『Raúl García, uno di noi para siempre.』

(以前、アメブロで頑張って訳した文章です)

『Raúl García, uno di noi para siempre.』

毎年、毎シーズン、毎夏、毎冬。あなたのチームの所属選手は出たり入ったり。それがフットボールにとっては当たり前のこと。選手は行き来するけど、それでも"クラブ"は存在する。

これはだいたい正しい。でも永遠に残る選手や人もいる。とりわけ情熱とか、感情とか、あなたを形作る人生の一部があって、推しているチームから感じている何かについて考える時、それは、フットボールだけにはならない。

ここ数十年でこのスポーツはかなりの商業化を経験し、テレビやブランドの広告を出す場所としてフットボールがある。この事実は、あなたの価値観やあなたのクラブを代表してくれる誰かと自分を同化させることを難しくしている。プレーしていたクラブに強い帰属意識を持つプロ選手はとても少ない。でも、そのような選手はこれまでいたし、現在もいる。

そう、その一人がラウール・ガルシア・エスクデロである。パンプローナ出身のナバーラ人。幼い頃はオサスナでプレーすることを夢見てただろう選手で、18歳でデビュー。オサスナのチャンピオンズリーグ出場権獲得やヨーロッパリーグ準決勝進出に貢献した。

そのすぐ後、トップチーム昇格をさせたハビエル・アギーレに呼ばれ、1200万€で21歳の時、後にメンバーの中で1番の親友となるガビと代わる形でアトレティコ・マドリードに移籍する。

当時のアトレティコは苦しい時期が続いていた。それでもアトレティ1年目のラウールは、チャンピオンズリーグでスタメンの常連だった。

彼にとって2年目も同様なシーズンとなり、アグエロ、フォルラン、シモンらとプレーした。アトレティのプレーは改善をしていったが、中盤でのラウールのプレーを好む人は少なかった。決して悪いプレーをするわけではなく、悪い顔をすることもなく、文句を言うこともないが、カルデロンではブーイングされたりと上手く行ってなかった。

チームが成長していく中で彼は、ただベストを尽くそうと働いていただけだった。

続く年、アトレティコは失速し始める。チャンピオンズリーグのグループリーグで敗退すると、キケ・サンチェス・フローレスがやってきた。チーム再建が始まり、冬にはチアゴが加入し、ラウガルからポジションを奪った。しかし、UEFAのきまぐれな規則によって、このポルトガル人はヨーロッパの試合には出れなかったため、ヨーロッパリーグでは主力メンバーとして出場していた。リーガでの順位を取り戻すためにはかなりの重荷になるヨーロッパでの試合に、モチベーションを持つ人は誰もいなかったけど、勝ち上がって行った。最初はイスタンブール。その後リスボン。そしてバレンシアでの試合に勝ち上がり、リバプールでの延長戦にたどり着く。

君たちはフォルランのゴールを覚えているだろうか?

私はプレー全体を覚えている。全てはピッチ真ん中からのラウールのロングパスから始まった。

そしてヨーロッパリーグ決勝進出は祝われた。

そして、全員が覚えているハンブルクでの決勝。

私は現地にいて、記憶に刻み込んだ1つのことがある。

大怪我でそこにはいなかった友人アセンホのユニフォームを持っているラウール。ピッチからタイトルを祝えなかったアセンホに勝利を捧げていた。素晴らしい。

ラウールや私のような人々にとっては、ネプチューンでお祝いは初めてだったが、優勝の歓喜はとても小さい出来事となってしまった。1週間後のカンプノウでのバルセロナ戦で、アトレティコは勝利を続けることはできなかったことを私は決して忘れない。それでも、数ヶ月後、怪我のチアゴに代わって再びメンバーに入ったラウールと共にアトレティコはインテルに勝った。

このシーズンは、ラウールにとって最も難しい時期だった。まだ人々を喜ばせることはできておらず、チームへの影響力が失われていたことで、次のシーズンからのレンタルでオサスナに出ていってしまう。

3度の夏を過ぎた今になってわかることは、オサスナに移籍した年、ラウールは個人的な問題を抱えてパンプローナの家族の近くにいることを希望していた。アトレティコはレンタルを認めるのと同時に契約更新していた。

そのことを、あの時の自分は理解していなくて、アトレティのラウールは終わり、彼が再び私達のユニフォームを着ることはないと考えていた。なぜなら、彼はうまく行ってなかったし、居場所もなく、クラブは彼を売るために彼が再評価されるようにしていたから。でも私は間違っていた。

再びオサスナに戻ってからというもの、彼は今までより攻撃的にプレーをして、11ゴールを決めた。そして彼は戻ってきた。また一緒にやるために。

アルダ、ジエゴ、ファルカオと共に2度目のヨーロッパリーグ制覇の後、彼はシメオネと共にアトレティコに戻ってきた。そしてプレシーズンに新しい使い方を試されていた。

だが、しかし、ラウールはどんな役割なんだ?

