価値は相対で移ろう

第二回目は価値がテーマです。
価値とはその物事が役に立つかの度合い。商品がもつ交換価値の本質とされるものです。
一つ例に出してみましょう。
私は今も昔もゲームが好きです。
子ども時代は稼ぐ力は当然ありませんから、1本5,000円するゲームソフトはそれはそれは高く、買いたい時に買える代物ではありませんでした。
物価上昇により現在では1本7,000~10,000円近くまで上がっていると認識しています。
ファミコン時代であれば3,000~4,000円出せば1本買えたことを考えればなんて高くなったんだと思ってしまいますね。
さて、ここで考えるのは上記の”価値”の後者の意味についてです。
商品がもつ交換価値の本質とはいったいどういうことでしょうか。
主観と客観の二つの観点から考えていきます。
 まずは主観から考えていきましょう。
子どものころのゲームは魅力的で私をワクワクさせるものでした。
1本買えば、半年や1年は余裕で遊べるくらいの楽しさです。
子どもでは大金の5,000円を払ってまでも遊んでみたいと思うから買うのです。
限られたお小遣いですから、1本を当然やりこむしかなかったというのもありますが。
生活費は子どもですから親が払って暮らしているので考えなくても良いですよね。お小遣いの使い道は余暇や興味あるものに集中することができます。
使いたいものに使うことができた半面、ゲーム雑誌を見ては新しいゲームが出る期待とワクワクがあり、ゲームショップに行っては何時間もにらめっこしていたのを覚えています。
つまり、子どものころの自分は5,000円を払ってでもゲームを買う価値があると思っていたわけです。
 次に客観を考えます。それは相場です。物の価値を決めるのは需要と供給があり、この価格なら買ってくれるだろうと思い価格設定しているのです。私みたいな子どもたちやゲーム好きがこの価格なら買ってくれるだろうという価格設定にしているのです。
細かいところをいうと商品開発をするためのコスト(原価ですね)に利益を上乗せして価格設定しているので厳密には自由に価格設定できないと思いますが。
 主観と客観について考えてきましたが、ゲームは面白いと思うけどそこまで興味ないライトユーザーだったらどう思うでしょうか。例えば、スポーツが好きで身体を動かすのが好きでバスケットボールが好きな人がいるとしましょう。寝ても覚めてもバスケットボールのことを考えていたそんな時代も私はありました。ゲームよりバスケの好きが勝り、バッシュ(バスケットシューズ)はどれにしようか、新しいシャツやハーパン(ハーフパンツ)が欲しいとか考えたら尽きませんね。
 子どものころは当然ながらお金はありません。親に買ってもらえたということもありましたが、使い道はスポーツ用品やNBAグッズやビデオなどいろいろ関心がいくものです。お金があればゲームも買えると思いますが、お金は有限なので今回はすべてが充足しないと仮定します。
 話は戻ります。スポーツマンの子どもがゲームに5,000円払ってでも買う確率は前者の子どもと比べて高いでしょうか、低いでしょうか。おそらく何も習い事をやっていないゲーム好きな子どもとスポーツ大好きな子どもという背景が違う二人を並べておかしいのかもしれませんが、そこは愛嬌として。結論、おそらく低いでしょう。
 限られたお金(お小遣い)、限られた時間(遊ぶ時間とスポーツする時間)、好きや関心があるもの(ゲームかバスケか)と考えた時に前者の子どもはゲームに関心があるしゲームを遊ぶ時間があるでしょう。後者の子どもはバスケに関心があるしゲームを遊べる時間は前者に比べればきっと少ないでしょう。
 価値とは自分自身で決めているものと他人が決めているものがあると考えます。

 蛇足になりますが、時間軸をここに加えたとしましょう。ゲーム好きだった少年が大人になり、自分で稼ぐ力が身についたとしましょう。子どものころとは比べ物にならないくらい限られた時間の中で、限られたお金を使って暮らしていくことになります。ゲームソフトの価格が7,000円になったとしてもおそらく買えるでしょう。しかしどうでしょう。かつての子どもの時のような5,000円でワクワクする高揚感や満足感は得られるでしょうか。大人になってもワクワクする人はいるかもしれませんが、子どものころとは比にならないでしょう。同じ人物であっても時とともに価値は移ろうということです。他人と比べれば価値が違うのはなおさらです。

 では次に別の視点に変えていきましょう。
お金自体に着目していくとどうでしょうか。
私たち日本人の共通通貨は日本円です。
日本円で給料をもらい、日本円で支払う。
1円は今も昔も1円です。と思いますか?
自販機で缶コーヒー100円だった時代はもう過去の話ですし、今は150円、160円とモノの値段は上がっています。
お金という観点でいくとお金の価値は上がっているでしょうか、下がっているでしょうか。おそらく価値は下がっているでしょう。
缶コーヒーという商品が、人に与える効用は今も昔も変わらないとしたときに、その対価を昔よりも多く払わなければならないのです。
頭では理解してても、腑に落ちない部分があるとすれば、こう考えるとよいでしょう。
日本銀行券という紙幣や硬貨という物質は今も昔も変わりません。(人物が変わっているとかデザインが変わっているということは抜きにして)
1万円は1万円でしかないのです。これが変わると通貨として機能がしません。私がもっている1万円札を1万円だと認識しているとします。しかし、Aさんは1万円札を見て「10万円だね。」ということはありませんね。
商品やサービスと交換するための通貨の数値は共通でなければ話になりません。それは通貨を通じた商品交換ではなく、物々交換ということになります。話がそれましたので元に戻します。
財布に1万円があり、1千円を使ったとしましょう。財布の中身は9,000円です。お金が減ったなと誰もが思うでしょう。それはなぜでしょうか。
財布に日本銀行券1万円あり、9,000円になれば物質的にも減るということはわかるでしょう。
次に50年前と現在の1万円札について考えてみましょう。
聖徳太子の1万円札は古くても1万円札として使うことは出来ます。
ちなみに明治18年発行の壱円札も現在でもつかうことは出来ます。
さて、50年前の1万円で一体どんなことが出来たでしょう。また、現在の1万円で何が出来るでしょうか。
1973年の大学卒初任給(公務員)は55,600円、ラーメン160円、銭湯55円、新聞900円という時代です。
2023年の今、ラーメンは800~900円払わないと食べられない。1,000円いっても別に普通な世の中になっています。新聞も4,000円はいきますね。

長期的な視点で見ればお金・日本銀行券・現金は価値が下がっているのが分かります。ポイントは現金が悪いとかそういう話ではなく、モノごとや時間軸と比較した時に相対的に価値が下がっているという点です。
当然ながら経済状況によって現金のほうが有利な時はあります。短期・中期的では価値が上下する可能性は当然ながらあります。

価値は相対で移ろうもの。
今回は長くなってしまったので次回は価値が変わっていった商品やサービスについて書いていきたいと思います。

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