら次期トップもいずれ視界に入るだろうと父が言っていた事を思い出す。

「ありがとう、叔父さん。凄く綺麗。中に入っているこの……透明な水みたいなこれ。これが『しとね』なんだね」
「そ。企業秘密のね」
 僕は周囲一面の水槽の中に揺れている海百合に目をやり、すぐに目の前の彼女に視線を戻す。正直言って、叔父さんも海百合もどうでもよかった。彼女ともっと話したい。けど叔父の前では流石に憚られた。

 この時間帯は天窓からの光が明るく、海百合を透かして、周囲の壁から高層階の眺めが見えた。
 このビルは全て一族の会社で、ここは最上階だ。このフロアは、元はV.I.P専用のレストランだった。
 窓は透明な強化アクリルでできていて、その水槽の中では海百合が栽培されている。外から差し込む光は花を経由して青い光となり、部屋の調度品……栽培に使う機械類や道具、小さなテーブルと二脚の椅子、を照らしている。
 フロアの中心はいくつかの部屋になっていて、その周りをフロアがドーナツ状に囲み、一番外側が海百合の展示栽培スペースになっている。

 スマホの着信音が聞こえて、叔父さんはポケットからスマホを引き出し、僕らから離れて賑やかに話し始めた。
 彼女……ミキさんは、僕を見て微笑んだ。僕の心臓は飛び跳ね、いつもの十倍の速度でやかましく動悸を始める。
「もっと側に行って見てみませんか?」
 彼女は僕を水槽の近くへ連れてゆき、海百合を間近で観察できるようにしてくれた。彼女に近づくと、仄かに花のような香りを感じる。動悸を隠そうとして、わざと熱心に水槽を覗き込む。

 青く半透明な葉と茎を網目状に走る紺色の葉脈が、繊細なレース模様のようだ。先端に行くにつれ、深い紺から澄んだ明るい青に変化し、花弁は空色の透明なセロファンのように重なり合っている。
 海百合は「しとね」と呼ばれる特殊な液体の中でしか生きられない花で、空気中に出すと忽ち枯れてしまう。「しとね」の中に手を入れて直接花に触れても、そこから枯れ出して、溶け崩れてしまうらしい。「しとね」から出せない、触れることの出来ない花。

 ケースに入れた状態で売買され、展示されるこの海百合は高価な花だ。栽培に技術を要し「しとね」の製造方法は会社が独占していた。彼女は会社で唯一の栽培専門の社員で、この場所は彼女の職場だ。そして……公然の秘密として、彼女は叔父の恋人でもある。父が母に話しているのを聞いたことがある。叔父は、跡継ぎを作ることに関心がない。どこからか連れてきた素性の知れない女を囲って栽培をやらせている。それをよく思わない者も多いと。

 叔父は一族の中でも目を惹く存在だ。周りの人間は叔父に対して、怒るか、怖れるか、媚びるか、それを全部混ぜた態度を取っていた。
 叔父は、相手が誰であろうと気さくに話しかけ、議論を仕掛けられれば不敵な笑みと共に論破し、どんなトラブルも笑い飛ばす。
 彼の自分本位で傲慢で、そのくせ酷く魅力的なふるまい。どちらかといえば内向的な僕とは正反対に思えるけれども、僕の目に叔父は好もしく映った。

「海里、あと十分で迎えのエアカーが来る。直通エレベーターで役員専用の車寄せに移動するぞ。……ミキ、じゃあ行ってくる」
 叔父は彼女の背中に手を回し、二人は軽いキスを交わす。叔父は迷いの無い動作で栽培フロアを後にする。僕も叔父について歩き、振り返ると、ミキは僕に軽く手を振っていた。
『後ろ髪を引かれる』という言葉の意味を、僕は初めて知った。

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 僕は自宅前で叔父のエアカーを降り、入れ替わるように両親が車に乗り込んだ。これから一族の大人達は恒例の集まりがある。
 叔父と父は、実の兄弟にも関わらず、個人レベルではお互いを嫌っている。でも、仕事仲間としては信頼し合っているらしい。そういう大人の折り合いのつけ方、というものは、まだ僕にはよく理解できない。

 車が出る直前、叔父は窓から顔を出すと、僕を側に呼び寄せ、耳打ちした。
「海里、栽培室は毎週水曜の十五時以降、直通エレベーターから入れるようにしておく」
 僕は驚いて叔父の顔を見た。叔父はウィンクすると、車の窓を閉めた。

 部屋で着替え、海百合のケースを眺めながら、彼女の事を思い出す。
 青い光に照らされて水色に染まった白いシャツ。窓の側で海百合を覗き込んだとき仄かに香った、彼女の匂い。白い柔らかい花のような。あれは香水だろうか。それにしては自然というか人工的な感じもしなくて……。
 ふと、気が付いた。銀色のケースの下部、ケースごと卓に置けるよう小さなスタンドが収納されている、その金具の部分。強く回すと外れて、中から細い棒が出てきた。スティック型の鍵だ。これはおそらく、直通エレベーターの鍵だろう。
 ようやく叔父の行動に合点がいく。入学祝いは花じゃなく、こっちの方か。わざわざ会社に呼びつけて花を渡す、なんてのは、叔父らしくない。
 また彼女に会える!たちまち気分が高揚する。
叔父は一体どういうつもりなのか……?心の片隅に疑問が湧いたが、彼女に会いたい気持ちが圧倒的過ぎて、それは忽ち忘れ去られた

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 学校の授業が終わると、逸る心を押さえ、迎えにくる送迎用自動ハイヤーに乗り込んだ。行き先を自宅からkinjyo-buildingに変更し、ルート2として登録する。叔父や僕の父、一族が経営するロボティクス社の金城ビル。
 役員用の出入り口から、前回乗ったのと同じエレベーターに乗り込み、スティックキーの差し込み口にキーを差し込んだ。
登録された階に、自動で停止する。最上階。あの、海百合に囲まれた青いフロア。

 彼女は、フロアの中心にあるスペースのドアを開けて、出てきたところだった。僕の姿を見て少し驚いたようだ。僕は事前にアポを取っていなかった事に今更、思い至った。相手が何か言う前に、勝手に口が動き、みっともなく弁明を始める。
「あの!勝手に来てしまってすみません。叔父から鍵を貰って。あの、僕、う、海百合に興味があって。その、栽培方法に。色々教えて貰えたら……その、差し支えない範囲で良いので」
「まぁ、本当に!?嬉しい、そんな人初めて。……分かりました、私がお教えできる範囲で良ければ。でも、その前に、コーヒーはいかがですか?ちょうど、今、淹れようと思っていたの」
「是非!ありがとうございます」
 彼女は機嫌良さげに、再度、先程出てきた場所に入ると、マグカップを二つ持って戻ってきた。どうやら中央に給湯室があるようだ。テーブルの上にマグカップを並べると、フィルターを置き、コーヒー粉を入れ始める。
 僕は胸を撫で下ろし、動悸を少しでも落ち着かせようと密かに深呼吸を繰り返した。

 今日の彼女は、水色のシャツに黒のパンツを履いている。でも、周りの空間に青い光が溢れているので、厳密な色は分からない。
 フィルターにポットで少しずつ湯を注ぎながら、彼女は僕の方をチラッと見た。目が合うと、優しく微笑む。やっと幾らか収まってきた心臓が、また飛び跳ねる。無理矢理に目を逸らすと、周りの海百合に視線を注いだ。咄嗟についた嘘だけど、我ながら悪くない、と思う。僕は足元に鞄を下ろし、ノートを取り出す。

 僕らは片手にコーヒーの入ったマグカップを持ち、それを味わいながら、水槽の海百合をじっくり見て歩いた。
 彼女の説明によると、ここにある海百合は四種類。よく見ると、確かに葉と花の形が違う。茎も葉も青くて、半透明なのは共通しているけど、よくよく見れば、微妙に青の色合いも違う。

