特攻兵に志願した父の人生
9年前、父が亡くなってから、父が経験した戦中、戦後の体験を、できれば多くの方に知ってほしい、伝えていきたいと思っていました。
父の最期については以前の記事でも書かせていただきましたが、父が入院していた当時、都度書き記していたものに加筆修正して、あらためてここに公開させていただこうと思います。
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平成26年2月3日、父が入院した。
もう83歳という高齢である病床の父に、今まで言えなかった事を伝えなければと思った。と同時に聞かせてもらいたかった事もたくさんあった。
私に聞かせてくれた父の貴重な人生を、しっかり書き留めておこうと思う。
父の兄妹は6人。長女、次女に続き、昭和5年生まれの父が3番目で、下に妹が3人いる姉妹ばかりの中の唯一の男子として育った。
祖父は宮大工だった。
何人もの弟子が泊まり込みで生活をしていたそうだ。
父に言わせると
「小学4年生までしか学校に行っていなかったのに、難しい漢字もみな読み書き出来て、神社や寺院の建築も請け負う立派な棟梁だった。」
「大棟梁(大統領)だった」
という祖父だったようだ。
父の賢さの遺伝子を見付けた気がした。
父もまた同じように、尋常高等小学校中退の学歴ながら、読書好きだったためか、難しい漢字は超得意だったし、本当に色々な知識に長けている人だった。
祖父存命の頃、父のすぐ上の姉が「彷徨っていた乞食の親子を家に連れて来てしまった」というのは我が家に伝わる有名なエピソードで、お腹をすかせた親子が可哀想で見ていられなかったからと食べ物を差し出す事が出来る家だったのだろう。
しかし、祖父が幼い子供達を残してこの世を去ってしまってから生活は一変する。
父はまだ小学5年生の時のことだった。
働き手だった家長がいなくなった途端に、食べる物にも困る日々を送る事になってしまった。教師を目指して入学する予定だった師範学校も諦めることになった。
「6年生の修学旅行では、5円の旅費が払えなくて、一人だけ自分は修学旅行に行きませんと言った。先生からは、戦争もひどくなっていて、もうこれが最後の修学旅行になるかもしれないから、みんな行くようにと言われていたのに、どうしても5円が払えなかった。」
本当は行きたくてたまらなかった。たった一人行けないなんて本当に辛かった。その思いを、母親が姉たちに手紙を書いてくれたようで、働いていた姉から5円が送られて来たそうだ。
「もう嬉しくて嬉しくてたまらなかった」
そう言って涙を浮かべて、父は手を合わせて遠い日に思いを馳せていた。
家に食べる物はほとんどなくて、野山に行っては食べる物を探していた。蟻や虫が食っている物には毒がないと聞いていたので、蟻がたかっているようなものばかりを選んで来ては、井戸水で洗って食べていた。
「イタドリなんか全然美味いものじゃなかった」
2m近くにもなるイタドリは、茎が太くて空腹だけは満たしてくれたようだ。野いちごも採って食べた。でもそんな事では食べる物は全然足りなくて、まだ幼かった妹達は「腹が減った」「腹が減った」と泣いていた。
「その姿を見るのが辛くて辛くて・・・」
父の心に突き刺さって抜けなかった悲しい光景が蘇っている。
母親は、生活苦に幼い妹達二人を抱いて、家の裏の海に入水しようとしていた。その光景を目の当たりにしてしまった父は
「自分が戦争に行って特攻兵になる。戦死したら家には2,000円のお金が支給される。それで生活してくれ。自分の事は諦めてくれ」
と、妹達を道連れに心中しようとした母親の思いを断ち切らせたのだった。
戦争は悪化していて、年若い兵隊まで募るようになっていた。
「当時2,000円あれば、家が建つくらいのお金だった。予科練に志願したのはお国のためでも、天皇陛下のためでもない。家を守りたい一心だった」
昭和59年に、「海友会」という地元に残る元海軍の同窓会のような仲間で発行した新聞に父が寄稿した事があった。
その時の原稿には、予科練の恰好良さに憧れ、お国の為に飛行機乗りになる事を夢見て志願したと書かれていた。
