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変化のタイミング

8時起床。
9時からお昼まで自宅で仕事。
部屋は暑いがサーキュレーターを回して全開で換気をして、保冷剤とか氷枕の類を使えばまだエアコンは付けずにいられる。
6月いっぱいまでエアコン我慢と決めていたが、まだもう少し付けずにいよう。
電気代がかさむので、節電意識が強めなのである。

そう7月だ。
梅雨で不安定な天候ながら、私の住んでる地域は実質そんなに雨は降っていない気がする。
ここ数日、コロナの緩和と夏本番への助走で街が活気付いているように感じる。
そして人々が変化を求めていっているように感じる。
新しいことを始めたり、続けてきたことを休んでみたり、一人ひとりに少しずつ、日々を変えようとする意識が芽生えているみたいだ。

周りの知人たちの動向を見てというのもあるし、なんとなく肌でそう感じる。
こういう予感めいたものは、私の場合、概ね当たっている。
みんな変わりたいのだなぁ、と思う。
それ自体は悪いことじゃないけど、そこに焦りとか浮き足立つ様子が見られると、危なっかしくてハラハラする。

選択を誤って取り返しのつかないことにならないように注意しなくてはならない。
周りに急き立てられたことを理由にして大きな行動を起こすべきではない。
こういう時こそ冷静に、これまでの経験と、科学的な観点と、そして自分の中の信念とを掛け合わせて決断すべきだ。

それでも未来のことである分どこかに不確定要素は生まれるが、出来うる限りそれを小さくしてから臨むのが望ましい。
その能力が足りていないのが未熟さであり、それによって生じる感情が焦燥だ。
いま世間に焦燥感が溢れているならば、それは良いこととは言えない。

コロナで行動を起こせなかった人たちのフラストレーションが溜まっている。
それが一気に解き放たれる時こそ、大きな人的な事故に注意が必要だ。
コロナによる規制も緩和も、人間の手によるものだ。
他人に操作されたタイミングでしかない。
それを自分が行動を起こすタイミングだとするのは早計である。
社会に流されてはいけない。

人は日々刻々と行動を起こし続け、変化し続ける。
そこに規制も緩和もないはずである。
共通の意識が一時に集まるのが不自然なことだ。
周囲の環境とは関係なく、少し落ち着いて、本当に自分に合ったタイミングというものを見定めてみてはどうかと思う。

夕方ごろ、スーパーに買い出しに行く。
家を出る前に炊飯器の予約セットをした。
お惣菜コーナーで値引きされたおかずを買う。
お菓子も買う。冷凍食品も買う。

家計簿が売っていない。
6月で家計簿のページが終わってしまったので、いま使っているのと同じのを、同じ100均屋さんで探したのだが、なかった。
時期的に店頭に置いてある家計簿の種類が少なくてもしょうがないと思ったけど、全くないのはいかがなものか。

次に文房具屋さんを探してみたけど、そこにも一つも家計簿が置いてなかった。
なんてことだ。
同じ家計簿を買うことを諦めて妥協して文房具屋さんで探したのに。
少し値段が高いやつでもいいかと思って文房具屋さんで探したのに。

なんだか自分が探しているものがお店で見つからないんだよ最近。
ここ数日の日記で書いた、短いペンとか(最終的には見つかったけど)、Q-MAX値が表示してある冷感敷きマットとか。
いい感じのノーカラージャケットとか、國分功一郎さんの新書本とか。
いつもお店を2、3件回っても無いの。
まいってしまうよね。
まいってしまうの。

結局家計簿は諦めて帰宅した。
炊飯器のご飯が炊けていることを確認した。
蒸し暑くて肌がベトつくので食事より先にお風呂でシャワーを浴びた。

お風呂を出てウダウダしていたら、30分ぐらい経っていた。
お風呂が10分ぐらいなので、帰宅してから40分。
そろそろ食事にしようと準備をし始める。

40分といえばうちの炊飯器でご飯が炊ける時間の長さだ。
つまり出かける前の予約セットは全く必要なかったことになる。
帰宅してすぐボタンを押せばそれでちょうどよかったのだ。
何が節電意識強めだ。
無駄に保温している時間を作ってしまった。
不覚である。

お惣菜コーナーで値引きされたメンチカツ美味しかった。


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