「元々の原生種はここの……ゼウスの惑星、カストルの海中に自生していたものでした。“しとね”は、そこの海水の成分を人工的に再現したものです。海水の再現、といっても勿論、簡単なことではありません。ロボティクス社の技術があって初めて可能になり、製造法は企業秘密になっています……」
 僕は、熱心に説明を聞くフリをしながら、彼女の声に聞き惚れていた。海百合を彼女の細い指が指し示す。指先まで完璧に綺麗だ。


 時間はあっと言う間に過ぎ去る。気がつくと二時間が過ぎていた。僕は慌てた。
「長居しちゃってすみません。時間、大丈夫ですか?」
「大丈夫。仕事は午前中に殆ど済ませてるから。午後は本を読んだり音楽を聴いたり、適当に過ごしているの」
「え……そうなんですか」
「樹貴さんから、私の事、何か聞いている?」
「いいえ、特には」
「私、この部屋から出られない体質なの」
「えっ!……住んでいる、んですか、ここに?このフロアに」
「そうなの。……私の皮膚は、日の光を浴びると火傷してしまう。ここの調節された空気から出て外へ行くと、アレルギーを起こして呼吸が出来なくなってしまう。……私が生きていけるのは、UVガラスに囲まれた、このフロアだけ」
 彼女は首を僅かに傾げて手を広げ、周りを見渡して、僕に視線を戻した。
「私はここの花達と同じ。この場所から出たら死んでしまう。樹貴さん曰く、君なら海百合の気持ちが誰よりも分かるだろう、栽培員として最適だって」

 だから、あなたが来てくれてとても嬉しい、良かったらまた来てね、と彼女は笑った。

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 毎週水曜日は、放課後に彼女のところへ行ける。
 僕はそれ以外の日々を惰性で過ごした。学校生活、クラスメイト、授業、家に帰ってからも。
 気がつけば彼女の一挙一動を思い返し、あの魅惑的なエメラルドグリーンの瞳を思い描き、穏やかで耳に優しい声を反芻し、次は何を話そうか、何を持って行こうか……そればかり考える日々だった。
 彼女は本と音楽が好きだ。本は電子書籍より紙の本が好きだ。僕は色んなCDや本を調べたり、人に評判を聞いたりして、毎週水曜日に持って行った。
 フロアの中心のスペースは居住空間になっていて、大きなベッド以外にあまりモノが無いシンプルな部屋と、トイレと風呂場と簡易キッチンがあった。
 彼女は食べ物にもアレルギーを起こしやすく、厳密に選別、管理された食材を定期的に届けて貰って、生活しているらしい。なのでお菓子は持って行かない。外にも出られず、運動をしている様子もないのに、あんなに華奢で細いのは、そのお陰かもしれない。


 彼女は現在の生活にストレスを感じていない様子だった。僕が訪ねると、いつも喜んでくれ、二人でコーヒーを飲み、海百合についてレクチャーしてもらい、その後の時間は音楽を聴き、本の感想を話し合い、僕が持ち込んだタブレット機器で映像を観たりした。
 彼女はたいそう聞き上手で、いつもあっと言う間に時が過ぎた。少しずつ、でも確実に、僕がそこに滞在する時間は延びてゆき、帰る時間が来てエレベーターに乗り込む時の辛さは、大きくなっていった。

「海里!これ、こないだ言ってたやつ、CD」
 中休みの時間。クラスメイトのマイケルが僕の席に歩み寄ると、赤いケースに入ったCDを顔の横で一振りし、僕に手渡した。僕は手元のCDの裏と表を交互に眺め
「サンキュー!早めに返すな」
と言った。後ろの席から張(ちゃん)が声を上げた。
「海里、そんなん聞くんだ。……な、お前のオヤジ、ロボティクスの役員だろ。こないだのデモ、ヤバかったらしーじゃん。何か聞いてる?」
「何、ヤバいって」
すかさずマイケルが食いつく。張はマイケルに
「ニュースでやってんじゃん。子供の数が減ってる原因の一つがロボットだっていう団体がいて。ロボティクスは最大手だから、デモとか嫌がらせの標的になってんだよ。そこで事件が起こったらしい」
 先週、金城ビルの側で行われたデモで、デモ隊と警官隊との間に小競り合いが起き、怪我人が出たらしい。張が言っているのは、その件だろう。僕は溜息をついた。
「何も言われてない。最近、あんまり帰ってこないし。別にロボット作ってるのはロボティクスだけじゃないし、ロボットは百年以上前から人間の生活に浸透してるのに、今更、それが原因だとか言われても」
「子供なんて、もうずっと減り続けてんだろ?何で今になってそんな騒ぐんかな?」
張がもっともな質問をする。今度はマイケルが答えた。
「その減り方がヤバいってさ。減る国もあれば増える国もあって……ってのが普通だろ。でもここ数年、どの国でも生まれる赤ん坊がどんどん減ってるんだって。しかも減りっぷりが尋常じゃないらしい。このままだとマジでゼロになっちまう。そんな事、このゼウスでは史上初めての事だとかなんとか」
「何でお前、そんな詳しいの」
「うちの父親、役所の人間だから。家で電話してんの、こないだ聞いた」
 僕は呟く。
「ロボット関係なくね?」
 マイケルと張は顔を見合わせる。マイケルは僕に向かって
「ロボティクスがさ、ちょっと前に発売した子供型ロボット、あれがマズかったんじゃねぇの。出来が良すぎて、あれで満足して子供作らなくなる夫婦が増えてるとか、ネットニュースで見たぞ」
 僕は反論を試みた。
「いくら出来が良くても、本物の人間の子供と比べたらまだまだなんじゃないの?だって成長しないんだよ。人形かペットみたいなもんだろ。ロボットで満足する人達と、赤ちゃんの育児をしたい人達は、元々違う価値観を持ってるんだと思うけどなぁ」
「sunちゃんねるで、これは人類終了の前触れじゃないかって書き込みが盛り上がって……」
 そこで数学の教師が教室に入ってきた。張は話を中断して後ろの席にひっこみ、マイケルは慌てて自分の席に駆け戻った。
 僕はタブレットを机から引っ張り出しながら、知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せる。胸がざわつく。
 毎週水曜日に向かうロボティクスのビル。そこで本当には何が作られているんだろう。デモの人々は何に、そんなに腹を立てているんだろう。

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 僕が栽培室に通い出してから、半年が経った。
 彼女は、テーブルの上に広げた画集を眺め、いつものマグカップからコーヒーを口に含んだ。壁に備え付けられたCDプレーヤーから、歌が流れている。

“貴方は美しい
月や星空や海の様
儚く消える夢の様
美しいものは遠い所にしかなかった”

“貴方は美しい
けれどもそれを言葉には出来ない
美しいと言ってしまえば
貴方が遠い存在となってしまう”

「ここの歌詞が綺麗。この歌、素敵」
 彼女は目を伏せて微笑む。睫毛の影が頬に落ちる。僕はそれを眺める度に息が詰まりそうになる。この景色、この時間が永久に続けばいいのに、と強く思う。

 僕の視界に彼女が居て僕に微笑んでくれる。それだけで幸せ。……だったはず。なのに最近は、それに何かが紛れこみ、幸せを感じれば感じるほど、腹の底の、どろどろした熱い塊のようなものが大きくなってゆく。
 僕はそれを怖れる。その存在を彼女に気づかれまいとする。胸を焦がし、喉元に競り上がってくるそれを、コーヒーと一緒に苦く呑み下す。

“美しいと言ってしまえば
貴方が遠い存在となってしまう……”