成績優秀、体格も健康優良児に選ばれるほどだった為、トップで試験に合格し、予科練の兵士としての採用が決まった事が誇らしげに書かれていた。
「本当は誰にも言うつもりはなかった」
そう言って、か細くなった声を絞り出した後の目には、いっぱいの涙が溜まっていた。
父は、家族を守る為に志願したという真実を死ぬまで明かさないつもりだったのだ。
予科練に入隊したのは昭和20年1月14日。
出発の1月13日は、三河地震で早朝の大地が揺れていた。
壁が崩れて、祝膳の上に土が舞う。
それでも駆けつけてくれた方達のお膳を何とか整え、近所の人や親戚の人など、約100名の「万歳」の言葉に送られ、父は奈良へと向かって行った。
何が「万歳」なんだろう。
何が「お祝い」なんだろう。
14歳の男の子が、家族を守りたい一心で戦地に赴く決意を誰が知っていたのだろう。
予科練で父を待っていたのは、憧れのゼロ戦ではなかった。
飛行機工場は空爆を受けて、もう日本に特攻兵の乗る飛行機など一機もなかったころだったのだ。
そこで奈良から横須賀の三浦半島、久里浜まで移動し 七一突撃隊「伏龍」となった。
「伏龍」
初めて聞く言葉だった。
情報などほとんど入ってこない中で、父達は、どれだけの事情を聞かせてもらっていたのだろう。
この「伏龍」は、とてつもなく恐ろしい、馬鹿げていると言っても過言ではないものだった。
乗るべき飛行機がなくなり、過剰人員となった予科練生たちを「有効利用」する為に考えられたというもので「兵隊が余ったから人間機雷にしてしまえ」というものだったようだ。
粗末な潜水服を着せられ、水中に待機し、敵の船が来ると浮上して竹竿の先に付けた機雷をぶつけて自爆するというもの。
こんなものが実在し、父はこの人間機雷になる順番を待っていたのだった。
入隊中、父の上官の中佐から、父ひとりがそっと呼び出され
「お前は父を亡くして男一人。母と幼い姉妹も大勢いる。急いで特攻隊で命を落としてはならない」
と言われた事があるそうだ。
お国の為に命を投げ出すのが美徳だと思われていた時代の中にも、若い命を惜しんでくれる人がいてくれた事に、ひとすじの光を感じた。
この方のお陰で、父は生きて戻って来られたのかも知れない。
病室で父の十八番だった「同期の桜」を聞かせたら、父は泣きながら一緒に歌いだした。
「出撃前には、必ず皆でこの歌を歌って送り出した。明日は出撃だという前の晩には、気が狂ったように刀で竹を次々に切りつけている人もいた。泣いている人もいた。それでも出撃の前には覚悟を決めた静かな顔をしていた」
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょう 国のため
幸いにも、父の命が海原に消される前に終戦を迎えた。
「浜辺で砂に足を焼かれそうになりながら、玉音放送を聞いていた。よく聞き取れなかったけれど、日本が負けたという事はわかった。」
「勝てると思っていたの?」
「思ってないよ。飛行機も武器もなくて、B29を竹やりで落とそうとしとっただ。どう考えても勝てる訳がない」
「そんな負け戦に命を落としてもいいと思っとった?」
「それでも戦争で死ぬという事は名誉な事だと教えられていた時代だった。死ぬ事が怖いとも思わなんだなあ」
14歳で命を投げ出す覚悟をした父が、点滴につながれ、83歳になっても生きることに執着しようとしている。
やはり命は安易に投げ出すものではないとつくづく思う。
終戦を知らされてから十日ほどは残務整理などで基地に残っていたそうだ。部下をたくさん死なせてしまったと自決する上官もいれば、余っていた食料をせっせと自宅へ運ぶ上官もいたそうだ。
家に帰って来られたのは8月の終わり頃。
空襲で一面の焼け野原になった光景をみながら、何とか最寄り駅までは電車で帰る事が出来、15kmほどの道を歩いて自宅へ戻って来た。
予科練の七つ釦の服を着て、警察官の制帽みたいな帽子を被った少年が真夏の夜に自宅への道を歩いていた。
「自分の姿を見た時のお袋の嬉しそうな顔が忘れられない。あの時、本当に生きて帰って来られて良かったと思った」
そう言って流れる涙が止まらなくなった父の脳裏には、その時の母親の顔がはっきりと映し出されていたのだろう。
