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ドラマ「僕のいた時間」が教えてくれたこと。

こんにちは。ひかです!

今回は、私の大好きなドラマ「僕のいた時間」について書きます🫶🏻

主人公の選択

2014年放送のドラマ「僕のいた時間」。主演は三浦春馬さんでした。

当時中学生だった私は、このドラマを観て衝撃を受けました。今でも時々観たくなる忘れられない作品です☺️

魅力は語り尽くせないほどありますが、1番はリアルさだと思います。主人公がALSを発症し、だんだん体が動かせなくなっていく様子を細かく表現されています。三浦春馬さんの演技力が半端ないです!

(私はALSではありませんが、SMAと症状は似ている部分もあるため、わかりみが深すぎました🥺本当に細かいところまで忠実に再現されています。)

物語の終盤で主人公に迫られるのは、人工呼吸器を着けるか着けないかの選択です。

人工呼吸器を着けなければ、やがて呼吸困難になり死に至ります。

人工呼吸器を着ければ、長く生きることができます。

長く生きることはできるとしても、体は動かなくなり、言葉を発することも困難になります。体のどこか1ヶ所だけでも動かすことができれば、スイッチなどを使って意思を伝えることはできます。逆に言えば、全身のどこも動かせなくなったら、意思を伝える術はないということです。

一度人工呼吸器を着けると、外すことは許されません。それはすなわち死を選ぶことだからです。

中学生の頃は、なぜ主人公がすぐに人工呼吸器を着けると決められないのか、分かりませんでした。

なぜなら、人工呼吸器を着けて生きることは、私自身にとってごく当たり前のことだからです。

私にとっては"ふつう"のことなんだけど

私は、2歳になる時に気管切開をして、人工呼吸器を着けるようになりました。

といっても、自発呼吸はあるので、着脱可能です。

ないと生きられないわけではないけれど、あるととってもありがたいものです。

呼吸筋が弱い私にとっては、ただ息をするのも結構疲れるんです。特に何もしていなくても呼吸してるだけで体力を奪われます。

でも人工呼吸器を着けていれば疲労も少なく過ごすことができます。何かに集中したい時やたくさん話したい時は着けていると非常に助かります。(吸う空気の量が安定するので、声も大きく出せるようになります)

私にとって人工呼吸器は便利グッズにすぎません。QOL爆上がりのお供くらいにしか思っていません笑

日常的に着けようか外そうか決めてるので、本当に些細な選択なんです。

だから、これが大きな決断だなんて思ったこともありませんでした。

人工呼吸器を着けても声で話せるし口から食べられるし、歌を歌うことだってできます。(これもなかなかのレアケースみたいです。かなりの個人差があります)

それなのに、なぜこれほど大きな問題になるのか。

自分の尺度で計ってはいけないこと

私には当たり前のことである人工呼吸器を着ける生活。でも、多くの人にとってはそうじゃない。

20代になった今、改めてドラマを観返してみました。

主人公と同年代になり、就活の辛さ将来への不安もすごく共感できました。評価されるために自分を偽って、必死に頑張っているのに否定されて。自分の価値が分からなくなってしまう時もありますよね。

やっと就職して、愛する人もできてこれからという時に、まさかの発症

未来が全て閉ざされたような気持ちになるのだろうと思います。

私は物心ついた時からこの身体なので、この感覚は分かりません。それまでずっと健常者として生きていた人が突然、障害を負った時にどのような気持ちになるのかは、計り知れません。

"同じ"障害者だから分かるだろうと、自分でも内心思っていたかもしれません。

本当は、その経験をした人にしか分からないんです。

だから、人工呼吸器を着けるかの選択がどれくらい大きなものなのかも、人によって違う。

主人公にとってとても重要な決断であることには変わりがないんです。

中学生だったとはいえ、自分の尺度でしか考えていなかったことが恥ずかしく思えました。自分と主人公は、年齢も体の状態も環境も違うのに。

同じようなところがあるからといって、全部が同じなはずがありません。みんなそれぞれ違います。同じ人なんてどこにもいません

だから、私は"違い"を前提に、他人の思いに寄り添える人になりたいな。

今回は意外と重い内容になってしまいましたね😂最後まで読んでくださりありがとうございました!

次回は何について書こうかな🤔思いついたら投稿しますね!

以上、ひかでした〜ばいばい👋🏻

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