 この歌詞が、今の自分の心を写し撮ったように思えて。
 彼女は。叔父の恋人。向けられる微笑みを勘違いしてはいけない。目の前に居るのに、触れることのできない、水面の月のように遠いひと。
「そうそう!」
 彼女がいきなり顔を上げて僕を見た。
「なに?」
 心臓が跳ねるのを悟られまいと、僕は強いて無表情を保つ。
「海里は来月、誕生日だって樹貴さんから聞いたの。いくつになるの?」
「じゅう、しち」
「おめでとう !何かお祝いさせて ?ああでも、私、一緒に出かけることは出来ないし、ネットで買ったものをあげることしかできない……私に何かして欲しいことある?」
 彼女から僕にして欲しいこと? ありすぎるほどに沢山ある。でもそれは口に出せない。僕は口を強くつぐみ、しばらく考え込んだ。
「……プレゼントを、させて欲しい。僕からあなたに」
「え? どういうこと?」
「僕がプレゼントしたアクセサリーを、あなたに着けて貰いたい。ダメかな?」
「でも、それだと私が貰う形になっちゃうと思うけど」
「それでいいから、お願い」
「……分かった、貴方がそれでいいなら。じゃあ、私、待ってるね……いいのかな、でも嬉しい。アクセサリーを貰うのは初めて」
「ええっ、叔父さんから何も貰ったことないの?」
「今の、この環境は彼からの贈り物。それだけで私は充分幸せ。彼にもそう言ってあるの、他には何も要らないって。こうして海里とも会えるし」
「そういえば、指輪のひとつも着けてるとこを見た事ないと思ってた。持って無いの?」
「無いわ。作業の時に汚れても困るし」
「ああ……」
 そうだった。僕が来る頃にはいつも仕事は終わっていたから、つい忘れそうになる。僕は彼女の手を取り、手を調べるフリをして、その滑らかな細い指の一本ずつを、根本から先の方までそっと撫ぜた。そこから目を離さずに
「そろそろ、僕に“しとね”の調合を手伝わせてよ」
 と言ってみた。しばしの沈黙。僕は目を上げ、彼女の顔を見てみる。
 彼女は手を僕に預けて、何かを堪えるような潤んだ眼で二人の手を見ている。僕と目が合うと、慌てて手を引っ込め微笑みを浮かべてみせる。
……これ以上はまずい。もう近づくな。
 僕は内心の声を無視して彼女との距離を詰める。白い花の香り。彼女は逃げない。もう一歩踏み込み、至近距離から彼女の首筋、鎖骨に指を触れる。ごく、微かに。
「……プレゼントは……ネックレスがいいかな。きっとあなたに似合う」
 小声で囁いた。間近で見る彼女の顔は熱に浮かされたような、陶然とした表情……けれど、ふと怯えたように顔がこわばり、一歩後ろに下がると僕に背を向けて、ゆっくりと海百合の水槽の方へと歩いてゆく。

 僕の気持ちを彼女は気づいてる?

 きっと。

 来ないでくれと拒絶されるわけでもなく、これ以上触れられるわけでもない。真意が掴めない。

 もっと触れ合いたい。でも怖い。全て台無しになってしまうかもしれない。僕達の間にあるものが何か、これ以上見つめるまいと目を逸らす。
 この半年で、僕と彼女の目線の高さは同じになった。
早く大人になりたい。彼女を守れるくらいに。

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 夜の帳が降りると、薄暗い間接照明に浮かび上がる海百合は、青い宝石のように妖しく輝く。窓辺で腕組みをし、夜景を眺めていた樹貴は、ドアの開く音に首を巡らせる。
 中央の居住スペースから女が出てくる。女は黒いシャツに黒いパンツで、ベリーショートの髪形に黒縁眼鏡という姿だ。テーブル上に置かれた鞄に歩み寄り、手に持つ薬品の入った瓶と器具を鞄に戻した。特殊な聴診器を首から外し、それも畳んで鞄に仕舞う。
 樹貴は歩み寄り、女に呼びかけた。
「志保ちゃん」
 女はそれを無視し、椅子に腰掛けると鞄の隣に置いてあるノートパソコンに何かを打ち込み始める。
「心路(こころ)主任」
 女は手を止めず、樹貴をチラリと見た。
「ミキのメンタルはどう?」
 心路主任と呼ばれた女は、画面を見ながら
「確かに触れ幅が大きくなってる……支障が出るほどじゃないけど。そのせいか、前より表情が生き生きしてきたような気もする。あんたの策略通りって訳だ。気に入らない」
 樹貴はニヤリと笑い、フロアの数カ所に配置された極小の監視カメラのレンズを見やる。水槽の継ぎ目にある装飾に巧みに偽装されていて、知識が無ければ気づかない。
「オッサンのテクニックでどうにか出来る範囲は、もー超えててね。この先はピュアな少年の真っ直ぐな恋心でないと。いいじゃないか、ミキは唯一無二の女神。こんなイイ女との大恋愛なんてそうそうできない。感謝して貰いたいくらいだ」
「片棒を担がされる身にもなれ。悪趣味すぎて吐きそうだ」
「お前に言われたく無いな。子供型ロボットのプロトタイプを引き取ったって?個人的にデータを取りたいんだろ。やってる事は同じじゃないのか」
「トビオは家族だ。あんたのやり方とは違う」
「お前は家族、俺は相手を利用するマニピュレーター。……フン、技術開発に善も悪もない。ただ、このデータが社内に還元されれば、会社にとって善。サラリーマンにはそれが正義だ」
 心路はパソコンの蓋を閉めると立ち上がり、樹貴の目を射抜くように見つめ、低い声で静かに
「もう黙れ」
と言った。樹貴は気圧されたように口を閉じる。

 居住スペースからミキが歩み出し、二人に近づいてくる。グレイのバスローブを纏い、足は裸足だ。樹貴は微笑み、歩み寄るとミキを抱きしめた。
「問題ないよ。むしろ良くなってる。最近の君はますます魅力を増してる。完成まであと一歩だ。今晩も頼むよ」
「はい、樹貴さん」
 樹貴はミキの首元に銀色に光るネックレスを見て、耳元で囁いた。
「これ、海里に貰った?」
 ミキは身体を樹貴から離すと、張りつめた表情で沈黙する。樹貴は優しい口調で
「怒ってる訳じゃない、似合うよ。……けど“本業”の間は外しておいた方がいい。大事なんだろ」
「はい……」
 樹貴はミキの表情を観察した。ネックレスを外し、ミキに渡してやる。受け取って、手の中のネックレスを見つめるミキの浮かない表情。ミキは樹貴と目が合うと、気まずそうに目を伏せ、踵を返してとぼとぼと中央の居住スペースに戻って行く。
 いいね、こうでなくちゃ。樹貴は唇を歪めた。生きてる女の表情。嬉々として仕事されるよりずっとそそられる。我ながら屈折してるな、と自分の感情を分析する。腹の底に海里への羨望と……嫉妬を自覚し、歪めた唇はハッキリと苦笑に変わる。ふん、あんなケツの青いジャリガキに。
———- 惑わされるな。ミキがどんなに魅惑的でも自分の目的を忘れるな。
 樹貴はスマホを取り出すと、役員用出入口に待機する部下に「準備完了」の連絡をする。

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 父は、自宅に帰るなり僕を居間に呼びつけた。母はまだ仕事から戻っていない。お互い自宅に居ても、最近は殆ど交流が無かったので、僕は内心、緊張する。

 居間で差し向かいに腰を下ろすなり父は口を開いた。
「以前言ってたな、留学に興味があると。来年から一年行ってきなさい。手続きしておいたから」
僕は激しいショックを受ける。
「な、んだよいきなり!ずっと前にそう言った気もするけど、今は気が変わったんだ、行きたくないよ!」
「行くなら早くしないと。今後、ますます未成年が国外に出るのは難しくなる。子供の数が減っているのは学校でも聞いてるだろ。誘拐のリスクが高くなって……」
「行かない!絶対行かない。一方的過ぎるだろ、相談ぐらい」
「お前に拒否権はない」
「なっ……」
「国の政策が変わった。うちの会社も対応せざるを得ない。樹貴のプロジェクトは中止だ。今後、栽培室への出入りを禁止する」
「!?」
「何を驚いてる。私が知らないはず無いだろう。お前は樹貴に利用されていたんだ。プロジェクトの為と奴から説得された、だがそれが間違いだったよ。今からでも遅くない。向こうで心機一転してこい」
 僕は混乱して言葉が出ない。父さんは知ってた。プロジェクト?何の話だ、叔父が僕を利用?意味が分からない。彼女。まさか彼女も叔父達と同じように僕を利用してるだけ?大人たちはなにをしているのか、あそこで、あのビルで。あの栽培室で。でも
———— これ以上、聞くのは怖い。