母親にとって何人子供がいようが、諦められる命などあるはずもない。
孝行息子の決意を許してしまった事に、身を切られる思いをしていたのだろう。息子の命と引き換えに2,000円もらうより、大事な息子が生きて帰ってくれた事が何十倍も嬉しかったに違いない。
生きていたからこそ、戦後は家族の支えとなり、力となって頑張ってくれたのだ。それから父が成し遂げてくれた事は数えきれない。
東京オリンピックの開催が昭和39年だったと即答出来るのに、昭和38年の私が生まれた年を答えられない父。
祖父の跡を継いで大工になり懸命に働いても決して楽ではなかった日々。
幼かった妹たちを育て上げなければいけない一家の大黒柱だった。
次男が生まれる直前には伊勢湾台風で家は全壊。
幾多の困難に立ち向かうため必死に働き頑張ってきたのだ。
覚えているのは日曜も祝日もなく仕事に出かける姿。
玄関で地下足袋のコハゼを止めている後姿。
家の前の作業場で夜なべ仕事をしている姿。
今は、自分の身体が思うように動かせないもどかしさに悔しい思いもしているのだろう。
「本当はこんな姿を見せたくなかった」
「迷惑かけて申し訳ない」
そんな言葉を繰り返す。
でもね、こんな穏やかに父と娘が語り合える時間は至福の時だよね。親孝行だと周りの方は言ってくれるけれど、断じて違うのだ。
父は、最後の力を振り絞って娘孝行してくれている。
この人の娘で良かった。この人が父である事を誇らしく思える。
父の人生は、分厚い本の様だ。何でも知っている百科事典のようでもあり、色々な物語が描かれている小説のようでもあり。
私の人生は、まだまだ薄っぺらいなあと思う。父が戦争から生きて帰ってくれたからこそ繋がった命の一つとして、私もこの人生 精一杯生き抜いていかなければと思う。
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平成26年4月6日、満開の桜が散り始めた頃、父は、潮が引くように静かに新たな旅に出ました。天理の教えで言う「出直し」です。
83年借りた身体を天にお返しして、御霊はまた新たに生まれ変わるのを待っているのだと。
天理教どころか、何の信仰も持たない私だけど、今はこの教えを信じたい気持ちでいる。
父はきっと新たな出直しをしたのだと。
辛い事の多かった人生だったけれど、徳を積んで生き切ったので、来世はきっと幸せに満ち溢れた人生でしょう。
最後に、父が亡くなる一週間前に、誰に向かって言っているのかわからない表情をして、独り言のように、でもしっかりとした口調で語っていた言葉を記しておこうと思う。
特攻隊にいた時に書いたと言っていた遺書でしょう。今際の際に、亡くなった戦友を思い出したのかもしれません。旅立つ準備をしていたのかも知れません。
これが、私が聞いた、父がしっかりと話した最後の言葉でした。
「母上様、先立つ不孝をお許し下さい。間もなく沖縄より出撃いたします。私の望みは、幼い妹たちに腹いっぱい白いご飯を食べさせてあげる事です。天皇陛下の為に行くのではありません。妹たちに白いご飯を食べさせる為に行くのです。まずは先立つ不孝をお許しください。」
今頃、久しぶりに母上様にも会って「よく頑張って生きた」と褒めてもらっていることでしょう。
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亡くなった当時、父の人生を知ってもらいたいと、父の姉妹である叔母や、孫たちである甥や姪に配りました。
父を知る方や、同年代の方も読んでくださり、
「後世に残してほしい」
と言ってくださる方もいました。
9年前にはできなかったことを、今こうしてnoteという媒体を通して公開させていただけることを嬉しく思っています。
私の父の人生という個人的な内容ではありますが、戦争という過ちを二度と繰り返さないためにも、父の人生を通して、約80年前の日本について知ってくださるかたが一人でも多くいてくれたらと願います。
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