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【碁盤斬り】揺れ動く清廉潔白と、人を変えてしまう怒りの力【映画】

◆同一人物とは思えない怒り
 鑑賞していて一番迫力を感じるのは、柳田の変化だ。初めはおとなしく誠実な人間だが、自らを貶めて妻を死に追いやった人物を知ったときの怒りはまるで別人の形相となる。特に声の迫力は恐ろしく、こちらの背筋まで伸びるほど。ここまで別人に感じるほどの演技はとんでもないものだった。
 物語としては、敵討ちと江戸の粋が合わさって王道の物語。そこに、清廉潔白であることが正しいのかという問いかけが行われる。
 ちなみに私は囲碁はほとんど分からないが、特に観ていて分からないということはなかった。

◆揺れ動く信念
 柳田は武士としての矜持として清廉潔白であること、囲碁は正々堂々打つことを信条としていた。それは、濡れ衣を着せられて藩を追われて貧しい浪人暮らしでも変わらなかった。それは吉原や碁会でも信用されていたところであり、源兵衛の商いさえも変えるほど立派なものだった。
 柴田の罠によって濡れ衣を着せられたこと、妻を強引に手籠めにして死に追いやったことを知り、彼の心情は大きく様変わりする。感情を整理できず怒りに打ち震える中、五十両を盗んだのではないかという嫌疑をかけられて、矜持のために娘は自らを犠牲にしてお金を工面させてしまう。
 復讐の旅に出た柳田は復讐の怒りと、厳格な自分の犠牲になった人の存在で揺れ動く。路頭に迷った人が少なからずいたこと、自らの厳格さ、正々堂々さが恨みにつながったこと、身を汚されたことに耐えられず身を投げた妻も夫が許さないだろうからと身を投げたのかもしれない。自らの清廉潔白にこだわる信念が、柴田の恨みを買って冤罪をかけられて、妻の復讐に燃えていることさえも身から出た錆なのかもしれない、と。
 もちろん、そんなことで復讐をやめることはできない。しかし、彼の生き方を考え直す機会となった。

◆なぜ碁盤を斬ったのか
 復讐を果たした後、五十両を盗んだことが冤罪であると判明し、そのために犠牲になった娘を取り返す期限に間に合わなかった柳田は、弥吉と約束を語り源兵衛の元に乗り込む。互いの命をかばい合う二人を居直らせて二人とも首を頂戴すると宣言するが、柳田は名品の碁盤を斬り伏せて、その場を去った。
 なぜ、碁盤を斬ったのか。タイトルにもなっているシーンであり、最後の山場だった。
 いくつかの作品において、命の代わりにものを斬って命をいただいたとすることはある。ただしかし、ただの身代わりだけではないように感じた。
 私は、恨みとその復讐の怒りを生んだ自らの厳格な清廉潔白さと、囲碁への決別に感じた。
 柳田は復讐の手段として囲碁を選んだ。勝負の手段として囲碁を選んだのは何よりも相手の自信があるものであり、自らの人生でもあるからだろう。しかし柳田は、柴田と同じ打ち筋で始めるという挑発的な行為に出る。そして実戦でなかなかみられる形ではない石の下の勝ち筋を見出す。身を斬らせて骨を断つと言えば聞こえはいいが、正々堂々というよりは執念と罠の印象が強い。
 彼の囲碁は命を奪うものになってしまったからか、これ以降囲碁をするシーンはない。正々堂々とする囲碁ではなくなってしまったのではないか。
 また囲碁は彼の清廉潔白な生き方を象徴する存在だ。それが恨みを買って復讐につながり、娘を犠牲にして怒りの感情になっている。それを終わらせるために、囲碁を斬って別れを告げたのではないだろうか。

◆清廉潔白で実直な人柄であったこと
 決して完全な聖人というわけではないが、彼の実直さは多くの人に影響を与えている。
 ケチ兵衛と揶揄されていた源兵衛は、正々堂々たる碁を打つ柳田に影響されて商売を改めた。
 藩の武士である梶木も、柳田の人柄を知っているからこそ敵討ちに同行して藩に戻るよう何度も説得した。
 賭け碁の会を開いていた長兵衛は、初対面であってもその思いを感じ取って上がることを認めて復讐を見届けた。
 吉原の女主人お庚も、柳田が帰ってくることを信じており、一日間に合わなかったことも流した。
 これらはすべて柳田が武士としての矜持であった、清廉潔白さがもたらしたことだ。それによって苦しむことにもなったが、彼を支えたものであることは変わらない。
 五十両を柳田が盗んだかもしれない、という番頭の話を聞いたとき、源兵衛はこう言った。
 「もし仮に柳田様が五十両を盗んだとしても、それは何かしらの理由があってのことだろう。それならば喜んでお渡しする」
 付き合いも短く、素性も詳しく聞かされていない間柄の源兵衛にこれほどのことを言わせたのは、碁から伝わるその実直さと高潔さがあるからであり、それに応えたいと思う江戸の粋な町人だからであろう。
 助け合いの社会には、互いにその両方が必要に思う。それは決して失われたものではないし、当時にも足りてない人物が何人もいる。気づかされた時に変われるか、相手に応えられるかが大事に思った。

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