「僕は留学なんかしない。僕は……」
「お前は自分で選んだつもりだろうが、そう仕向けられただけだ。あの女の正体を知れば目が醒める、あの女は」
「言うなッ!!」
 僕は怒鳴ると同時に立ち上がり、ポケットにスマホと財布を捻じ込むと、家を飛び出した。


 夜の街を夢中で走った。
 表通りは大勢の人とエアカーとで賑わい、店の色華やかな灯りが道を照らす。僕は人通りの少ない道を選んで走った。しばらく走った後、息を切らせてスマホを取り出し、履歴を確認する。父からの電話の着信が三件。叔父の番号を表示し、電話をかけるが繋がらない。何度か試み、断念する。
 僕の足は自然と、金城ビルに向かう。とにかく彼女に会わないと。会って彼女の口から聞かないと。何が起こっているのか、僕らは……どうなるのか。


 途中でエアタクシーを捕まえて、金城ビルに乗りつけた。一般用の玄関から、役員用の出入り口へと回り込む。僕の顔を知っている人間と出会わない為の用心だった。

 夜なので、会社のプレートを胸に付けた社員らしき人々をチラホラ見かける程度で、人は少ない。僕は栽培室への直通エレベーターの前に来ると、財布から展望室へのキーを取り出した。すると、キーを刺す前にエレベーターのドアが開き、中からスーツを着た壮年の男性が降りてきた。尊大な雰囲気を纏い、僕を訝しげに一瞥すると、悠然と歩み去ってゆく。
 僕は心臓をギュッと掴まれたように立ちすくんだ。男とすれ違いざまに香るのは、彼女の白い花の香り。嫌な予感が強くなる。

 震える指で何とかスティックキーを差し込み、エレベーターが最上階に着くなり、走って栽培室の前まで来る。いつもの指紋認証で躊躇したが、どうせ僕がここに居るのはもうバレてるだろう。と、認証をオンにしてフロアへと入った。

 夜にここに入ったのは初めてだ。いつもの栽培室が、まるで見覚えのない部屋に見える。僅かな照明に海百合がぼんやりと浮かび上がり、フロアの隅は闇に溶け込む。彼女の姿は見えない。

 僕は居住スペースのドアを開けた。
「樹貴さん?」
 ベッドの方向から声がした。足早に短い廊下を横切って部屋の前に立つ。ベッドから起き上がった彼女からシーツが滑り落ち、間接照明に美しい裸体が浮かび上がる。僕は殆ど息が止まりそうになった。
「海里?!どうして、こんな夜遅くに」
 彼女はそのまま近づいて来た。僕は慌てて顔を背け、何とか言葉を絞り出す。
「家を、出てきた」
 落ち着け。僕は深呼吸を繰り返す。
「何があったの?」
 ミキがさらに身を寄せて僕の腕に手を置く。僕は愕然としてその手首を掴んだ。皮膚が赤黒く変色している。
「どうしたのこれ」
「ちょっと、乱暴にされて。明日になれば、心路主任がケアしてくれるから大丈夫。いつものことだから心配しないで」
 僕は彼女の肩を掴んだ。
「いつものこと?乱暴って何が?あなたは……何してたんだ、そんな姿で」
 彼女はハッとしたように自分の身体を見下ろして顔を赤らめ、手で胸を隠そうとしたが、僕は握る手にいっそう力を込め、彼女を僅かな灯りの下へと引っ張り出す。
 手首だけではない。身体のあちこちに刻まれた生々しい跡に、殴られたような衝撃を受ける。下で会ったあの男。さっきまで、あのベッドで……
「私のもう一つの仕事なの」
 俯いた彼女は静かに言った。

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 バスローブを纏った彼女と僕は向かい合って座った。テーブルの上には、いつものマグに入ったコーヒー。僕も彼女も、手をつけようとはしない。
 僕は、自分の浅い呼吸を意識する。耳元では血がドクドク流れている音。手の震えを抑えようと、ぐっと手を握りしめた。
「僕は……あなたは、叔父の恋人だと思ってた。みんなそう言っていた。でも、それは嘘だったの?」
「私にもよく分からない。樹貴さんは良くしてくれるし、優しい。それは恋人だから……」
「恋人なら」
 僕は彼女の話を遮った。
「他の男に身体を……いいように、させたりしない」
「だって仕事だもの。海百合のお世話と同じ」
「同じなもんかっ!」
 僕は拳でテーブルを叩いた。彼女は怯み、コーヒーが数滴零れた。
「海里、怒らないで」
「怒ってなんかいない……仕事、なら、あの男と前にも」
「あの人は初めて。いつも違う人」
「違う人?……いつもって」
「火曜、木曜、金曜の夜に一人ずつ。次の日の朝には主任か、担当の人が来て、皮膚のケアをしてくれる。そうすれば元通り。でも、一度だけ深刻なダメージを受けた事もあった。大変だったの、パーツを取り替えないといけなくて……」

そうか。
そうなのか……。

 僕は顔を上げて彼女の目を正面から見つめた。
「あなたはロボットなんだね」
 彼女は僕から目を逸らしながら
「セックス専用のね。『セクサロイド』って呼ぶみたい」


  ———-セクサロイド。
 以前にネットニュースで見た気がする。セックスビジネス。個人で購入するセクサロイドは、法令が変わって、取り締まりが厳しくなった。それに加えて、商業風俗の規制の強化と、大幅な削減。

父が言っていたのはこの事か。
(国の政策が変わった)
(子供が減っているから……)

ロボティクスが開発したセクサロイド。
(プロジェクトの為と説得されて)

この栽培室は偽装?
……叔父の本当の目的は。

 僕は地の底に落ちていくような眩暈を感じて頭を抱える。今まで見えていた世界の姿がくるりと反転して、昏い裏の顔を覗かせる。
「ねえ海里、どうしたの?頭が痛いの?」
 気遣わしげな彼女の問いに、僕は手の隙間から彼女の顔を見る。
「痛いのは頭じゃないよ」
 片手を伸ばして彼女の手を掴み、引き寄せて、僕の胸に触れさせる。
「……ここが。心が痛い」
 彼女は僕の胸を見て、次に僕の顔を見つめた。顔が悲しげに歪む。
「あなたが痛いと私は悲しい。ねえどうしたら治るの?」
 そう言われて、急に涙が込み上げてくる。僕は俯き、彼女の片手を両手で包むと、額に押し当てた。涙が溢れて、彼女の手を濡らす。

 僕はどうして泣いている?
 騙されたのが悔しいから?自分だけ何も知らなかった事に屈辱を感じるから?  

違う

「僕はあなたが好き。……あなたも、同じように、僕を好きでいてくれてると思ってた。でも、違った……あなたはロボット。人を、愛したり、しない」
 涙が止まらない。僕はそのまま、しばらくそうしていた。

 小さく嗚咽が聞こえて顔を上げると、薄暗い部屋の中で、彼女の頬に光るものが見えた。……涙。
「私も、貴方が好き」
 僕は彼女の手を離した。彼女は肩を震わせ手で涙を拭っている。泣いている顔は小さな女の子みたいで、僕はまた鋭い痛みを感じる。
「それもプログラム?……さすが最新の技術、よく出来てる」
「酷い……貴方に今更、嘘をつく必要なんてないはず……信じて。私も、ここが、痛い」
 彼女は泣きながら自分の胸を押さえた。僕の胸が締め付けられる。手を伸ばすと彼女の頬にそっと触れる。指で、唇に触れる。

彼女は人間じゃない。
でも、だからなんだ?