ラウールは努力し、クラブでの地位を掴み、コケに代わって、より前線でプレーし始めた。この時期はコケにとってトップチームでの経験を積み始めた後のことである。

ラウールは、文句なしのスタメンというわけではなかったが、チョロがベンチから大きな影響力をピッチに引き出そうとする時の決まり手となっていた。そして、毎回タイトルを取ってきたチームではないけど、その年は国王杯のチームとなっていた。数年前にバルセロナから突き刺されたトゲはなくなっており、アトレティコはベルナベウで国王杯のチャンピオンを宣言した。

13/14シーズンになり、ガビ、チアゴと共にラウールはチームのリーダ格になっていた。メンバーの模範となり、彼のクラブへの貢献と献身性で全てのサポーターから愛される選手となった。

そしてこの年、アトレティ最高の選手になっただけでなく、プロ選手としてもラウールは最も素晴らしい選手となった。チームには、点取り屋としてジエゴ コスタ、ビジャ、アドリアンがいた。ラウールはフォワードではないけれど、それでもアタッカーとしてのポジションを獲得した。50試合以上出場し17ゴール。リーグ戦、カップ戦、チャンピオンズリーグで重要なゴールも決めた。

私が覚えてるゴールの1つが、メスタージャでのものだ。このゴールで勝利をたぐり寄せ、3試合を残してリーグ優勝を手中に収めた。キーパーを全く見ずにほぼ背中でのシュート。それでもシュートをゴールに入れて、直ぐにサポーターと祝った。

リーガ最終戦はバルセロナでの試合であり、難しいものだった。引き分けた。ジエゴ コスタが怪我をし、アルダが怪我をし、交代でラウールが入り、アレクシスの先制ゴール。我らがゴディンの同点弾。

そして……私たちも知る結末………リーグ優勝!!

ガビ、コケ、マリオのような多くのカンテラーノ達は、私達と同じく子供の頃から夢見ていたその瞬間を堪能した。ラウールも同じように喜んだ。たとえファンフランのように外からやってきた者だったとしても、ただのアトレティ以上の存在である。優勝を達成するために苦しみ、闘ったこと、そして1年中チームの重要な存在としていることの難しさをよく知るのは彼のみである。

カンプノウでの最終戦の時のことを2つ覚えている。ゴディンが床に座っているところと、もう1つは、ガビとラウールが抱き合いながら一緒に泣いているところだ。

1週間後、リスボンでの決勝。アルダは怪我で来ておらず、ラウールは最も重要な決勝で再びスタメンとなる。ゴディンのゴール。ラウールはボールを押し込むためにあそこにいた。

全員がこの試合がどのような結末を迎えたか知っている。コスタの怪我。足をつるフィリペ。疲れ果てた93分など……。翌日、私は後半のアルダのプレーについて考えてた。試合のリズムをコントロールしていれば負けることはなかったのかなと。でも時間が経ってみると、ラウールに代えてソサをいれたことで空中戦の強さとチームの個性を失ったし、必要のない唯一の交代だったことに気づいた。もちろん、なんとも言えないことだし、自分だけがそう考えているわけじゃないとも思う。

けれど、すぐにラウールは、あのリスボンの不吉な夜を吹き飛ばした。まず、クラブやサポーターにとってどんな意味があるか、全員が知っていたスーペルコパ。その終盤でゴールを彼は決めた。その後、ホームでの試合でもゴールした。この2試合のゴールは、彼に何を残したのかわからないけど、5月17日の夜に泣いた全てのアトレティの気持ちと共にゴールを祝っていた。

これは、アトレティコでのラウール・ガルシアの年表みたいなものになってるかもしれないけど、私の思い出以上にたくさんのものがここにある。

彼のゴールとかアシストとか具体的なテクニックではなくて、アトレティの選手であること、アトレティのユニフォームを着ること、アトレティの仲間たちによって作られたもの。

ラウール・ガルシアはこのクラブで、ルイス・アラゴネスの8番という数字の重みを背負ってきたし、最後までアトレティコの8番にふさわしかった。私達は最後だと知らなかったけど、あのラス パルマス戦は、ラウールという人は何であったかを示す例だった。

アトレティコの歴史において、最も国際試合を経験した選手であり、2010年から取った7タイトルの6つを掲げて、多くの人にとって重要な存在となってここを去る。

ラウールと一緒に出席していたガビやコケやチアゴやファンフランたちのいる感動的なお別れセレモニーで、彼は泣いた。セビージャでの8番を示しながらのゴール祝福、コケは記者会見で泣いていた。

親愛なる叔父がロッカールームから去ることにあなたは気づく。彼は目標を達成したと言った。表裏のない人。彼についての印象を尋ねると、なにも変わらない人だと答える。でも他の同僚たちで彼の存在は見え難かった。

そういう意味で、ラウールはスペインのピッチではうまくいっていないと言える。

ときおり激しく、誰に対しても恐怖心を持たず、常に試合の最後まで走るが、誠実な人。最後の笛まで立ちはだかる面倒くさい叔父。クリスティアーノやシャビ アロンソやネイマールみたいな選手に立ちはだかっていたし、いつもチームや仲間やサポーターを守ってきたことを全員が覚えている。

私達の家族の一人、キャプテンのラウールが去る。

私は、彼のせいで、今はアスレティックのゴールを祝うだろう。国王杯の試合で雨の中の新しいサンマメスでの彼のゴールを祝ったように。頑張れラウール。君がまたカルデロンに戻ってきたら、君を再び称えるだろう。

君を疑ったこと、そして90分の間、君のチームに負けてほしいと思うことを許してほしい。

Gracias Raúl

furente https://www.google.com/amp/s/futbolenrojiblanco.wordpress.com/2015/09/04/raul-garcia-uno-di-noi-para-siempre/amp/


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