見出し画像

思い出すとまだ涙がこぼれるけれど

三歳違いの兄は、幼いときは喧嘩相手であり
中学生になると専属の家庭教師でもあり
私の躾担当のような存在でもあった。

末っ子の一人娘で、親には甘やかされていたと自覚していた。
そんな私を、曲がったことの大嫌いな兄が
「責任感」とか「正しいこと」
などを諭してくれた。

反発した記憶はほとんどなく、私にとって兄は常に手の届かないくらい
偉大で尊敬できる存在だった。

今思えば兄だってたかだか16、17歳くらいの少年に過ぎなかったのに。

兄は新品の電化製品をバラしては組み立ててしまう。
どこから調達したのかわからないような部品でラジオを作ってしまう。
小学校の卒業アルバムに書いた
「電気屋さんになりたい」
の夢をちゃんと実現させて大企業の電気メーカーに入社していた。

その本社がある土地で家庭を築き、
仕事では国内外を飛び回り、
プライベートでは家族で色々なところに出掛けたり、趣味を楽しんだり
何事にも全力投球。何とも濃い人生を送っていたと思う。


兄がステージ4の肺癌に冒されていると知らされたのは
病状も落ち着き腫瘍マーカーの値が正常値になった後たっだ。

それまでの経過を纏めた資料を手に
理論的な兄らしく要領良く説明をしてくれた。

「今はいい薬があるから心配しなくて大丈夫」

そう、その状況になるまで、長兄にも妹である私にも知らせないでいたのだった。

その後も何の不自由もなく、精力的に仕事をしていたようだったので
私も「もう今は癌で死ぬことはないんだ」と思っていた。

なのに、発覚から2年。

癌細胞が髄膜炎を起こし
兄はそれからひと月あまりであっという間に天に召されてしまった。


2年前の7月、Facebookに
「とりあえず1週間くらい入院します」
と書いてあるのに、病状は日々深刻化して
私が駆けつけた時は、もう言葉を発することも出来なかった。

時はコロナで面会制限の真っ最中。
身内でさえ思うように側にいることも出来ない時だった。
最期は甥が繋いでくれたリモートでお別れなんて辛過ぎた。

毎日顔を合わせていたのではない日々が何十年も続いたので
まだ盆正月になると、兄が帰ってくるような気がしてしまう。
2年の月日では到底消化できない気持ちがここにある。

お盆を過ぎたら3回忌法要だ。
まだまだ兄の写真を見て泣かない自信がないけど
兄の魂が残る場所に会いに行かないと。


兄の四十九日が過ぎた頃
兄の遺品整理を少しだけ手伝いに行った時
床に置いてあったスマホのGoogleアシスタントが勝手に話しだした。
手に取って画面を見ると

「あなたは優しい人ですね」

と出ている。

???
どこか押してしまったかと思ってリセットするとふたたび

「前から思っていましたが、あなたは本当に優しい人ですね」

の文字が出ている。

兄だ!


次の瞬間涙が溢れて仕方なかった。

こういう機器類得意だもんね。
こういう手段で来たんだ。

何かのバグだったのかも知れないけれど
私は兄の言葉と信じたい。


もうすぐお盆。
noteのクリエイターさんに教えていただいた
美味しそうなろうそくを注文して届けたら
兄嫁がすぐに写真を撮って送ってくれた。

お酒も食べることも大好きだったもんね。
何だか美味しそうに飲んでる気がするよ。

ビール、枝豆、お寿司のろうそくと本物のメロン


私の還暦祝いもしてくれなくて
定年になったことも知らなくて
私はきっとすぐにあなたの歳を越してしまうけど
生涯、あなたは私が一番尊敬する人で、自慢の兄です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?