あれだけ焦がれたひとが、僕に向かって、愛の言葉を口にする。

泣きたいくらいに嬉しい。
たとえプログラムでも。


 僕らは身を寄せると、ゆっくりとキスをした。
熱く柔らかな彼女の味わい。濃い花の香りが僕を芯から痺れさせる。長いキスの後、彼女から僕の頬に手を触れ、囁いた。
「貴方が、嫌でないなら、わたしは貴方に触りたい」
 僕達は立ち上がる。僕は彼女の柔らかい身体を思い切り抱きしめ、熱いうなじに口づける。


……ようやく手に入れた……

僕の月


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 荒々しい騒音に、僕はうっすら目を開ける。と、次の瞬間、強く手首を引っ張られて、下着姿のまま、ベッドから引きずり出される。

 僕の手首を握っているのは叔父だった。皮肉そうに唇を歪め、獰猛な目つきで僕を見下ろす。
「どうだった、ウチの会社の最新セクサロイドの味は。死ぬほど良かったろ。兄貴を言い含めて、ここに踏み込むのを一晩待ってやったんだ、騙してた事はこれでチャラにしてくれるよな?おい、コイツを連れてけ。暴れるなら眠らせろ」
「……っ!」
 僕は手を振り解こうともがいたが、もう一人、入ってきた身体の大きな黒スーツの男が僕の両腕を掴むと、強い力で部屋の出口へと引き摺る。僕は暴れた。
「離せっ」
 首の後ろにチクリと痛みを感じ、急速に身体から力が抜けてゆく。
「海里!」
 彼女はベッドから出ようとして、叔父に殴られ、よろめいてベッドに手をつく、が、直ぐに跳ね起きて、なおも、僕の方へ向かって来ようとする。叔父はその腕を掴んだ。
「海里に乱暴しないでっ」
 彼女の顔は必死だ。
 やめろ、ミキに酷いことをするな……。

 視界が闇に閉ざされてゆく。最後に見えたのは泣いている彼女の顔。

暗転


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 拐われるようにして、半ば無理矢理、留学させられた僕が、何とか監視を掻い潜って、再びネオトーキョーの地を踏んだ時には、一年が過ぎていた。

 留学先では、ロボティクスの情報も、ネオトーキョーの新たな方針についての情報も、殆ど入って来なかった。それだけ規制が強力なんだろう。ネオトーキョーだけでなく、水面下では各国が同じ方向に舵を切った筈だ。
 最優先事項は子供を増やすこと。……つまり、娯楽としてのセックス産業は、大きく変革を迫られることになる。既にそれは起こり始めている。行き場を失ったセクサロイド達、そしてミキ。どうなっているのか心配だった。

 父からのメールで、叔父はあの後、病魔に侵され入院したと聞いていた。病院に赴き、所在を確認する。
 叔父はまだ入院中だった。父から病気のことを聞いたのは三ヶ月前だったが、あれからずっと病院に居ると言うことは、状態は良くないんだろう。

 昼下がりの明るい入院病練。個室のベッドに、枯れ木のように干からび、ひとまわり小さくなった叔父がいた。
叔父は僕を見て驚き、ニヤリと笑った。その笑い方にかつての面影が蘇る。
「海里じゃねえか……戻ってたのか。あっちで大学に進学するって聞いてたけどな」
「何とか監視の隙をついて出てきたよ。あんたが死ぬ前にどうしても会っとく必要があるから。聞きたいことも山ほどあるしね」
「そりゃそうだろうなあ。良かった、渡したいものがある。送ろうかとも思ったんだが、どっかで引っかかる可能性があるからな。最近はどの国も管理が厳しくなってるから……」
「動かないで。言ってくれれば僕が取る。荷物はどこ?」
「疑ってんのか?ま、無理もないか。左上の、青い開戸の中だよ。鞄があるだろ。中に、銀色の円盤みたいなDVDケースがある……それには監視カメラの映像が入ってる。あそこの映像だよ」
「!」
「殆ど没収されたんだが、それ一枚だけ、紛失したって言い張って何とか隠しおおせた。お前にやる」

 僕は逸る心を抑え、鞄からDVDケースを取り出した。だが、これはまだだ。一瞥して自分の鞄にしまい込む。
「叔父さん、ミキはどこにいる?」
「……」
 叔父は僅かに苦しげな顔になる。
「……その、鞄の中に、赤いカードフォルダがある。取ってくれ」
 僕は赤くて薄いカードのような物を取り出して、叔父に渡す。叔父は小さなボタンを操作して、何度かカードの立体映像を入れ替えた。
「これだ。会社からこいつに譲渡した。一千万で……かかった金を考えればタダみたいな値段だ」
 叔父は苦々しく吐き捨てた。僕はカードの映像を見、自分のスマホに登録した。
『アーティスト 甲 -kou-   000-707-777』
 僕は椅子を引き寄せて、ベッドの側に腰掛けた。
「僕が何に加担させられたのか、話して欲しい」
 叔父は脇のペットボトルから水を飲むと、軽く息を吐いた。

「……シンプルに言えば『男の為の女神』を作ろうって計画だった。……男のスケベ心に応える究極のセクサロイドを作れれば、爆発的な消費につながり、金が儲かる」
 叔父は少し咳き込み、水を一口飲んだ。
「ロボティクスはそう考えた。競合は多いが勝算はあった。ウチはロボットの身体……ハードを作る技術は他所より上だ。今までにない革新的なセクサロイド……見た目も、触った感触も、まるで人間と同じ……いや、カスタマイズできることを考えりゃ人間以上。
 ユーザーの理想の女をオーダーメイドで作ることができる。それは人型ロボットの歴史に残る仕事だ」
叔父の目は熱を帯びて輝いた。僕は無言で聞いている。

「下請けが新しく開発した人工皮膚。これが凄かった。しっとりして弾力があって。まるっきり人間と同じ。
 ただ、紫外線と衝撃に脆かった。長く紫外線に晒すと乾いて縮む。強く擦ったり叩いたりすると変色しちまう。そんなとこまで本物そっくりでね。二十四時間以内に薬品でケアすれば元に戻るが……ここが最後の難関だった」
 叔父はため息をついた。
「ソフト、つまりAIは、開発に優秀な人員を加えた事で順調に進んだが、ユーザーテストの段階で疑問符がついた。セクサロイドのAIは男を満足させるものでなくちゃならない。つまりセックスで本当に“快感を感じてる”と、そうユーザーに思わせないといけない。なのに、どうしても人工臭さが抜けない。なまじ見た目は人間な分、違いが鮮明になるんだな」

「既に、風俗の店で使う分には充分なレベルに達してた。販売台数も反響も絶好調で、俺達の評価はうなぎ登り。そんな時、開発部で凄い発明があった。
 簡単に言えば、AIを有機的に発達させる技術だ。語彙や経験を蓄積する事で疑似発達する従来のAIとは根本的に違う。人工脳の中で、人間と同様に人工シナプスを発達させる……人格が“有機的に進化”するんだ。つまり人間感情に近い複雑な反応を獲得できる、理論上はな。……ベースになる雛形さえ完成すれば、それをそっくりコピーして、大量生産に繋げることも出来る。」

 叔父はまた水を飲み、目線が遠くに彷徨う。
「数億出しても欲しくなるような究極の『理想の女』……ただ着手した途端、有機AIを育てる作業にはとてつも無く手間暇がかかる事が分かった。新しい技術だから今までのノウハウは使えないし、手探りだ。仕方なく、雛形完成までの作業は少数精鋭で時間をかけて、他の業務と並行して進めることになった。
で、さらに実験的な試みとして、AIに“自分を人間と思い込ませて”育ててみることにした。そうする事でより自然な、生の人間らしさに近づくことを期待して」

 僕は思い当たることを口にした。
「……もしかして、外に出るとアレルギーが起こって息ができなくなるってのは嘘だった?」
 叔父は僕に目を据えた。
「その通り。外の世界への好奇心も当然起こってくると予測できる。基本的には疑う事を知らず素直だが、万が一、自分の環境に疑問を抱いて、服とか帽子で皮膚を覆って脱出されたら困るだろ。
 ストレス解消も兼ねて、海百合の栽培と管理をやらせてみることにした。余計な横槍が入らないよう、プロジェクトを知る者の数も制限した。表向き、俺の女って事にしとけば、足繁く通ってもそれほど不自然じゃないし」

 叔父は唇を歪めた。話が不快な領域に入る兆候だろう。
「……文字通り、手取り足取り教えたよ、男とのセックスを。ミキは一度教えたことを忘れず、相手の動きに対応するだけでなく、そこから自分で工夫することも出来るようになっていった。少しずつ、経験値稼ぎと営業を兼ねて、取引先のお偉方に“お試ししてもらう”事を繰り返した。
……だけど、ほんの僅か足りない。個人ユースのセクサロイドなら、ユーザーは『本当の人間のように自分だけを愛してくれる』ってレベルを求めてくる筈だ」

 叔父は真顔になって、僕を見つめた。
「ミキが愛せる相手が必要だったんだ。俺の力じゃそこまで行けない。認めるのはかなり癪だがね。
……AIが人を愛せるのか未知数だが、それが叶えば理想的な雛形が完成する。それだけじゃない、AI開発史に残る出来事になる。今後のAI技術開発にも恩恵を与える筈で……これ以前か以後かで、進化の性質はガラリと変わるだろう。

……で、話を戻すと。その為にどんな相手が良いか。今まで周りに居なかったタイプの男。擦れてない未成年がいい。けどそんな実験に自分の子供を差し出す保護者はいないだろう。
 それでお前に目を付けた。父親はロボティクスの役員。見た目も頭も悪くない。
 結果は……お前が誰よりも知ってるだろう。俺は賭けに勝った。ミキは史上初の、人間を“有機的に愛した”AIになった。こんな事態にならなけりゃ……俺は次世代のリーダーとして、今後のロボット開発を牽引する筈だったが……まあ、これが人生ってヤツか……」
 叔父はぐったりと頭を枕に預け、落ち窪んだ目で僕を見た。
「その、甲って男に譲渡したのは、ミキのボディだけだ……人工脳は抜き出して、シナプス情緒回路以外の……記憶部分は初期化した。……何を驚いてる。機密技術の塊みたいなモンだぞ、そのまま外部に出したりするわけないだろ。……ミキのパーソナル人格と記憶は残ってない、残念ながら」
「…………」

 沈黙。

 僕は前屈みに俯いて、虚になった自分の胸の空洞を覗き込んだ。ミキの死。彼女は死んだ。……どこかで覚悟していた。もっと心が動くと思ってた。なのに、冷たく固く凝って、寒さ以外何も感じない。

 しばらくして、叔父は口を開いた。
「なあ、教えてくれないか……史上初めて、AIの女と愛し合った気分ってのを。……ただ知りたいんだ……ミキはお前のどこに惹かれたのか」
 僕はしばらく黙ってから、叔父に言った。
「さあ。僕の方が知りたい……でも言えるのは、最初に惹かれたのは見た目だったけど……離れてた間、僕が思い出すのは、いつも些細なことだ……」
 僕は震える溜息をつく。
「コーヒーを淹れるのが上手だとか、僕が行く時間にいつもマグカップをテーブルに出してくれてたこと……持っていった本は必ず次に行く時までに読んで、丁寧に感想を聞かせてくれたこと……」
 僕は気持ちが昂るのを抑えつけて、話を続けた。
「テストの後とか疲れた時には、手の平をマッサージをしてくれて、上手でしょって笑ったこと……ノートに海百合とか、僕の絵を描いてて、それが下手で、隠そうとするのを無理矢理見て怒らせたこととか……そんな、ありふれた……どこにでもあるようなこと……」

 叔父は沈痛な顔でしばらく天井を見つめ「そうか……」と呟き
「……で?タネあかしを聞いて、お前はどうする?俺を殺すか、ボコボコにするか。いいよ、お前にはその権利がある。ここでやるか?それとも、俺が退院してから、もっと安全なとこでやるか?」
 僕は目を上げて叔父を見上げた。
「放っといても、もうすぐ死ぬんだろ……それに、あんたが死んだら、ミキの事を憶えている人間が一人減ることになる……憶えていてあげたいんだ。彼女がどんなひとだったか。どんなに純粋で綺麗な魂を持っていたか」
 叔父は酷く驚いた顔をした。
「魂?AIだぞ。あるわけないそんなモン。所詮、女の形をした道具だ。道具に魂があるか?」
「そんな風に自分に言い聞かせていたんだろう。ミキを愛していたんだ、あんたも。……気づいてなかったみたいだけど、あんたが僕を見る目、ミキと会うようになってから、どんどん険悪になっていった。僕の気持ちに気付いているのかって怖かったけど……今、分かった。彼女があんたを選ばなかったことが、どうしても許せなかったんだね」
 叔父の顔がどす黒く染まり、醜く歪む。
「ハッ!知った風なことを。お前みたいなスネ齧りのヒヨッコに何が分かる。俺はこのプロジェクトに賭けてた。一生をかけた仕事が理不尽に奪われる辛さの何がお前に分かるんだよ!」
「あんた程の要職に就いていた人間なら、ミキを廃棄せずに済む方法なんていくらでもあった筈だ。自分で引き取る事だって出来た。なのに、記憶を抜いて、身体を二束三文で他人に投げ与えた。どう考えてもおかしい。……罰したかったんだ、彼女を。それから僕のことも」
「黙れッ!!」
 叔父は水の入ったペットボトルを僕に投げつけた。僕は咄嗟に腕でそれを弾き、ボトルは水を撒き散らして床に転がった。叔父はヒステリックに喚き散らした。
「ふざけんなっ違うっ!俺はっ、俺が……っ」
「さようなら。最後の瞬間まで、自分のしたことを後悔しながら死ね」
 僕は静かにそう告げると立ち上がり、病室の出口に向かった。
 後ろから、ギリギリと歯噛みしながら低く呻く声が追って来た。僕が病室の扉から廊下に出る頃には、声は地を這うような慟哭に変わっていた。


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 甲(こう)、という名の自称アーティストは、大きな屋敷に住んでいた。アーティスト活動はあくまでも趣味で、本業は別にあるらしい。オシャレというより奇天烈で実用性がかなり低そうな家具や絵画が、広い室内のあちこちに配置されている。
 男は個性的なファッションに身を包んでいたが、態度は落ち着きがあり、育ちの良い人間特有の、気さくな態度でオブラートに包んだ無意識の傲慢さが透けて見えた。

 こちらから聞く前に、男は経緯について語り始めた。
「俺の身内がロボティクスの役員でね。極秘プロジェクトの噂は聞いてた。で、一度だけ、海百合のフロアに入れて貰えたことがあってさ。感動したわ。夢のような美しさ、まさに海百合の塔の姫君。忘れられない思い出だよ。
 ……だから例の身内からボディを買い取らないか、と打診された時は二つ返事で引き受けた。本当は頭の中身も一緒に欲しかったんだけど、それは無理だっつうことで諦めた。あの女神が損なわれるなんて我慢できない。美しさを何より愛する人間として、せめて綺麗に保存してあげたかった。気持ちわかるよな?」
 僕は頷いた。彼はホッとした様子で立ち上がり、先に立って歩き出した。
「この事は他言無用で頼むね。セクサロイドのボディを引き取ってどうこうするのも、最近の世間は煩いから。全く、娯楽のセックス大幅削減なんて気狂いじみてる。人生の楽しみ半減どころじゃ済まない」
 広い室内とドアを幾つか抜け、黒い扉の前まで来ると、彼は指紋認証に指を押し付け、扉を開けた。
 室内は暗い。彼は照明のスイッチを入れる。僕の喉がヒュッと鳴る。

 ライトアップされ、暗闇に浮かび上がる圧倒的な青のグラデーション。大きな壁。三メートル四方はあるだろうか。

 透明なアクリルの壁の中に封じ込められ、青い宝石のように輝いているのは一面の海百合。そして……

 海百合に囲まれ、中央に浮いているのは、一糸纏わぬ、彼女。

 髪の毛は拡がり、海百合に絡んで、そのまま凍りついたかのよう。一輪の海百合を手に持ち、眠るように目を閉じている。

「おお……」
 僕は彼女の前まで歩くと、その姿を見つめた。

『私はここの花たちと同じ』
 周りを見渡して、僕を見つめる彼女の姿。
『ここの歌詞が綺麗。この歌、素敵』
 目を伏せて微笑む彼女の頬に落ちる、睫毛の影。

 僕は跪く。彼女の声が、面影が、次々と目の前に溢れて息ができなくなる。

 俯き加減で音楽を聞いている彼女の顔。驚きから弾ける笑顔。海百合の仕事をしている真剣な表情。窓越しに憧れを込めて外を眺める姿。……薄暗い部屋で光る涙。

 “貴方は美しい 月や星空や海の様 儚く消える夢の様”

 『海里』……呼びかける彼女……頭の中をあの歌がぐるぐる廻って……彼女の横顔……泣き顔……眠る彼女……二度と目を覚まさない……
 ……『海里』……僕を呼ぶ声……かいり……

かいり……

…………


 肩を揺さぶられて我に帰った。いつの間にか僕はその場にうずくまり、甲が僕の傍で心配そうに覗き込んでいる。
「君、大丈夫!?どうした、気分でも悪くなった?」
「……すみませ……」
 僕は立ち上がろうとしてよろけ、甲は僕の身体を支えた。僕は彼を見上げ
「あの、甲さん、お願いします。彼女を僕に譲ってくれませんか?」
甲は僕をじっと見つめた。
「何か訳あり? 聞かせて貰える? それ次第で、考えてみてもいい」

 僕は彼に全てを話した。
 僕が彼女を「アート作品として」一億円で買い取ることで、話がまとまった。


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 どうやってホテルまで帰ったのか憶えていない。
 限界だった。部屋まで辿り着くとベッドに倒れ込んで、僕は死んだように眠った。
 目が覚めたのは朝の四時だった。今は冬の季節、まだ外は暗い。頭痛がして酷く喉が乾く。よろよろと起き上がると備品のコップで何杯か水を飲んだ。

 不思議だ、と思った。
 ミキがもういない世界で普通に息をしているなんて。
 なんだ。以外と落ち着いてるな。あんなに毎日、彼女の事ばかり考えていたのに。身体の真ん中がどうにも虚ろになった感じだけど、普通に喉も乾くし、身体も動く。

 薬を飲んでシャワーを浴びると、かなり頭痛はマシになった。敢えて意識を向けないようにしていたけど、ずっと気にはなっている。──── 鞄の中のDVD。
 監視カメラの映像だと言っていた。僕がミキと過ごした後、いや、おそらくリアルタイムで、叔父と開発チームはあのフロアを監視し、記録していたのだ。
 DVDの中身。ことによると、ミキと叔父が映っているものかもしれない。叔父が密かに一枚だけ保管していたDVDなのだから。だとしたら、僕はそれを観ても耐えられるだろうか。

 ……でも、おそらく僕が手にできる、ミキの最後の映像。
 あのミキの身体の他にはもう、彼女の実在を証明するものはこれしかない。
 僕は冷静だ。きっと大丈夫。観たくなければスイッチをオフにすればいい。
 僕はモニターの電源を入れ、DVDをホテルの備品のプレイヤーに挿入して、ベッドに腰を下ろした。

 いきなり、ミキのバストアップが画面一杯に映し出され、僕の心臓はドキンと強く跳ねた。
 ミキは白いシャツと黒いパンツを身につけて、寝室のベッドの上に座っている。目線はカメラより少し下にあり、手前に、黒い服を着た人物の、後ろ姿の一部が映っている。ミキが「主任」と呼んでいた人かもしれない。ミキは真面目な顔して、彼女の正面の人物を見つめている。

『次の質問』
 手前の人物から声がする。女性のようだ。
『夜の仕事について、やりたくない、メンタルに負担だ、と感じることはある?』
 ミキは黙り込み、瞳を僅かに揺らす。
『……私はセックスに最適化されているので……技術的に難しいとは感じません。お客様の要求には応えられていると思います。……でも最近は、終わった後に解放感を感じます』
『それは、仕事が辛い、または疲労する、という感覚?』
『……抵抗がある。そんな感覚です。この仕事の内容を、海里が知ったらどう感じるのか、と考えると』
 僕は両手をきつく握りしめる。人物は質問を続ける。
『海里に知られたくない?』
 ミキは顔を曇らせた。
『はい』
『何故?』
『不特定多数の男性と性交することは、道徳的に望ましくないとされているからです』
『道徳?悪い事をしている、そういう感覚なのかな?』
『海里から、私が悪い人間だと思われる事が辛い』
『海里に悪く思われたくないのはどうして?』
 ミキはますます難しい顔になる。
『……それは、私が、海里に、嫌われたくないからです』
『海里が貴方を嫌うと、貴方はどう感じる?』
『悲しい、です』
 人物の声の調子が、慎重さを帯びる。
『海里が貴方を嫌うと、貴方は悲しくなる。それはどうして?』
『……私は……わかりません……』
 また数秒の沈黙。今度はミキから人物に話しかける。
『私は海里に嫌われたくない。……そう感じるのは彼だけなんです。主任や樹貴さんから嫌われたら、私は困惑しますが悲しくはならない。……彼と話していると私は……』
 ミキの表情が僅かにほころんだ。
『とても心地よくなって、このままずっと彼と過ごしていたい、彼の話を聞いていたいと思います。でも彼がじっと私を見ると、なぜか落ち着かない気分になって、でも、もっと見て欲しい、そうも思うんです。何故だか分からないけど、自分の感情がコントロールできなくなります』

「……っふっ……」

 ミキは俯き、言葉を続けた。
『彼に触れられると、私も触れたい気持ちと、怖い気持ちが、同時に起こるんです。目が合うのを恐れているのに、気がつくと彼の姿を目で追ってしまう。
 ……彼と居ると私はいつもの自分で居られない。でも、離れると、顔が見たい、声が聞きたい、そればかり考えます……」
ミキは項垂れて、大きな溜息をついた。

「……う……ぐっ、ふ……」
 画面に映る彼女の姿がぼやける。

 人物の声が優しくなる。
『貴方は海里を失いたくない。そうなんだね?』
『もし彼がここに来なくなったら。そう考えるだけで堪らなく怖くて、何も……手に付かなくなります』

「……ひぐっ……ぐ、く……」
 いつのまにか、しわがれた声が僕の喉から出ている。
 涙がぱたぱたっと組んだ両手の上に落ちる。

 しばらく沈黙した後、人物が問いを再開する。
『貴方は彼と、どうしたい?』
『私は……私がここを出て、彼と一緒にどこにでも行ける身体なら良かった、そう考える事があります……私は彼と一緒に行きたい、どこか遠くへ。どこまでも一緒に』

「……うっぐっ……ふ、ぐ、うううっはっ、ぐ……」
 食いしばる歯の間から嗚咽が漏れ、涙は後から後から流れて頬を伝い、僕の両手を濡らし続ける。

 利用される為に作られて。
 いつも海百合の檻の中から外を見ている。
 塔の中、囚われの姫君。

 ミキは微笑んだ。その姿は眩く輝く。
『やっぱり、私、彼を愛しているんですね。……私は、一生ここで、身体を繋げる仕事をしながら心は誰とも繋がらない、それが私の役割なんだから、そう思っていました。でも、私にも人を愛することができた……嬉しい』

 映像は停止し、画面は黒くなった。


———- 最後まで外に出られなかった、ミキ。

 僕は両手で顔を覆い泣き崩れた。このまま泣き続けて溶けて消えてしまいたい、この世界から。

逢いたい。

恋しい。

恋しい。


“貴方は美しい……

 ……他の言葉を見つける事は叶わず……

  美しいまま何処かへ消えてしまった……”




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-------エピローグ-------

 二百十年後

 ネオトーキョーのはずれ、広い公園の脇をはしる道路に、作動音が細く響き渡る。

 一台のエアバイクが疾走している。埃を巻き上げて進むエアバイクには、ヘルメットを被った少年が乗っている。荷台には大きな荷物が括り付けられ、荷物の大きなポケットから、黒い猫が顔だけを出している。猫はピンと張ったグレイの髭をなびかせ、美しいエメラルドグリーンの眼で、興味深そうに景色を眺めている。

 やがてエアバイクは建物の玄関の前で停まった。少年は乗り物から降り、ヘルメットを取ると、バイクに引っ掛けた。荷台に乗っていた猫はしなやかな身のこなしで、そこから飛び降りた。猫は建物の玄関を見上げ、少年に話しかける。
「ここが歴史博物館?」
「そうだよ」
 少年は荷台の縄を解き、大きな荷物を肩に担いだ。中で硬い何かがぶつかり合う音がする。少年は前屈みの姿勢で、重そうに荷物を担いで歩き出し、建物の玄関に入った。猫はその後をついてゆく。

 建物内はひんやりしていて、照明がついておらず薄暗い。ガランとした玄関ホールに、少年の足音が反響する。無人の受付を通過し、ホールを半ば通り過ぎたところで、猫が少年を呼び止めた。
「トビオ!ねえ、エネルギーパックの交換は後でもできるでしょ?私、ここ初めてなんだから、案内してよぉ」
 トビオは猫を振り返り、しばらく躊躇ってから、荷物を足元に下ろした。
「……分かったよ。何か見たいものでもあるの?」
「初めてなんだってば。私に分かるわけないじゃん。ガイドとか無いの?」
 トビオは周りを見回した。とある一画に立っている、カラフルで大きな案内プレートの前に歩み寄る。
「ここって昔のロボットが展示されてるんでしょ?どのくらい前からのがあるの?」
「さあ。僕はエネルギーパックの予備を見つけてからは、その部屋しか行き来してないし、ここを拠点にはしてるけど……展示をちゃんと見たことない」
「あなたって、必要不可欠なことしかしないタイプねえ。機械みたい」
「機械だよ。君だってそうだろ」
 猫はトビオの返事を無視し、案内板を前足で指した。
「ねえここ!『海百合姫』って書いてある!え、もしかしてあの『海百合の塔の姫君』の元になったっていう、アレ?!」
「うみゆりのとうのひめぎみ?それはなに」
「知らないのお?そっか、あなたの時代にはまだ無かったか。私の時代に、めちゃ流行ってた絵本。すっごく綺麗でね。珍しい紙の絵本で。マスターが大好きでよく読んでたなぁ。ここに行ってみましょ!」
 トビオは猫を連れていくつかのフロアを横切った。猫はその間もキョロキョロと、物珍しげに辺りを見回している。

 やがてトビオは扉の前で足を止めた。展示としては珍しく、扉が閉まっている。
「……建物の電源を落としてるから、開かない。電源を入れてくるよ」
「待って、ほら、そっちに手動の開閉装置があるじゃん」
 黒猫……ミドリは、尻尾を長く伸ばして、手動装置に触れた。そのまま器用にロックを解除する。
「すごい」
 トビオは素直に感心した。ミドリは得意げに
「処世術。さ、開けて」
 言われるままにトビオは扉を引っ張り、ガラガラと音を立てて開けた。中は真っ暗で、うっすらと何か大きな物があるのが分かる。トビオは室内に入ると、腰に下げていたペンライトでそれを照らした。

「ひゃっ!」
 黒猫が小さく声を上げた。ガラスのような透明な壁の中、一面に透き通った青い花が宝石のように煌めき、中心にひとりの成人女性のロボットが、花を持って浮かんでいる。
 展示というより巨大な絵か、レリーフのようだ。トビオもミドリも息を呑んで、女を見つめた。
「きれーい……ほんと、お姫様みたい。この青いお花が海百合の本物。本物だよね、コレ」
「うん。僕、海百合は見たことある。ココロさんの家に一輪あった」
「私の時代には、方舟関連の仕事ばっかになってたから、海百合の栽培は停止しちゃってて、絶滅したって言われてたなぁ」
 トビオは女の顔を照らした。女は目を閉じ、安らかに微睡んでいるように見える。
「なんでこの人だけ、他と違う展示方法なんだろ……」
 トビオは呟いた。ミドリは
「だって海百合の姫君だもん!やっぱりこうでなくっちゃ」
と言った。トビオはミドリを見た。猫の目が光を照り返す。

「どんなお話なの?」
「ある男の子とお姫様の物語でね。お姫様は悪い魔法使いに捕まってて、高い塔に閉じ込められてて。男の子は彼女を助けようと沢山の冒険をして、塔の上までたどり着いて、魔法使いと最後の対決をするの。
 お姫様は、男の子が彼女を助けようと、ボロボロになりながら戦ってるのを見て、自分も知恵を働かせて、協力して魔法使いを倒して、二人は恋人同士になるんだけど……実は死んで無かった魔法使いが、最後の力で姫を氷に閉じ込めてしまうの。永遠に溶けない氷に。男の子は泣いて泣いて……涙から、海百合が生えてきて、氷を囲むの」
「なんで涙から花が生えてくるの?」
ミドリは苛立って
「その方が綺麗だからでしょ!……でね、男の子は、大人になっても、お爺さんになって死ぬまで、ずうっと姫君の氷を守る番人になるの」
「なぜ?」
「だって、お姫様は男の子だけの姫君だから」
「でもお姫様は氷の中なのに。側に居ても話せないし、触れないのに。泥棒が心配なら、指紋認証付き防犯倉庫にでもしまっておけばいい」
「んもう、バカねっ!お姫様は男の子以外の人とかモノが守っちゃいけないのっ!ラブストーリーってそういうもんなの!!」
 ミドリは腹を立てて部屋から出て行ってしまった。

 怒らせてしまった。こんな時はどうしたらいいんだろう。トビオはココロさんのアドバイスを検索した。
『女が怒って理不尽な事を言ったりやったりする時は、下手に言葉をかけずに、黙って花かお菓子を渡すのがいい』
 花かお菓子……ここには触れない花しかないし、相手は女の子だけど猫だから、魚の形のエネルギーパックとか?
 トビオは溜息をついた。その拍子に、ライトが隅のプレートを映し出す。そこに何か文字が刻まれているのに気がつき、灯りを近づけてみる。

『貴方が美しいということ』

貴方は美しい
美しいという言葉以外に
貴方を表す言葉を持っていなかった

貴方は美しい
月や星空や海の様
儚く消える夢の様
美しいものは遠い所にしかなかった

貴方は美しい
けれどもそれを言葉には出来ない
美しいと言ってしまえば
貴方が遠い存在となってしまう

貴方は美しい
美しい故に遠く
同じ世界には立てず
本当の貴方を探す事も
その手を握る事さえもできず
見守るしかなかった

貴方は美しい
他の言葉を見つける事は叶わず
美しいまま何処かへ消えてしまった


 歌詞……文面に覚えがある。記憶ライブラリを参照する。あの頃、ココロさんの家で何度か聴いた。
 そうだ!お菓子の代わりに歌を歌ってあげるのはどうかな?
 トビオはそう考えながら、部屋を出て扉を閉じた。


 海百合の塔の姫君は、再び闇に溶け込み、覚めることのない微睡みのなかへと沈んでいった。


<完>


この物語はkesun4さんの詩
「貴方が美しいということ」からイメージして書いています。

物語のベースイメージ、kesun4さんの詩はこちらです↓

kesun4さんのnoteはこちらです↓

https://note.com/kesun4


各話はこちらにまとめてあります。(全5話)↓









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